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米倉左大夫豊継の墓(史跡と文化財『武川村誌』一部加筆)

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米倉左大夫豊継の墓(史跡と文化財『武川村誌』一部加筆)

 宮脇善徳山江原院の墓地に米倉左大夫の墓といわれる五輪塔がある。
この五輪塔は高さ四五センチメートルの安山岩製であるが、立派な石室の中に入っている。この石室は造建年次が確実なもので、寛永四年丁卯七月上旬八日(一六二七)と刻んである。基礎を含めた総高は一・三四メートル、屋根は入母屋造り、四方隅木入り、二重垂木を備えている。棟には鬼瓦とその下に家紋がある。軸部は幾何的に窓をぬいて、採光、拝礼に便利にし、その上辺は左に月、右に日の相を、真申には額を配刻した入念な造成である。また数級の昇り階段を設け一対の供華用の花瓶が造設されている。
 寛政重修諸家譜によると、米倉左大夫豊継は、米倉宗継の四男として生まれ、初め左大夫のち半六郎といった。武田信玄及び勝蹟につかえ、しばしば軍功があり、天正十年勝板没落の後は、東照宮が甲斐に入国したとき、武川の諸士と共に味方に加わり、北条氏直に属していた小沼の小屋を攻めやぶり、弟米倉彦大夫利継及び伊藤三右衛門重次と共に、首級を得て新府の御陣に献じ、おほめにあずかり御手づから御料の呉服、及び御茶碗を賜った。
 八月六日、氏直よりひそかに中沢縫右衛門某、同新兵衛某を使として、武川の士を味方に属させようとしたとき、伊藤重次とともに彼の二人を討ち取り、御感にあずかり越前継利作の十文字鎗を給わると共に十二月七日
「甲斐国宮脇五十貫文、及び同所において重恩の地二貫五百文米倉左大夫豊継の墓(宮脇江原院)相違ない」
むねの御朱印を戴いている。
 十二年小牧御陣に供奉し、十三年真田昌幸の居城を攻めるとき妻子を駿府に献じ軍功を励ますことにより十四年正月武川の士と同じく一紙の御書を賜った。
 十七年、采地を加えられ、十八年小田原の役に供奉し、家康が関東に入ってから采地を武蔵国鉢形に移された。
 十九年、九戸一揆のとき、岩手沢まで従って慶長五年秀忠に従い信濃国上田城を攻めたのち、采地を改められ、甲斐国八代郡のうちにおいて二〇〇石を知行し、甲府城番を勤めた。
 元和元年大坂御陣に金ほりをして、城塁を穿ったとき、入戸野又兵衛門宗と共にこれを奉行する。その後駿河大納言忠長郷に附属していたが、寛永丁卯四年七月八日(一六二七)七十八歳をもって他界した。法名蓮殻香院日祐という。豊継の子正継、其の子正永、正活と代々左大夫を称した。
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武川町 精進ケ滝(史跡と文化財『武川村誌』一部加筆)

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武川町 精進ケ滝(史跡と文化財『武川村誌』一部加筆)
 山梨県は周囲が山に囲まれ、国立公園が三つ、国定公園が一つあり山紫水明で、自然の景観は全国屈指である。
 本村は南アルプス国立公園の懐に位置し、この山々から発する大武川、小武川、石空川には大小幾つかの滝または名港がある。
 なかでも精進ケ滝は落差一二一メートルあり東日本第一といわれ、武川村としては名勝の一つとして第一等に誇れるものである。
 牧原から車で山高、真原を経て精進林道を約一二キロメートル登り、ここから徒歩で一・二キロメートル石空川沿いに上流に向かって登山道を歩き約一時間で本滝に到着する。
 鳳風山から流れ出る渓谷の水は実にきれいで緑の自然に包まれた景観はすばらしい。この滝は、断層による滝といわれ、下流一・五キロメートルの地点に日本第一級の断層といわれる東北日本と、西南日本とを区分する新潟県糸魚川と、静岡とを結ぶ構造線が通過している。
 この糸魚川-静岡構造線の断層は、再三の活動によって段落ができ、東側は沈降し、南アルプスは上昇した。このため渓流の浸食によって地形は急峻となり遷移点ができたのである。この遷移点が下方浸食によって後退して現在の地点に移り滝ができたのである。
 この渓谷は石空川(いしうとろ)と読み、鳳凰山から流れ出て大武川にそそいでいるが大小七つの滝があり、まさに滝の連続である。
 宝永年中物茂卿(荻生惣右衛門徂徠と号す)、田中省吾(田中清太夫雪翁)とが、餓鬼の嗌(のど)両人この地即ち餓鬼嗌まで探索したが、懸瀑数か所あることは承知しながら精進ケ滝までは登らなかった。
一の滝(魚止の滝)二の滝(初見の滝)三の滝(九段の滝、梯子滝)と続く、昭和三十四年の台風七号によってこの梯子滝はくずれ、現在の遊歩道は迂回しているので見ることはできない。昔はこの滝の右方に添って梯子を掛けて登った。この梯子は毎年青年団の勤労奉仕によって掛けかえられていた。ここから本滝精進ケ滝に至るが、この他六の滝、七の滝がある。遊歩道は滝見台で終わっているが、この地点で眼前に見上げた本滝の景観は格別である。
 しばらく行くと本滝が聳える様に垂れかかり、二一一メートルの水のカーテンはまさに天下の名瀑といえよう。滝壷に降りて天を仰ぐと水が河床を離れて花崗岩の垂直に立った岩合いから落下する様は、水しぶきがかかりすばらしい眺めである。さすが武川村の誇れる精進ケ滝は、ナチ(那智)の滝に次ぐ日本第二位の滝といえよう。
 昭和の初め本村柳沢の出身洋画家牛田喬修は武川小学校(当時は富里尋常高等小学校)在職中「精進音頭」を作詞した。
  「山ほ赤石ね滝なら精進よ
     どんと落すよ七十丈
       ソーラ鳳凰ネ
   六根精浄でネ熊笹越えりやヨ
     青葉にのぞくよ縦の帯
       ソーラ鳳風ネ
   精進立岩ネ水道落しヨ
         みやま
     花の深山は鬼あざみ
       ソーラ鳳凰ネ
   こんな奥にもね山時鳥ヨ
     夫婦気取りか岩の影
       ソーラ鳳凰ネ
 この詞のとおり早春のころ氷結した滝は蒼碧の屏風となり、天下の絶景である。また、夏は目にしみるような青葉と高山植物が咲き、鬼あざみと熊笹道をぬければ青葉の切れ目から覗く七〇丈の縦の帯、夫婦気取りの山時鳥が、岩の影に飛びかい、立岩からの水道落し、二十歳台の牛田喬修は正に精進ケ滝をこの様な表現で作詞した。この詞に本村出身の平田泉鳳(鉄寿)が作曲し、昭和の初め盆踊りなどで盛んに歌われた。
 秋は全山紅葉し滝と花崗岩からなる渓谷美は絶佳で、四季を通じて自然の美しさを満喫させてくれる。
 昔神仏に祈願をするため滝水を浴び身体のけがれをとったこと(垢離=こり)が滝の名称の由来ともいう。

