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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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武田武将 春日弾正忠 附「甲陽軍鑑」は佐渡で書かれた。

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春日弾正忠

(諸記録名為ニ昌信者多シ、又作ニ昌宣晴昌編年集成ニ晴久トス、紀州高野成慶院所蔵元亀二年(1571)三月九日山県三郎兵衛昌景、高坂弾正忠虎綱連署ノ花押書アリ、荻生茂卿(荻生徂徠)ガ可成談ニモ載之、烈祖成績等従作虎綱今以使僧所ニ写準訂之、文中殊不穏再閲ニ原本非ズンバ難採其余末見的書故ニク姑闕名記ズ)軍鑑ニ云、初メ春日源五郎トテ伊沢(石和)ノ大百姓春日大隅ノ子也、十六歳ノ時ヨリ召仕ハル(時ニ晴信廿二歳卜云、天文十一寅年カ、伊沢ハ石和ナリ、今有春日屋敷トイウ)三十日ノ内ニ近習ニナリ使番ヲ歴天文廿一年(1552)士隊将ニ抜擢シ、百騎ヲ領シ、弾正卜改称ス、又五十騎ヲ増シ明年出信州小室城代為ル(「勝山記」ニハ同廿三寅年八月小室自落トアリ)弘治二年(1556)海津城ニ遷ル、三百騎ヲ加へ河中島ノ諸士ヲ合属シテ、北越ニ備フ旗ハ朽葉ノ四方、食邑九千貫至ル、永禄四年(1561)高坂某誅シ、弾正ニ其家蹟ヲ賜フ、因高坂氏卜為ルトアリ、爰ニ上杉輝虎数度川中島ニ侵入ルト雌モ終ニ海津ヲ攻ルコトナシ、弾正モ不敢動揺、晴信出対輝虎ニ及ヒテ弾正ハ常ニ持奇兵戦ヲ専ニセス、或ハ引私属北越ノ地ヲ掠略スルニ、輝虎亦迎へ戦フ事ヲ為サス、良将用兵ノ進退後人ノ所得評ニ非スト云云、天正三年(1575)勝頼大敗長篠遍ル時ニ弾正往伊奈駒場迎之、勝浦ノ旌旗亀甲持鎚藍幖矢服等ノ諸具ニ至  ルマデ、弾正カ多年私調儲テ所備不曲筆不虞悉補欠於是カ、勝頼軍ヲ整エテ凱旋セリ、弾正ノ為人温順ニシテ智略アル事此類ナリトイウ、按ニ春日ハ「軍鑑伝解」ニ信州ノ先方ニ春日播磨アリ、春日部ハ本信州ニ出ツ春日部氏、為ニ甲斐守ノ事、「東鑑」ニ見エタリ、高坂地名在佐久郡光明寺残篇元弘中、高坂出羽権守、「浪合記」応永中高坂四郎高信トイウ者アリ、「横雲記」、「李花集」ニハ、作香坂・香坂モ地名ナリ、埴科郡又高遠大草ノ北村ニ光坂源五郎トイウ者アリ、家ノ紋十六葉ノ重菊下ニ一文字有リ、即チ弾正ノ胤ナリト聞ク、然レハ高・香・光ノ三字無異因普通用ヰルナリ、永禄中誅高坂・仁科・高梨等卜云ハ、旧記ニ高坂安房守トモ見エタレド、仁科ノ条ニモ云フ如ク可否未詳、弾正ニ高坂ノ家蹟ヲ賜フニ因リテ、人喚ヒテ高坂卜云フカ未見、書ニ高坂弾正証文、東新居村某所蔵永禄十丁卯(1567)十一月廿三日、授禰津氏、信玄ノ朱印ニ就箕輪在城云々、猶春日弾正忠可申候、今諏万村某所蔵三月六日信玄ノ書簡(甘利氏ノ譜中所訂元亀三年ナリ)ニ白井不日ニ落云大慶ニ候云云、仕置ノ儀ハ箕輪在番ニ候条、春日弾正忠談合尤候トアリ、駿州大宮神馬奉納記ニモ神馬弐匹春日弾正忠、同壱匹春日中務少輔卜見ユ、是ハ長篠役後ノ記ナリ、右三章ヲ校スルニ、皆春日ト書シテ、高坂トハ無シ、非改氏コト可訂定カ、因テ姑ク書本氏ノミ、又箕輪在番ノ事モ諸録ニ記スルコトナシ、弾正ノ墓ハ海津 (今云松代)東地蔵嶺ノ下関屋村明徳禅寺ニ弾正夫婦ノ石塔アリ無銘、塔前ノ石花瓶ニ十六葉ノ重菊ヲ彫リタル定紋ナル事訂スヘシ、元文中(173640)再建ノ碑ニ「憲徳院玄蕃香道忠大居士、天正六戊寅(1578)五月初七日逝ス、高坂弾正昌信一刻アリ、銘文略之拠「軍鑑」年五十二。

