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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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『柳沢吉保 元禄太平記』その一

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『柳沢吉保 元禄太平記』
 
 ここに提示した資料は、私の最も尊敬する八切止夫先生の手による、『柳沢吉保 元禄太平記』のはじめの部分から転載しました。
 先生は多くの歴史書を著されていて、私の手元にも数冊あります。先生は孤高の研究者で、その独特の歴史観と調査範囲の広さは他の追随を許さないものが感じられます。先生はその時代の歴史学者と一線を引いて活動しておられ。ある意味では異端児扱いを受けていたとも聞いています。
 また先生の本は現在でも高価で、人気の程が伺われます。先生の書いた柳沢吉保関係の本は多数あると思われますが、出会った折にまた紹介します。
 歴史は創られる場合が多々あります。山口素堂それにこの柳沢吉保それに
 この講座は柳沢吉保を悪者に仕立て上げた人々の資料とその真意を探っていきたいと思います。
 
1974(昭和49年)刊。
なる実録本がある。これが種本になってまず上方では、
なる芝居が、寛政五年(1793)正月に大坂角座で上演されたし、江戸では文政二年(1862)五月に鶴屋南北作るところの、
「梅柳若葉加賀染」が玉川座で大当りをとった。明治に入ってからは、
「裏表柳のうちわ絵」を、河竹黙阿禰が書下ろし、
中村座で、柳沢吉保役の九代目団十郎と、おさめの役の岩井半四郎のからみで、江都の人気をさらった。
 だから芝居を史実と思い誤る人や、実録本とあるのを売らんが為の能書きとは思わず、文字通りに受けとった人々によって、今でも、すっかり間違えられて、
(柳沢弥太郎というのは、百五十石どりの小姓組番頭の身分から立身しようというので、悪事を働いた侫臣)といったことにされてしまい、
「元禄年間の悪政は将軍綱吉が悪いのではなく、そそのかした柳沢が私欲を計って政治を勝手にしたからである」とするのが定説になっている。
 そして柳沢が軽い小姓番の身分から甲府十五万石までに、天下泰平の世なのに異常な大出世をする蔭には、
「さめ」とよぶ妻女があったからだと実録本ではしている。
 つまり柳沢弥太郎なる男は、
「なんとか立身したいものだ……」と日夜その心をくだいていたが、これといって出世できるような手蔓がない。
 そこであせっていたが或る夜のこと。はっとヒラめくものがあった。そこで、その時は何も口にせずだったが、次の日から非番の節には、
「所用がある…」と外出して、明暦の大火から移転し建物も立派に並ぶ新吉原へ通いだし、散茶女郎、梅茶女郎、格子女郎、太夫の区別もなく片っ端から揚げてみた。
「わが妻女さめは、あれぞこの廓言葉で申す『みみず千匹』……つまり古原でさえその持主は居ない稀代の名器の持主でありしょな」と、ようやく臨床実験の他流試合を重ね、その結果、おおいに納得するところがあった。そこで弥太郎は、
「これさ……わしの頼みをきいてくれぬか」と、さめにきりだしてみた。
「はい嫁しては夫に従うが妻の道……なんなりと仰せなされて下さりませ」と、答えるのに、
「其方の万人に一人……持つかどうかとされている稀代の秘所を、わしの出世のため役立ててくれぬか」といった。そこで、さめは天性の美貌をそなえた色白な顔を紅潮させ、
「……と仰せなされますのは?」恥ずかしそうに低い声で尋ねたところ、
「何も間かんともよい。唯、はいと承知してくれたら、それでよいのじや」
 弥太郎はいい聞かせるごとく口にした。しかし女人の身ゆえ、およその見当はついたものの、さて、己が身にそなわる(みみず千匹の具合)など、自分では判ろう筈はなく、
「……して、この身に何を」と、またくり返して聞きだした。そこで、弥太郎が叱りつけるごとく、きっとして、