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武川町の歴史 餓鬼の嗌(のど)

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武川町の歴史 餓鬼の嗌(のど)
柳澤信俊(吉保の叔父)が武田滅亡時に隠匿した場所                        
 柳沢の古跡として西山の下にある。柳沢兵部が戦を避けたところであると伝えられている。場所は柳沢から石空川を右にして西南に一里ばかり行くと、川の東に星山の墟が見え、西南に六・七町行くと山葵沢に到着する。飛瀑があってここで沢を捗り急に険しくなり、右に港布を見ながら、樹木が交越して全体を露わさないほどの山中である。
 また、四町ばかりやや平坦の所に出て、草の中を数十歩行くと、突起した方六、七尺の大きな石があり、その石の下は居住できるような場所であると伝えられている。
 宝永三年九月、柳沢吉保の命を受けて荻生惣右衛門徂徠と僚友の田中省吾が甲斐に遣わされた時、武川の柳沢一帯の旧跡を訪ねた。九月十三日、村民の最も困難で、危険の場所として止めたのにもかかわらず、餓鬼の嗌に登ったのである。険崖をおかし、あらゆる困苦を排しながら、漸く絶頂に達したけれど、遂に塁所を極めることができないで山を下り、柳沢寺の旧跡を見ている。帰りは途中で疲れない様に従った人たちの配慮によって馬をやとってもらい、これに乗って、月が東山の上に出て二更に及ぶ頃甲府に帰り宿で、険しい山を登ったにもかかわらず、旅窓に月の光を入れて詩作をしたといわれている。これがすなわち、「風流使者記」として記されて有名になった「餓鬼の嗌」である。

 「甲斐叢記」に次のように記されている。

 餓鬼嗌、澗流に臨たる峻き峰の上にあり山の盤曲たる中間に少しく平なる処三四十間許に十問余りの濶(ひろ)さなり後の方は崇にて前は偉く入口窄くして奥は寛し、地獄変相の中に画たる肚太く嗌頸細き餓鬼という者に似たればとて如此なづけ目(なづけ)しとなん(此名処々にあれども此処は徂翁が遊びし処にて其記文さえ伝りければ特に世に名高く聞えたるなり)其右の方に衝と立たる岩あり下に嵌(あな)空ありて洞の如く数人の坐を設くべき程間の潤  さ僅に五六尺許沙石ざらざらとして足を踏留むべき所なし、実に無双の要害なれば天正壬午の年柳沢兵部丞兵乱を此処に避られしなり。又連接たる処に逸見氏、一条氏等の同じく潜み匿れし塁地あり、古老の話に本州は山河天然の固 あれば古よりして敵国に侵し掠らるゝ憂なかりしに、天正十年織田勢乱入せしかば泰山忽ち崩れ江河の暴に在る如く州民東西に分散て山小屋に入るというは是事にて小屋場など云処諸所の山中に往々あり、国中の武士も妻子足弱をば皆山中に隠し置たることなれば此処も其類なるべし。
 以上のごとく記されているが、なかなかこの場所を極めるには困難のようである。

武川町・白州町の武将 史蹟案内

武川町、国指定文化財 天然記念物 神代桜

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武川町、国指定文化財 天然記念物 神代桜

 武川村には大武川を境として左岸に舞鶴松、右岸には神代桜がある。
この松と桜はいずれも日本一という折紙付きの天然記念物として、今日あるのは、武川村の自然環境がいかに良いかを物語っているといえよう。
 山高実相寺の神代桜(大正十一年十月十二日指定)
 このサクラに就いては「植物編」で詳しく述べているのでここでは省略し、ただこれにまつわる伝説、詩歌などを書き留めよう。

