柳沢吉保、日本経済事情 総理の月給四億円
大老柳沢吉保の場合
山口博氏著(富山大学教授)一部加筆
金力による占いと禊(みそぎ)
昭和が平成になっても、80年代から90年代に変わっても、動かなかった山が動いても、日本人の政治感覚はあんまり変わらないらしい。
一カ月前の総選挙の候補者の言動は、近代以前そのものだ。曰く「90年代を
占う選挙」、曰く「みそぎの選挙」。そして土下座。
古代では、天の声を聞くということで亀の甲や鹿の骨を焼き、できたひび割れの文様から政治を占った。
「易」という字は、トカゲの象形文字化である。トカゲの体色は変化する。つまり、「カメレオン」であるが、その体色の変化と、天下の千変万化をドッキングさせて、「易」の文字はできた。なるほど、それで分った。
「九〇年代を占う選挙」と言っていた諸公の、選挙前と選挙後の言動の変化することが。「みそぎ」も神話の時代からの政治感覚。罪汚れを洗い清めて、神に近づくにふさわしい体となる行事である。
太平洋戦争中は、現人(あらひと)神天皇に奉仕する体となるためみそぎをした。今「みそぎ」を言う諸公は、罪汚れを払って、何の神に近づこうというのか。占うのも、亀の甲や鹿の骨ではなく、金の力。「みぞぎ」も金を湯水の如く使って流す。金ある者が巧みに占い、「みそぎ」を果たす。
派閥の領袖の問われるのは、政治能力よりは金集めの能力だ。領袖と子分は個人的な結び付き。迎合と賄賂の横行の果てが、ロッキードやリクル-トの事件を生む。
柳沢保明初任給二十六万円
政治家の個人的な結び付きの制度化したのが、江戸幕閣の側用人制度。この個人的結合の制度を作った将軍綱吉の側用人柳沢吉保は、館林藩時代からの親分子分だ。館林藩士保明は、藩主綱吉の小姓からスタート。綱吉が将軍になったので、保明はそのまま幕臣となる。
小納戸役で、サラリーは年俸禄高160石と役職手当として蔵米370俵。23歳の時である。
小納戸役というのは君側の職で、将軍の身辺雑務を担当する。定員は100名
程。保明は、小姓・小納戸役と初めから綱吉の側近だったのだ。
23歳の幕臣としての初任給は、現在の貨幣価値に換算すると、どのくらいだ
ろうか。分かり安いように、1石当りの換算をまずしておこう。
1石=100升=140キロ
現在の自主流通米を1キロ400円とすると、
400円×140=56,000円
四公六民で税率は60パーセントだから、
5600円×0,4=22,400円
1石が22400円である。160石では、
22,400円×160=3,584,000円
これに役職手当370俵が付く。
370俵=480斗=14,800升=2072キロ
400円×2072=828,800円
この手当は課税されずまるまる貰える。
3,584,000円+828,800円=4,412,800円
年俸4,412,800円となる。
ボ-ナスを年間五カ月としで月給に直すと、
4,412,800÷17=259,576円
23歳で259,576円とは、我々に比して驚くべき高額だ。
翌年天和元年(1681)に300石加増されて460石。蔵米も禄高に改めら
れて、計830石になる。小納戸は500石、納戸頭は700石の職だから、役職
相当以上の厚遇を得ていたことになる。
460石を換算すると月給606,019円。部長クラスというところか。
七年間で給料20倍アップ
保明のその後の加増は著しい。
元禄元年(1688)22,000石。そして側用人になる。従来、将軍の側近の最高の職は、側衆である。その地位は若年寄よりも下で、役高は5,000石。綱吉が将軍に就任して、新たに設置した側用人の石高は老中に準じる。この個人関係的色彩の濃い職の設置により、側近の地位は、幕閣公的官職のトップである老中と、肩を並べるに至ったわけだ。
保明の石高を換算すると、1石が22,400万円だから、12,000石なら、
22,400円×12,000=268,800,000円
268,800,000÷17=15,811,764円(この月、「17」の単位が理解で無い)
実収が15,811,764円。年俸ではない、月給である。
前職の月給が60万円だから、7年間で20倍強のアップだ。抜擢されたもの
はこたえられない。
親分にさらに迎合し土下座して忠誠を誓う。個人的繁りの政治の醍醐味はここにある。側衆は旗本の職だった。そのエリート職を奪われた旗本の恨みは深かったに違いない。
元禄3年(1690)22,000石
元禄5年(1692)52,000石.
元禄7年(1694)62,000石
川越城主、老中格
同年92,000石。武蔵・和泉・摂津の地を領す。
元禄7年、92,000石
大老吉保月給2億円
元禄14年(1701)には家門に准じられて、松平の家名と将軍の名の一字を賜わり、松平吉保と称した。
元禄15年(1702)94,000石
宝永元年(1704)151,200余石 甲斐駿河の地を領す。甲府城主。
甲府は徳川家の一族や親藩が置かれるか、幕領であったところである。松平吉保と称したとはいえ、所詮徳川家以外の人物である。このような人の甲府城主となる事とは、全く異例である。だから、辞令には、
甲斐国は枢要の地にして満と我が宗室の国と為す。是を以て、臣下に之を封ぜらるるを得ず。惟り吉保は勉励三十年にして、忠貞古今に冠絶す。故を以って、巨摩・八代:山梨の三郡を以て、全く之を封ず。
というのだ。
石高の15万石を換象すると驚く程の高額になると思うが試みてみよう。
1石は22,400円である。
22,400石×15,000=336,000,000円
336,000,000÷17=197,647,000円
吉保の月給実に2億円であった。
慶安2年(1649)制定の幕府軍役規定は、10万石で2,155人の部下を養
う事を義務づけている。この月給には、部下の賃金・生活費を含むとはいえ、高給取りであることには違いない。
一般に、吉保の昇り詰めた石高は、15万石というが、『藩翰譜続編』は奇妙なことを記す。
翌年(宝永2年)駿河の地を返し奉りて、甲斐国を給ふ。この時額定は33万石ばかりなりといヘども、御朱印には記されず。