高坂源五郎正澄

(高坂氏ノ事ハ雖明拠雖モ無シ、諸録ニ従イ之ニ記ス、其名昌澄、昌宣、信秀作ル者アリ未詳)
弾正ノ長男ナリ、長篠ノ攻手ニ在リ、後ニ分軍圧城兵ノ備アリ、源五郎其部ニ将トシテ此ニ戦死ス。

高坂源五郎

 全集伝解、三国志等ニ皆云長子源五郎死シ次子又源五郎卜称ス(末書ニ云高坂弾正父子三人又三男勝五郎トイウ者ヲ載ス)弾正死後之ニ代リ、海津城ヲ衛ル、天正七年(1579)駿州沼津城ヲ築キ、源五郎本部兵ヲ分チ(五分一ノ役)之ヲ護ル、小田原ニ相対ス、壬午ノ時開城還ル(此頃ノ童謡ナリトテ今モ駿州ノ俗間ニ讃歌アリ)
  沼津の城が落たやら弓と箭と小旗の竿が流るゝ
 源五郎来謁スルニ、勝頼卿カ怪色アリ、故ニ引丘ハ海津ニ至リ後ニ真田安房守昌幸卜通謀恢復オヲ企ツト雖モ其事不就終ニ上杉景勝ノ為ニ誅セラレ部下ノ士ハ尽ク景勝ニ降リシニヤ、按ニ三月織田右府勝国諸将ヲ分封シ、河中島四部ハ森庄蔵長ニ授ク(今所在長一ノ文書存ス)此時源五郎ハ景勝ニ降リシニヤ、不詳六月信長横死シテ諸将皆捨封邑敗走リシカバ、景勝河中島ニ出張シテ海津ニ拠ル、「隔年集成」ニ七月廿三日北条氏直信州ニ入ル、真田昌幸、高坂源五郎一合謀属之(中略)廿五日、景勝於海津城内、源五郎妻子共ニ磔ニ掛トアリ(「烈祖成績」ノ注ニ引「松栄紀事」十一年三月、大久忠世入佐久郡景勝之兵高坂弾正雖奮戦不剰(アマツサエ)按ニ弾正虎網長子源五郎戦ニ死、長篠以弟某襲称源五郎、虎網死統ニ領部曲、勝頼滅後降ル、于景勝乃改称弾正、乎然無明拠故取ズト、一年ノ事トスルハ最モ非ナルヘシ。

高坂又九郎

(記録ニ長篠討死ノ内ニ見ユ、或ハ名助宣ニ作ル、「信長記」ニ番坂ニ作ル弾正ノ族ノ人カ末考)
 

春日惣次郎

軍鑑ニ弾正ヲ父方ノ甥也、壬午ノ後(天正十年)神保家中ニ便リ、越中ニ居リテ弾正ノ所記「甲陽軍鑑」ヲ修補セシト云々、「古戦録」ニ高坂弾正昌信ノ養子春日宗次郎昌元、ニ弐百余騎添へテ沼津ノ城ヲ守ルトアルハ源五郎ノ事ヲ謬リ記シタルナリ。
《筆註》
 
<「燕石雑誌」滝沢馬琴著>にある「甲陽軍艦」の記載者
 佐渡と甲斐の関係の深さについては、別号で簡単に述べたが、それより山梨を代表する武田信玄をはじめ、信虎・信玄・勝頼の三代の戦跡や事案を詳細に書いてある。「甲陽軍艦」は最近では一部の間違いを除けば誰もが認める歴史書として通用している。言い換えればこの本がなければ武田信玄や山本勘助の事績も不詳となる。
 しかしこの記載者についてはさまざまな説があって定まっていない。ところが江戸随筆集の中に、それに関する記述があり、早速佐渡に跳んだ。そして実証される春日惣二郎の墓を詣でて、さらに佐渡と甲斐の関係の深さに感銘した。
 甲府市に佐渡町・相川町もあり、それらも関係があることが諸書によって確認できる。これについては別記する。
なお文中の石井夏海について確たる資料がある。

両巖図説并春日宗二郎傳(「燕石雑志」)