【伝説】

 このサクラは、景行天皇の皇子日本武尊が東国へ遠征の時、この地をとおり記念に手植されたものだという。
 その後、日蓮上人が、この寺にやってきて、サクラの樹勢の衰えているのを心配して、その回復を祈ったところ不思議にもしだいに樹勢がさかんになったといわれている。
 実相寺は日蓮宗身延山の末寺で開山は波木井伊豆守入道日應で、永禄年中、蔦木越前守が本村大津というところから現在の場所へ移転したといわれている。
 今の地は、山高五郎左衛門(武田太郎信方裔の宅跡)ともいわれている。
 『甲斐叢記』によれば、このサクラに関して、
幾百歳をへたることを知らず、花時は遊人うちつづきてたえまなし。朝日に、にほえるを見ふけりて暮にいたる 
ものあり。ある老は、寺院の座敷に宿り、ともし火をてらして夜の姿をめでるものあり、一樹の花、一千人のい
つくしみを受くることを知らず。実に世の中にたぐい稀なる大桜なるべし
記していて、当時の人々のこのサクラへの関心の深さが伺える。
 明治十三年、旧鳳来村(現白州町)の人、塚原幾秋が芭蕉の詠んだ句碑を建立した。
  しばらくは、花の上なる月夜かな  はせを
 また、山高の俳人石原嵩山他有名人が次の和歌を詠じている。
いく春も同じさくらにうかれ出でて 見つゝそあかぬ我がこころかな  守政
春毎にことしも一乗ては大津山 ほなかげにくむ酒ぞたのしき    原千淵咲きにはふ千もとの花を一本に 集めて見する心地こそすれ    清水謙光
大津山大木の桜ひともとは 千本にもまして世ににほふなり    三枝雲岱
里の名の山よりもげに世に高く 聞こえて立てり花のひともと   落合直言
たぐひなき大樹の花をあふぎみて 空にうかるる我心かな     塚川豊一
 

「実相寺の桜」と題して

 
山高みたえず棚引く雲の上 雲と見ゆるは桜なりけり 
雲に入り霞を分けて来て見れば 幾千代経ぬる山高の花
千早や振神世のむかし根ざしけむ 立ちそびえたる山高の花   
山高やほとけ生るるほなのなか              田草川草園
甲斐か板の山高うして初ざくら              清治
千本かと見ゆる一木のさくら哉              琴風
苦労した坂も莱やほなざかり               守彦
見上ぐれば雲に咲き込む桜かな
此頃は月と花との夜明けかな
 以上のごとく数限りなく漢詩に和歌に、俳句に詠じられていることはまことに日本一の老桜のゆえんであろう。
 
 
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 武川村(町)指定文化財 武田勝頼印判状 「黒沢山大堺之事」

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 武川村(町)指定文化財 武田勝頼印判状 「黒沢山大堺之事」

一木家所有武田勝頼印書他(未指定)武川村(町)指定文化財
 
 一
南ハ判行之道より八町庄司みつなぎより北ハ黒沢分として、莫原下道より石うとろわたは、石塔烏帽子石大武川切ニ南ハ黒沢分也 
天正九年辛巳八月廿日 (獅子朱印)
 
 この文言は武田勝頼の獅子朱印を押捺した山境裁定状である。勝頼の獅子朱印は、竜王川除け関係の文書にもあり、民政関係の定吉等に用いたものであろう。天正九年八月といえば、武田家の家運も急激に傾きつつあって、明くる年の三月には最期となる運命に至っていたにもかかわらず、このように権威があったのである。一木家(清兵衛)の家系は代々清兵衛を襲名、黒沢出羽守より出た旧家で、出羽守の子一木主水介長高を祖とする。天正の頃一木清七の代に武田氏より鳳風山黒沢山大堺の朱印状を受けて所有権を確認された。これがその朱印状で、この文書によって以後若神子村(現須玉町)、塚川村(現長坂町)をはじめ近在の諸村から相当の代償を徴収して入会を許したのである。そしてこの権益は武田家滅亡の後においても、徳川家からも承認され、明治初年まで入会諸村は一木家に対して、入山料として相当の金品を納めてきた。


武川衆下之郷起請文(長野県上田市 生島足島神社)

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武川衆下之郷起請文(長野県上田市 生島足島神社)
 
永禄10年 丁卯(156787
 六河衆(武川衆)の馬場信盈らが六郎次郎(武田信豊)を介し、武田信玄に起請文を捧げる。
〔懸紙〕
(ゥハ書)

