素堂の嫡孫、素安について
嵐雪
九月十日素堂の亭にて(『廣野集』、所収)
かくれ家やよめ菜の中に残る菊 嵐雪
筆註
この句は素堂没後の素堂号や孫の存在など重要な役割を果たすことになる。
享保二十年(1735)の『毫の龝』(ふでのあき)寺町百庵著。
執文朝が愛子失しに、嘆き我もおなしかなしみの袂を湿すことや。往し年九月十日吾祖父素堂亭に一宴を催しける頃、
かくれ家やよめ菜の中に残る菊
といひしは嵐雪か句なり。猶此日亡日におなしき思ひをよせて
十日の菊よめ菜もとらず哀哉
かくて仏前に焼香するの序秋月素堂が位牌を拝す百庵素より素堂が一族にして俳道にして志厚し。我又俳にうとければ、祖父が名廃れむ事を惜み、此名を以て百庵に贈らむ思ふに、そかゝるうきか中にも道をよみするの風流みのかさの晴間なく、たゝちにうけかひぬによつて、素堂世の用る所の押印を添て享保乙卯の秋九月十一日に素堂の名を百庵にあたへぬ。
山口素安
その後素堂号は佐々木来雪に譲ることになる。(『連俳睦百韻』参考)
筆註…
…素堂の親族や周辺には、『甲斐国志』記載内容以外に重要な事項が目白押しである。
この嫡孫素安の存在もその一例である。この『毫の龝』が編まれた年は、享保二十年であり、「素堂亭」も健在であり、嫡孫素安の出現は新事実である。素安が素堂の実子であるかは定かではないが、寺町百庵や山口黒露、それに妻や妹など、素堂の家系の再調査が必要である。