『柳沢吉保 元禄太平記』
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- さても綱吉公には脚気欝を散ずるため各所へならせ給いしが、柳佐和の邸にて御覧ありし舞妓が深く御心に叶いしより日夜とも御酒宜宴あらせられ、かの舞妓を相手に婬酒に耽り給うようなった。そこで、
- 「このほど君の御行状は、美女を召し抱え婬酒にふけり給うのみ、なんとか御改正あってしかるべし」
- 井伊掃部頭登城なし牧野備後守へ申されたるゆえ、牧野は君へ御諫言申上げたるがかえって御不興を蒙り側役御免となりたれば御側御用人は柳佐和一人とあいなった。
- そこでその後の柳佐和は万事心のままに綱吉公へ媚を献じるのにあくせくした。
- さてその頃、新吉原三浦屋次郎左衛門の抱えの遊女で、当時全盛の聞え高き大町清浦らを大金にて身請し、妻おさめにも遊女の粧いをさせた柳佐和は、頃も弥生の中旬にて庭前の桜盛りなれば、綱吉公へお成りを願いして、殊に仰喜悦の脚気色なされるようにと、その用意をなした。
- 時に三月十九日、綱吉公が成らせられ庭の景色をうつし、暫くあって柳佐和の妻「おさめ」が遊女の粧いにて新造やかぶろを連れ八文字にて徐々と姿をみせ、やがて綱吉公の御側へ参ると、色眼をつくって長きせるの吸いつけ煙草をさしだした。
- そこで「おさめ」が容色に迷いたまいし将軍家は酒興に乗じ怪しくなられ、とうとう泊ってゆく旨を仰せ出された。ゆかしき移り香は還御後も消えやらず、その後も将軍はしばしば成らせ給うほどに、「おさめ」やがて懐妊をなした。
- 「もし御男子出生ありたれば四海の王」と喜びあっていたところ、月みちて御男子出生ありたれば柳佐和夫婦は天へ昇る心地にてその由、君へ言上に及ひたるに、将軍は御祝儀として二万石を下しおかれ、よって合計十五万二千石となり、美濃守と改め、松平の称号を賜り柳佐和の威勢十よ他に並ぶものなきようになりしとぞ。これより将軍家には御治世二十五年に至りたれども、さて御世継なく、よって老臣評議のうえ甲府宰相綱童公の御子息家宣公と定め大納言に任じ西ノ丸へ御入りありたり。
- さてこの君聡明にますます御孝心深く、きわめて至仁の聞え高く衆人その徳を賞されていた。
- しかるに綱吉公には柳佐和の家に仰男子出生につき、なにとぞ我が血統を以て相続させんと思えど、一旦家宣公卿養君となしたる上は、もはやせん方なし、いかがせんと思い煩い仏給いたまえていたり。
- ある日護持院僧正を召され何か御相談ありたるが、程なく将軍家には怪しい御病気を発したるゆえ、護持院を召され西ノ丸に於て御病気を平癒を修したるが、何の修法であったのか御病悩は逆にいやますばかり、ついに御発狂のていなれば、井伊掃部は深く怪しみ、ある夜白身で西ノ丸へ当直を養目(ひきめ)の法を修したに不思議なるかな将軍家の御病気が速やかに御平癒ありたり。
- 掃部頭はさてこそとそれより護持院僧正に面談の上、修法の件を詰問あり以後は登城無用ときびしく言渡された。そこで護持院僧正は戸も出せず赤面なして、そのまま御城を下っていった。
- さてもおさめは或る日、綱吉公の御酒宴の席にでて、そっと御機嫌をうかがっていた上で、
- 「私こと賤しき身にて度々君の御惰をばいただき、ついには御胤をやどし今の越前守殿を生みました。しかし可哀そうなのは、あの子でございます。この身に表向きの夫が居るばっかりに、越前守どのは正しく君の御胤であっても何ともなりませぬ。先年御養君が甲府より西ノ丸へ入らせられ御世継ぎとして定まりましたゆえ、越前守どのぱ御城にて御誕生ましまさば、正しく御世継になり給うべきに、賎しきこの身にやどり給いしゆえ果報ったなきこととなり申し、生みし身としては辛うございます」
- 涙ながらに袖をひき訴えたゆえ、綱吉公もさらに心を乱し給い、「なる程、越前守は我子に相違なき故に世継となさん、と思えど一旦家宣を養子となしたれば今更せんすべなし、よりてこれまで種々に手だてをめぐらせど事ならず。されどここにひとつの手段あり。来る正月十一日は具足開きの式日なれば当日は老臣を遠ざけ、家宣を千討ちになしてしまい、そして、「さめ」の生みたる高子をば次の将軍にしてやらん」と仰せられ、
- 「万が一にも事ならざる時は、やむを得ぬから其方の生んだ兄をば百万石に取立て、甲斐の国主となすべし」
- と仰せあり、料紙や硯を取よせ給い、甲斐信濃二ケ国にて百万石を迫て沙汰すべきものなり松平美濃守へ、と御白筆にてしるしたまい、「おさめ」へ御渡しあそばされた。
- おさめはこれを頂戴なしありがたく御礼申し上げ、なおも御心を慰さめ奉まつり御酒宴も終りたれぱ、いつものごとく御寝所へ伴い将軍家もその夜は柳佐和御殿へ泊りたり。
- さて翌朝、綱吉公は改めて松平美濃守吉里を召され、其方の数年来の忠勤は類がなきよりこのたび甲斐の国主となし百万石をあてがうべしと、御墨附を給わりたれば、吉里謹んで御請け申した。