「 青木 山寺 柳沢 六河衆

丁卯 八月七日
六郎次郎殿」(武田信豊)
馬場小太郎信盈 (花押) (血判有り)
青木与兵衛尉信秀(花押) (血判有り)
山寺源三昌吉  (花押)
宮脇清三種友  (花押) (血判有り)
横手監物満俊  (花押)
青木兵部少輔重満(花押)
柳沢壱岐守信勝 (花押) (血判有り)
        (上田市生島足島神社所蔵文書)
読み下し
    敬白 起請文
一 この己前捧げ奉り仮数通の誓詞、いよいよ相違致すべからざるの事
一 信玄様に対し奉り、逆謀叛等相企つべからざるの事
一 長尾輝虎を始めとし、御敵方より如何様の所得を以って申す旨慎とも、同意致すべからざるの事
一 甲・信・西上野三箇国の諸卒、逆心を企つと雖も、某(それがし)に於いては無二に信玄様御前を守り奉り、忠節を抽んずべきの事
一 今度別して人数を催し、表裏なく、二途に捗らず、戦功を抽んずべきの旨存じ定むべきの事
一 家中の者、或は甲州御前悪しき儀、或は臆病の異見申し候とも、一切に同心致すべからざるの事
右の条々違犯せしめば上は梵天・帝釈・四大天王・閣魔法王・五道の冥官、殊には甲州一二三大明神・国建・橋立の両大明神・御岳権現・富士浅間大菩薩・当国諏訪上下大明神・飯縄・戸隠、別しては熊野三所権現、伊豆・箱根・三島大明神・正八幡大菩薩・天満大自在天神の御罰を蒙り、今生に於ては癩病を享け、来世に到りては阿鼻無間に堕在致すべきものなり。仇って起請文件の如し。

解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
 六河衆連署のこの起請文を含む八三通の武田将士起請文は、これら以外に生島足島神社に所蔵される一一通の文書と共に、昭和六二年六月六日、国の重要文化財に指定され、その重要性を国により証明された。六河衆は武川衆の当時における別称である。巨摩郡北部の釜無川上流一帯に勢力を待った在地武士団で、地名を苗字としている者が多い。
 六河衆の起請文は、本紙と包み紙とから成る。本紙を折りたたみ、大型の良質の和紙(これを懸紙という)で包み、その上下を折り曲げ、
「上
  青木
  山寺  六河衆」
  柳沢
というように記す。これをウハ書という。本紙は紀州熊野三社からもたらされる牛王宝印を捺した牛王統である。牛王紙の裏に起請文が書かれる。その書き出しには、「敬白 起請文」とあり、行を変えて誓約事項を箇条書きに記している。その内容は、
  1. これ以前に捧げ奉った数通の誓詞について、これからもますます相背くことはしないこと。
  2. 信玄様に対し奉り、道心をいだき、また謀叛を企てることはしない。
  3. 長尾輝虎をはじめ敵方より、どんな所得(利益)をもって誘われても、同意はしないこと。
  4. 甲・信・西上野三か国の諸卒が逆心を企てても、私は無二に信玄様をお守り申し上げて、忠節を尽すこと。
  5. この度は、ことに多くの部下を動員し、かげ日なたなく、二途に迷わず、ただひたすら戦功に励む決心でいること。
  6. 家臣の者が、甲州のために悪いようなことや、臆病な意見を申しても、それらに一切同意するようなことは致さないこと。
と、いうもので、どんな場合でも信玄様に忠節を尽して励み抜く、と誓った六か条の誓約事項である。
 次に神文の形式であるが、「上梵天・帝釈・四大天王…」と書き出し、冥界支配の閻魔・五道冥官(五道の衆生の罪を裁く冥府の役人)、それに甲州で一宮・二宮・三宮、国建・橋立両神、御岳・富士浅間社、信州で諏訪上下大明神・飯縄・戸隠、熊野・伊豆・箱根・三島、八幡・天満天神など、二〇社に近い著名な神社を挙げ、前記の誓約事項に違背したときは、これら仏神の罰を蒙るべきことを記したものである。
 次に署名者七名の在所であるが、
馬場小太郎信盈が白須村、
青木与兵衛尉信秀・同兵部少輔重満が青木村、
山寺源三昌吉が山寺村、
宮脇清三種友が宮脇村、
横手監物満俊が横手村、
柳沢壱岐守信勝が柳沢村とみてよいであろう。
(山寺昌吉は、のち武田郷鍋山村に移った)。
 六河衆起請文に連署した七人の名は、江戸初期に編纂されるそれぞれの家譜(系図)には全くあらわれない。たとえば、柳沢吉保の家譜に壱岐守信勝の名は見えない。柳沢家譜において、永禄10年前後の当主は靭負信房で柳沢斎と号するが、格別の事績も記されていない。
 また青木氏の場合も兵部少輔重満・与兵衛尉信秀、ともに同氏の家譜に見えない。同氏は武川衆中での名門で、天文1012月、青木尾張守満懸は、武田八幡宮本殿造営に際し、板垣信方・浅利虎在らと小檀那を奉仕した(同官別当加賀美山法善寺旧蔵本殿棟札写)。この事件は、武田晴信が父信虎に代って甲斐守護になった年のことで、名誉ある本殿造営の大檀那は信自身であった。
青木満懸はその小檀那で、青木氏一門にとり、この上ない名誉の出来事であった。それにもかかわらず、同家譜には満懸・重満・信秀の名は全く記されていない。
 以上のことから考えて、武川衆諸氏が江戸期に幕府に提出したそれぞれの家譜は、武田時代の事績を忠実に記載したものではなく、同族で合議のうえ、無難な記事だけを記して提出したものと考えられる。