この書稿じたる頃、佐渡国雑太(さはた)郡相川人石井文吉(平夏海)江戸に来て、わが草履を訪われしかば、彼の二ツ岩なる老狸弾三郎が事、医師(くすし)の奇談など、その虚実を問えば、みな是古老の言伝えたる処にして虚談にあらず、かかる著述あるべしと思いかけねど、コダミ夏海が東都へ参るによりて、都人語りつがばやとて、九月十八日の朝まだきより、かの二ツ岩へ行きて、自ら図したる一張りをもって来たれり。もしその巻の終わりに追加し給わらば、幸い甚だしからんと云う。ここにはからずもその図を見ることの喜ばしければ、模写してこれを載す。この日「多門筆記・さはとひっき」全五巻二冊を得たり。その書に順徳院の山稜苔梅及び二見の老梅、真野山の古松、船形の化石等種々の異聞多かり。また高坂弾正の甥惣次郎当国へ漂泊し、竹田村太運寺において、甲陽軍鑑を書き継ぎ、四十歳の春三月歿す。墳墓は太運寺羅漢堂の側にあり、叔父の弾正も渡海して新穂村に居住し、軍艦を著述せしが備えずして死(みまか)れり、その後高坂喜平治(弾正猶子)も相川山の内に漂泊して山稼ぎをする。是を高坂間歩と云う云々、因に此処に抄録する。

【注記】燕石雑志(えんせきざっし)

江戸後期の随筆。56冊。曲亭馬琴著。文化 8年(1811)刊。多岐にわたる古今の事物を、和漢の書物から引用しつつ考証したもの。

佐渡の洋学者 石井夏海(「図説佐渡島歴史散歩」による)

絵図師石井夏海は、相川町下京町郷宿を職業とする石井善兵街の長男として天明3年(1783)に生まれた。静蔵といい、夏海は号である。
幼少のころから絵が好きで、のち紀南嶺や谷文晃について学んだ。また、司馬江漢について、測量術や天文学、さらに西洋画の技法を学んだ。
夏海は、文化12年(1815)、33歳のとき、佐渡奉行所地方御役所絵図師に採用され、郷宿の稼業を弟に譲り分家する。御手当は御歳払米一カ年五斗であった。奉行所にて『佐渡地誌』の絵図の取り調べや、奉行の巡村に同行して、佐渡の各地方の絵図製作をする一方、異国船の図や横文字の写し、また、小木湊内外「両喘御普請計画書」の作成、「孔子廟御普請御取掛り」の仕事などをする。この間、夏海の子息文海は、文政7年(1824)に地方役所絵図師兄習として一カ月給銭500文にて雇われている。天保元年(1830)には、夏海、文海が「相川年中行事」を極彩色豊かに描いて鈴木奉行に献上するが、相川の町並みを描くにも西洋画の技法である遠近法が用いられている。
天保7年(1836)、51歳の夏海は文海とともに、享和3年(1830)の伊能忠敬の測量をもとにして、元禄7年(1894)の測図を改正した「佐渡国絵地図」を作製し、江戸幕府の勘定所に納めた。
夏海は佐渡奉行所絵図師としてのみならず、文人として俳諧歌は北川真顔の門人として判者を許され、また、纂刻にもすぐれ、滝沢馬琴、菊地三馬、近藤守重などとも交遊があった。自らも、「弥彦弥三郎姨双岩弾三郎狙小萬畠双生種蒔 全六冊 作者佐渡国人安潤堂夏海著」という戯作の引札を残している。しかし、夏海が佐渡奉行所の絵図師の官職についたためか、刊本にはならず、稿本として残されている。
また、馬琴の『南総里見八犬伝』第九輯の巻頭に、夏海のこととして
「こがねなす君がことの葉なほ見まくあなめでたしとほりす佐渡人」
の歌を掲載している。夏海が、『南総里兄八犬伝』の犬士を佐渡に来させてほしいと申し入れたためか、馬琴の書簡に、「犬田小文吾は越後から引き返したので佐渡のことは、いずれ工夫したい」とあったといわれる。
なお夏海には、俳諧歌でも相川において十数人の社中を率いてつくった「藻潮集」という集があり、「鴬はいくらの歌をよみぬれどいづれ古くは聞えざりけり」などの歌がある。
夏海は、書斎のほかに、絵画、纂刻、雑技の部屋をもっていたという。嘉永元年(1846)没、享年65であった。
 
苔むした墓の中で、惣二郎はどんな想い出山梨の歴史界を見ているのであろうか。どの墓石が誰かわからない。しかし甲陽軍艦は佐渡で書かれたとの確信を得た。

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