- お伴してきた柳佐和へ将軍家は声を落し思う仔細もあれば、当分はこの事を他へ披露すべからず、との上意にて、承知した美濃守も有がたく御礼を申上げ御前をまかり出たり。
- さても光陰は休むこともなく、その年もくれて明ければ宝永六年の春を迎え、あら玉の正月となった。
- 御祝いの元旦の儀式も七種の年賀の膳もおわり、正月の十日とぞなりにける。よって明十一日は具足開きの当日なれば将軍もおわせまし、それゆえ明日は西丸家宜公と御跡目に正式に決める儀式をとり行なう。そのため水入らずにつき掃部頭始め老中も出席に及ばざるむねが将軍自身より仰せ出された。
- 掃部頭これを聞きふしぎに思い、万一家宣公に凶事あっては国家の人事で大乱のもとはこの上へ有るべきはなしと、すぐさま御前へまかり出て御機嫌を伺い言上なしたるは、
- 「明日は仰具足開きの御祝いにて、当日は親子御二方のみにて行い給い、愚老を始め老中の者は出席に及ばざるよしのお達しですが、さりながら私めは老年に及び候て、明をも知れぬ命に思えば今生の思い出になにとぞ出席をお許しなされたく、この段願い奉まつる」
- と、心配して申し上げた。
- が、将軍家にあっては御許しこれなく再三しいて願いたるに、御不興に思いめされ、
- 「以後は出仕に及ばず早々に国元へ立戻り隠居住るべし。しかしこれ迄の勤めを思し召され」
- と貞宗の御刀を拝領仰せられ、それで御前を伺候下りはしたが忠義一途の掃部頭そのまま大奥に到り御台所へ御目通りを願いでて御前へ伺候すると、今日の始末を言上に及び御暇乞いの為参上仕ると落涙に及んだ。
- かねて賢明の御台所は掃部頭の意中をすぐ推察なさり万事みずから心をくばり、どうか国許へ戻っても、息災で居れよと仰せられ掃部頭に別れを告げ給えり。
- そして君御不例の由なればと御台所は御見舞を出された。そのためその夜は当直の者を休息させ、引き退らせて待っておられると、
- 「わしは元気である」と将軍家は心配させまいと、大奥へおもむかれた。そこで奥女中にて御寝所を出められ御台所は直接に将軍家へ御談判の様子であった。
- やがて夜中であったが諸役人総登城して具足開きに参列せよと叩令がでた。
- 家宣公はこのため無難に御家督と定り、松平美濃守は御役御免遠慮仰せ付られる結果となったのである。
- その後百万石の墨付を取戻さんとして井伊掃部頭は、柳佐和中家へ到り美濃守吉保を説き伏せ難なく御墨付取戻しに成功。よって美濃守は隠居しで子息の吉里が家督相続をなし、甲斐守と改めて大和の郡山において十五万千二百石余を賜った。吉保はやがて入道して保山と号したが、妻のさめと仲良く安堵のおもいをなしてすごした。
- これひとえに御台所の貞烈によるものと掃祁頭の誠忠のなす所なりという。かくてこの後は事故もなく相すみたのである。間もなく御台所にあっては御逝去あそばされたが、御自害のよしも風聞せり。
- 時に宝永六年五月朔日、家宣将軍宣下あり徳川六代の君と仰がれけるとぞめでたかれ…
- ……適当というか、でたらめというか飛んでもない話である。綱吉が、おさめにかきくどかれて世つぎときめた家宣を手討ちにして殺してしまおうとしたとか。御台所(原文では御産所)が談判して取りやめにさせたが、妻としては婦徳に反するのではあるまいかと反省して自殺というのは可笑しい。
- また幕末有名だったが桜出門外の変で、殺された井伊掃部頭がでてきて大活躍するけれど、元禄十三年まではたしか井伊直興が大老だったが、その後はずっと柳沢吉保が大老なのである。
- 江戸時代の幕閣にあって、大奥の御台所の許へ、井伊が別れを告げに行くあたりは「南部坂、雪の別れ」 の忠臣蔵の模倣である。男子禁制の所ゆえ大老でもゆけはしない筈である。また、夫と共にいるおさめが妊娠したからといって、綱吉の子であるというのも変である。
- それに初めは舞妓が気に入って通ったのが、途中から人妻のおさめに転向もおかしい。
- 少女趣味の男が成熟したおとなの女へ、好みが変ることなど常識ではありはしない。
- また護持院が祈祷して病状を悪化させたのを、井伊が拝み直して治したというのもひどい。
- 今でいえば劇画のように挿絵を主にしたものゆえ、とやかくいっても始まらぬが、宝塚で大正時代にレビユーを始めたとき、衣裳代の関係で袖の短かいものをきせ、これに和洋大合奏の賑やかな曲をつけたのが、「元禄花見踊」のタイトルであったため、「元禄時代」といえば何か派手な連想を台え、天下泰平だったようなイメージをもたされてしまい、それが今では常識のごとく固まっているが、とんでもない狂乱な大弾圧と大冷害の時代だったのは、これから書く柳沢吉保の実際によって判ってほしい。
- 真の元禄時代を解明してゆくには、彼を通して書くしかないから、これまでの俗説を打破するために、次々とここまで愚にもつかぬものを羅列してきたのを御侘びする次第である。
- さても綱吉公には脚気欝を散ずるため各所へならせ給いしが、柳佐和の邸にて御覧ありし舞妓が深く御心に叶いしより日夜とも御酒宜宴あらせられ、かの舞妓を相手に婬酒に耽り給うようなった。そこで、