武田勝頼、宮脇清三種友の二子に知行増分

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武田勝頼、宮脇清三種友の二子に知行増分
解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
天正八年庚辰(一五八〇)三月二日
   武田勝頼が尾沢縫右衛門尉・斎木作之丞兄弟に知行を与える
<読み下し>
 依田左近助知行、牧原の隠物の事、申し上ぐる如く増役せしめ、改出の内、六貫文の所、三貫文宛を御重恩として宛行われ睪んぬ。ていれば相当の軍役、疎略有るべからざるの由、仰せ下さるる所なり。仇って件の如し。
   天正八年庚辰三月二日     曽祢河内守 これを奉わる
追って、累年勤め来る土貢・諸役等、聊かも無沙汰有るべからざる事。吾等に下し置かる増分の意趣を以て、百姓困窮せしめば、本年具の減らざるように、相償うべきものなり。
尾沢縫右衛門尉
斎木作之丞
<解説>
 宮脇村を知行地とする武川衆の将、宮脇清三種友の二子、尾沢縫右衛門尉と斎木作之丞兄弟に対し、天正八年三月二日、武田勝頼の命を奉じた曽祢河内守は、兄弟平素の忠節に対する賞として、武田家臣団中の信州先方衆依田左近助(名は信吉)が牧原村に有する知行地検地の結果、発見された隠物(かくしもの、隠田に同じ)六貫文を両人に三貫文宛賜わる旨を知らせ、なお追而書きで増分を賜わった趣旨を服麿し、かりそめにも百姓を困窮させるようなことがあってはならない、と戒めたもの。

武川筋黒沢山大堺之事 武田勝頼資料

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武川筋黒沢山大堺之事
解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
 
天正九年辛巳(一五八一)八月廿日
    武田勝痛が武川筋黒沢山の境界を裁定する
<読み下し>
 黒沢山大堺の事
一 南は判行の道より八町 庄司 みつなぎより北は黒沢分として 其原下道より石うとろ(空)わたは 石塔 烏帽子石 大武川切りに 南は黒沢分なり
<解説>
 武田勝頼の短い治世における民政史料として注目すべき文書である。この黒沢山というのは、当時の農民たちに肥料源として不可欠の含窒素有機質肥料、すなわち緑肥、刈敷と呼ばれた山野の草木の若枝・若芽の供給源であったとみられるから、黒沢山の地元黒沢村にとってはその境界裁定の当否は、地元黒沢村民にとって死活の問題であった。この裁定書の内容が妥当なものであったことは、これに対して村民らから異議の申し立てのなかったことから推定できる。黒沢村が、黒沢山をはじめ鳳凰山麓における入会地に特殊の権益を有していたことは、後年、逸見筋の村々から入山料を徹した事実(黒沢一木正喬家文書)によって知られるが、その起源がこの文書に関係があるかも知れない。
 次にこの文書に押捺された獅子朱印の性格について解説してみょう。
 獅子朱印は武田勝頼の公印である。しかし、勝頼がその治世中に使用した印判は、獅子朱印だけでなく、父信玄の使用したものをそのまま襲用している。竜朱印、晴信方形印などはその著しい例である。獅子朱印の使用について、勝転が行政関係文書に使用したことを定めた史料がある。それは竜王町保坂達家所蔵の水防資材徴用令書で、
 「自今己後、以此御印判、竹木藁縄等之御用、可被仰付着也、仇如
  件、乙亥十二月廿三日 跡部美作守 市川備後守 奉之 河原宿之
  郷」
というものである。同一内容のものが八代郡寺尾郷・山梨郡落合郷に現存している。また信州高遠領非持山の池上庄市家所蔵文書にもある。

徳川家康 小沢善大夫本領替地安堵状

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徳川家康 小沢善大夫本領替地安堵状
解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
 
天正十年壬午(一五八二)十二月七日
 徳川家康が武川衆の領袖折井次昌の部下小沢善大夫に与えた本領替地安堵状
<読み下し>
甲州柳沢の内 加藤分三賞文
貫文等の事
右、本給の改替、相違有るべ、
<解説>
小沢善大夫は武川衆の一員で、この日から四日後の三月二日に家康によって武川次衆に列せられている。本衆ともいうべき折井次昌・米倉忠継・山高信直らの階層に次ぐ格式を持つ衆という意味であろう。この安堵状は善大夫に宛てたものであるが、折井次昌が善大夫に代って拝領し、以後も折井家に保管されてこんにちに至っている。
本文のうち、柳沢の内加藤分、牧原の内飯田分、同所(牧原)の山口分、というのは、武田時代の本給を改替して今度新たに知行地になった所という意味である。上記三か所合わせて九貫文の地である。

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徳川家康 甲斐武川次衆定置注文

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徳川家康 甲斐武川次衆定置注文
 解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
徳川家康の甲斐武川次衆定置注文(朱印・印文福徳)
「○武川次衆事
曽雌藤助 米蔵加左衛門尉 入戸野又兵衛 秋山但馬守 秋山内匠助 
戸島藤七郎 小沢善大夫 小澤甚五兵衛 小澤縫右衛門尉 小尾与左衛門尉 
 金丸善右衛門 金丸新三 伊藤信吾 海瀬覚兵衛 樋口左太夫 
若尾杢左衛門尉 山本内蔵助 石原善九郎 名取刑部右衛門尉 志村惣兵衛 
塩屋作右衛門尉 山主民部丞 青木勘次郎
  右、各、武川衆所定置也 仍如件
  天正十年 十二月十一日 」
               (埼玉県寄居町田中晴二家所蔵文書)
<解説>
 武川衆は武田家臣団の中で特色のある武士団として注目され、永禄一〇年八月七日信州下之郷明神々前で六河衆の名で連署起請文を捧げた。
天正壬午の年、武田家は没落したが、武川衆は殆んど無傷であった。しかも徳川家康の手厚い保護により、織田信長の迫害を逃れ、信長横死(本能寺の変)のちは、武川衆の領袖折井次昌・米倉忠継をはじめ、大方の武川衆が家康に抱えられるに至った。彼らは妻子を進んで人質として送り、献身的に尽くしたので、家康は米蔵・折井両人に次の感状を与えた。
「其の郡において別して走り廻らるるの由。祝着に候。各々相談あり弥ミ忠信を抽んでらるべく候」
七月五日 家康(花押)
 
 米倉主計助殿 折井市左衛門尉殿
 
米倉・折井・青木・柳沢・山高・知見寺・山寺・馬場・横手・曲淵などという武川衆の錚錚(そうそう)たる士に対する一紙の感状であったのである。ところがこれだけでは満足できない武川衆の諸士があった。家康に対する忠誠と功績において遜色はないのであるが、なんとなく次の階にランクされてしまったという立場の人々である。彼らの不満を和らげる目的からであろう、「武川次衆」という階を制定発表したのである。その数二六人、武田家以来の名門で、家康への忠信も人後に落ちない。武川次衆注文によって武川衆の士気はいちだんと高まったと思われる。
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徳川家康 折井九郎次郎宛行状

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徳川家康 折井九郎次郎宛行状
 解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
 
天正十一年 癸未(一五八三)四月廿六日
    徳川家康が武川衆折井九郎次郎に与えた宛行状
 
甲斐国有野郷内弐拾参貫文 
河東内東光寺分拾九貫五百八十文 
白須内大輪助三分九百文 
甘利上条内散使免弐貫八百文 
折井郷寺社領壱貫弐百七十文余 
武田宮地内五味分弐貫四百四十文余等之事
右、所宛行 不可有相違之状 如件
天正十一年 四月二六日
折井九郎次郎殿
(埼玉県寄居町 田中晴二家所蔵文書)
<解説>
折井九郎次郎は、武川衆の領袖折井次昌の嫡男で、名を次忠といった。永禄五年(一五六二)の生まれで、武田家没落のときは二一歳であった。この年七月二四日、中道往還を経て甲斐に入った徳川家康を柏尾坂に迎え、主従の礼をとった。以来、父次昌をたすけて対北条氏直戦において奮戦し、翌二年四月二六日に本書の所領を宛行われたのである。
すなわち
有野郷内で二三貫文、
郡筋河東郷(昭和町)内で一九貫五八〇文、
武川筋白須郷内で大輪助三分九〇〇文、
甘利上条で二貫八〇〇文、
折居郷で一貫二七〇文余、
武田宮地郷内で二貫四四〇文余、
・計五〇貫二九〇文余の所領を恩賞されたのであった。
この所領は同一七年一一月二一日に石高に換算して二〇〇石に改められた。翌一八年八月四日、父次昌が小田原攻囲の陣中で病没したので、父の遺跡を継ぎ武蔵鉢形領に移って、采地八〇〇石を賜わり、父に代り米倉種継と共に武川衆の支配を命ぜられた。
 この文書に見える白須内大輪助三分、甘利上条内散使免、武田宮地内五味分、など、興味深い所領の地名、支配形態は注目すべきであろう。
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徳川家康 折井次昌所領宛行状

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徳川家康 折井次昌所領宛行状
 解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
 
天正十三年 乙酉(一五八五)五月廿七日
    徳川家康が武川衆折井次昌に与えた所領宛行状
「本領改替 甲州折居南分参拾五貫文・折居内五貫文・六科内網蔵分五貫五百文・同所山下分拾貫文・亀沢内渡辺分六貫九百文・甘利内土屋出雲分拾六貫文・同所寺分廿七貫文・同所竹内ひかへ前廿五貫文(山屋敷・河原共)・御前分弐拾貫文・卯時免拾貫文・相良分六貫文・新奥内弐貫文・甘利内北方分夫丸壱人 并山屋敷等之事
右、所宛行之所領、最前於遠州兼約候之条、不可有相違、者守此旨、
可抽戦忠之状 如件
天正十三年五月廿七日 家康(花押) 折居市左衛門尉殿
 
                (埼玉県寄居町 田中晴二家所蔵文書)
<読み下し>
 (上略)
 右、宛行うところの所領は、最前、遠州において兼約し候の条、相違有るべからず、ていれば此の旨を守り、戦忠を抽んずべきの条、件の如し。
<解説>
折井市左衛門尉次昌は米倉主計忠継とともに、徳川家康に属した武川衆の領袖として抜群の軍功をあらわし、天正十年七月十五日に感状を与えられて以来、同年八月一し、一二月七日には新恩一四三年三月、小牧の陣が起こると、真田昌幸の押さえとして信州に赴き、ついで尾張に参陣して長久手の戦いに大いに戦功を励み、一宮・楽田に転戦した。この頃のことであろう、遠州浜松城において次昌は、戦功の賞として本領に替えるに肥沃な新領を約したのであるが、この度の本領改替宛行状により家康の約束が果たされたのである。
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甲斐駒ヶ岳は横手村修験当山派本良院によって開山

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甲斐駒ヶ岳は横手村修験当山派本良院によって開山
 
巨摩郡横手村 当山派修験宗格院 本良院
由緒明細書上帳
 最近、南アルプスエコパーク登録以降、甲斐駒ヶ岳開山200年を謳った新聞記事や北杜市内では講演会や記念誌や関連書や企画が多くなってきた。
 しかしそうした記事の中心は開山者権三郎とそれを支えた某家、神社の略歴が中心であり、権三郎の出生地の茅野市上古田村の遺跡も見直されている。
 資料展もあったが、権三郎の活躍と某家の遺物が中心で、当時の宗教界や地域の守りごとなどが等閑にされている感がある。北杜市内には多くの駒ヶ岳信仰の遺跡や石造物も多く残されている。(調査中)
 また、長野県の有名な小説家新田次郎氏の「甲斐駒ヶ岳開山」や考古学者藤森栄一氏の「甲斐駒ヶ岳開山甲斐駒ヶ岳の二人」は内容が大分違う。藤森氏の方がはるかに真実に近いと思われる。
 しかし横手駒ケ岳神社(『白州町誌』)の由緒書は他の社寺に見られるように創作が多く挿入している。また明治以降の神社で、それまでは横手に駒嶽神社は無かった。(歴史資料に見えない)
 江戸時代は特に農村の生業である場の山は地域の村々は厳しい掟や境など約束事があり、権三郎が入山したとされる文化年間には、近隣の白須村や台ケ原村・大坊新田村との訴訟ごともあり(白州町誌)、他国の人が簡単に山に入り、道を開くことなど難事であり、さまざまな他村との交渉や確認が求められ、役所の届け出や許可が必要であり、横手一村でしかも個人で他国人を住まわせ駒ケ岳を開山することなどは有り得ない社会情勢であった。
明治五年に修験は廃止されるが、慶応四年に寺社御役所に提出された書状をここに提起する。〔一部加筆〕
 
 巨摩郡(現白州町)横手村 当山派修験宗格院 本良院
由緒明細書上帳
 一、御祈願道場    但シ弐間半ニ弐間
   本尊       不動明王
   祭礼日十一月廿八日、護摩修行天下泰平国家安全今上
   皇帝御宝祚延長之御祈祷相勤罷在候
兼帯所
一、駒ケ嶽観世音菩薩 但シ護摩堂三間四方 石鳥居 高一丈
   祭礼日八月六日柴燈護摩修行
一、愛宕大権現御社地 
長十四間 横六間 此坪八十四坪
祭り十月廿四日
一、山ノ神社地    
長拾四間 横六間 此坪七十四坪
祭礼 十月十七日
一、神明宮社地    
   但長拾四間 横六間 此坪七十坪
祭り日 三月十六日
一、鳳凰大権現社地 長七間 横四間 二十八坪
   祭り日九月九日
一、風神社地 長七間 横五間 此坪 三十五坪
   祭 七月十日
  1. 水神社地 小社 
    祭礼 七月二十五日
  2. 上今井山神 小社
  右者同村神主拙僧立会祭礼ニ御座候 十一月二度目の亥の日
一、湯大権現     小社
  同じく神主隔年ニ祭礼仕儀処六月十四日
一、妙見大菩薩 小社
一、居屋敷 弐畝拾歩 本良院 但御年貢地
一、院 宅 但八間半 五間
二 土 蔵 弐間半  三間
 
右駒嶽之儀者高山に御座候得者峰三ケ処ニ而御本地観世音菩薩也、中之岳ニハ大権現、奥之院ニハ日輪魔梨支天(摩利支天)大明王ニ御座候、古来別当仕居候処猶又天保十亥年(1839)之時分、私実父故実之時候、江戸上野之宮様ヨリ元三大師之御尊像被下置候時節高山之儀ニ御座候得者、時節差図之上登山人先達致候様、被仰付候処相違無御座候 以上
尤祭り同村ニ御座候得ハ神主等モ立合申候
右者今般御一新ニ付当院兼帯処其外所持之分可書出旨被仰渡候処相違無御座候依之奉書上候以上
 慶応四辰年八月 日
          巨摩郡横手村 駒獄別当
          別納 本良院 ㊞

   寺社御役所

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徳川家康 折井九郎次郎次忠所領検地

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徳川家康 折井九郎次郎次忠所領検地
 解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
 
 天正十七年 己丑(一五八九)十一月二十一日
 
徳川家代官伊奈熊蔵が武川衆折井九郎次郎次忠の所領を検地し、従前の貫高を石高にして書立を交付する
 「甲州御知行書立
一 百四拾壱表壱斗四升九合六勺三才 北武田之郷内ニ而
一 五拾八表五升三勺七才      水上郷内ニ而
           
   合弐百俵 ○(黒印)
 右之分 可被成所務候 取高之外 田島上中下共二壱段二壱斗宛之 
夫銭有 右之分百姓請負一札有之 仇如件
  天正拾七己丑年 十一月廿一日
      折居九郎次郎殿       
    伊奈熊蔵(花押)○(黒印)
(埼玉県寄居町田中晴二家所蔵文書)
<読み下し>
(上略)
右の分、所務成さるべく候、取高の外、田島上中下ともに一段に一斗宛の夫銭これ有り、右の分、百姓請負一札これあり、仇って件の如し」
<解説>
伊奈熊蔵は、三河の人で、祖先は武田家に仕え、甲州流の行政方式に精しく、いわゆる地方功者であった。天正十七年、家康の命を受けて甲斐一国の検地を行なった。二月より開始したという。
折井九郎次郎忠継の所領のうち、北武田郷の分で一四一俵一斗四升九合六寸三才を検出し、水上郷の分で五入俵五升三勺七才を検出したので、右二郷分を合せると、まさに二〇〇俵となる。
当時の一俵は諸家譜の折井家譜によれば、「次忠、天正十一年四月二十六日甲斐国有野・折居両郷のうちにして五十貫文の釆地を宛行はるゝの旨、御朱印を下さる。十七年十一月二十一日、さきの釆地を二百石の所務に定めらる。
とある。熊蔵検地では五公五民で五〇貫文の田地から数二〇〇俵(一俵は大桝二斗)を貢納させ、これが高二〇〇石に相当する。この場合の貫高石高の換算率は一貫文が四石に当たるとするのである。文中に
「取高のほか、田島一段に一斗宛の夫銭有り。」とある実践とは地方凡例録に次のように説明している。すなわち「小入用夫銭の事、自身出ては差支えになるゆえ、村役人へ顧み人足貨にて出す、是を夫銭という。」と。思うに、小人用、つまり小額ではあるが公用でしばしば支出を要する費用にあてるため、予め一率に徹する銭のことである。

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徳川家康 武川衆二十四士重恩之惣目録

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徳川家康 武川衆二十四士重恩之惣目録
解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
 
天正十八年 庚寅(一五九〇)正月廿七日
  武川衆二十四士重恩之惣日録(折紙)
「 御重恩之地
 一、仁百表  馬場勘五郎
○ 馬場勘五郎、美濃守信春の子、民部信義をいう。
 一、仁百表  曲渕玄長
   ○ 曲渕玄長、勝左衛門吉景をいう。
一、仁百表  青木尾張
  ○ 青木尾張、尾張守信時をいう。
一、仁百表  青木弥三左衛門
  ○ 同弥三左衛門、不詳。
一、八十表  馬場小太郎
  ○ 馬場小太郎、馬場信久の子、民部信成をいう。
一、八十表  横田(手)源七郎
  ○横田源七郎、横田は横手の誤り。横手源七郎信俊が柳沢家を継ぐに際
し、某氏の子を養って源七郎と名のらせ、横手家を嗣がせた。
一、八十表  米倉左大夫
  ○ 米倉左大夫、主計助忠継の弟豊継をいう。
一、八十表  米倉彦次郎
  ○ 同彦次郎、丹後守信継の長男清継をいう。
一、八十表  米倉加左衛門
  ○ 同加左衛門、忠継の弟満継をいう。
一、八十表  米倉彦大夫
  ○ 同彦大夫、忠継の弟利継をいう。
一、八十表  曲渕庄左衛門
  ○ 曲渕庄左衛門、吉景の嫡男正吉をいう。
一、八十表  曲淵助之丞
  ○ 同助之丞、吉景の長男で別家を立てた吉清をいう。
一、八十表  折井九郎次郎
  ○ 折井九郎次郎、市左衛門次昌の子、次忠をいう。
一、八十表  青木弥七郎
  ○ 青木弥七郎、尾張守信時の子信安をいう。
一、八十表  伊藤新五郎
  ○ 伊藤新五郎、伊藤玄蕃允重久の子、重次をいう。
一、八十表  青木勘四郎
  ○ 青木勘四郎、不詳。
一、八十表  曽雌民部助
  ○ 曽雌民部助、初名藤助、定政をいう。
一、八十表  入戸野又兵衛
  ○ 入戸野又兵衛、名は門宗、折井次正の兄、また折井次昌の姉婿。
一、六十表  柳沢兵部少
  ○ 柳沢兵部少、兵部丞の誤記、信俊をいう。
一、六十表  山高将監
  ○ 山高将監、宮内少輔信直をいう。
一、六十表  米倉六郎右衛門
  ○ 米倉六郎右衛門、主計助忠継の弟信継をいう。のち丹後守。
一、六十表  山寺甚左衛門
○ 山寺甚左衛門、名は信昌。
一、四百表  折井市左衛門
  ○ 折井市左衛門、次昌、米倉主計助とともに武川衆の領袖。
一、四百表  米倉主計助
   ○米倉主計助、丹後守宗継の嫡男、名は忠継。
折井市左衛門とともに武川衆の領袖。
           成瀬吉右衛門
天正十八年正月廿七日  大久保十兵衛
            日下部兵右衛門
<解説>
 この年一月豊臣秀吉の小田原北条氏に対する宣戦布告があり、部下諸将に出陣準備を命じた。家康の息女は北条氏直に嫁していたので、その立場は微妙であったが、民政の頑冥な態度を怒り、秀吉に応じて出陣と決し、武川衆に出陣
を命じた。出陣の前に加増して士気を鼓舞したのである。
恩賞の額をあらわす表は俵の略用。ここでは廉米の現物支給であろう。石高は知行地で、俵高は現米支給である。高一石は米二俵であるが、五公五民の税率では納米一俵となり、万石万俵といわれる所以である。この目録の奉行衆に成瀬・日下部と共に大久保十兵衛が見える。武田遺臣であるが、民政の手腕を買われてこのように重用されたのである。
 
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郷愁を誘う武川町の民家

富士山 武川町三吹水車公園から望む

雪化粧 白州町花水清泰寺

雪化粧 白州町 駒ヶ岳 釜無川 七里岩

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