「なにも妻とは申せ、いつもわしに抱かれて居るわけではあるまい……空いている時に何んせいと申すだけではないか」と、すこし声を荒々しくさせた。そこまで口にされては、
「まあ…おまえさまは…」と、さめも、仰天してしまい、おろおろしながら、
「他の事ならば何なりと、お云いつけは守りもしますが、そればっかりは……」びっくりして拒もうとした。しかし弥太郎は泣き崩れる妻へ
「聞きわけのない……取り乱して何とした。用いて使うても減ずるものではないのに、なんで下惜しみ致すのか」烈しい口調で怒鳴りつけてからが、
「そちやわしの出世を邪魔せんとするのか」とまで口にした。それゆえ、
「滅相もない…」と、怨めしげに、さめが顔をあげたところ、
「わが立身に協力せぬ、できぬというは邪魔致すも同断ではないか」きつい声で難詰した。
「いくら云わしやっても、おまえさまという夫のある身が、なんでそないな…」と、さめは困りまた泣き伏してしまうのへ、
「えい、めそめそ致すでない……夫がそうせいと申すに、それを聞かぬ妻があってよいものか。其方は己が身のことゆえ存じよらぬが、備え居るは稀代の秘宝。もし上さまに御賞玩して頂ければ如何ぱかりお喜びなされようかと、忠義のために申して居るのだ」
 と将軍綱吉へ伽をするよういいつけたが、それでも、さめは首をふり、
「でも、あまりといえば余りな仰せ。お許しなされて下さりませ」と泣きくずれた。
「そちや、わしが上さまへ忠を尽くしたいというのを拒むのか」と責められても、唯しくしく鳴咽するのみたった。それでも弥太郎は諦めようとはせず次の夜もやはりかきくどいた。
「いくら仰せられましても…,それは女として操を破ることになります」
あくまで厭がるのへ、弥太郎は、これではならじと言葉を柔らげ、「源平の昔に源ノ義朝の妻の常盤御前が、その操を敵の平ノ清盛に許し、やがては亡夫の仇をとり平家を滅ぼした故事を、そちや知らぬのか…操とは破っても棄てても、それが夫の為にさえなりや良しとするものじや」
 かんで含めるごとくいって聞かせ、
「……なにも妻とは申せ、わしが四六時中そもじを用いて居るわけではなかろ。な
あ、わしが何んせぬ折りに将軍さまへ、お裾分けをしたらよいのではないか」そっと声を落とし、
「そうじや裾を分けひろげて何するのじや…唯それだけのことだ」
 と、いってのけた。
「お、お裾分けなどとまあ、そないにお手軽な…」
「なにも其方を千代田城へ差し出してしまうのではない…・茶菓を出すごとくおすすめし摘んで頂くだけではないか」
 と、泣いて厭がるさめを脅かしすかし、ようやく納得させると弥太郎は、
「恐れながら…」と将軍綱吉へ、
「実はてまえ屋敷には門外不出の、世にも稀なる名器がござりまする」秘かに訴えでた。
「如何なるそれは、珍器財宝なのか」
 そこで綱吉が、興味深く尋ねたが、弥太郎は、
「ここへ持参できるようなものではなく、又それは世に類のないもの…」
 とのみ申しあげ、
「なにとぞ手前の屋致へ…」いくら間かれても、一点ばりで押し通した。そこで綱吉も、(こりや余程の珍奇な物であるらしい)と好奇心を抱くようになり、ついに「では、ものは試し一度いって見ることにするか」と、元禄四年三月。初めて柳沢の屋敷へゆき、そこで、
「これが、この世の無二の宝か…」
すすめられて、さめを抱くと、千余の蛆矧がのたうち廻るような口にもいえぬ法楽に、さすがの将軍も夢みる心地にさせられてしまい、それから五十余度も柳沢家へ通うようになった。
そこで小姓の身分にすぎなかった弥太郎も、やがて甲府十五万石の柳沢吉保とまで立身、
「持つべきものは良き妻である」と、おおいにさめをねぎらったが、妻の方は唯さめざめと泣いたというのが伝わるのが、「護国女太平記」の話の筋である。
柳沢は、明治維新まで続き、そして子爵になっている。別に御家断絶したわけではい。
 そこで、
『福寿堂年録』とよばれる公用記録が、享保九年三月に甲府から郡山へ国替してからよりの、柳沢家の記録として伝えられていて、「戊辰戦争に際し郡山の柳沢の兵のニ小隊百二十人が、鎮撫使四条降謌に従って奥州追討」
「明治四年十一月に奈良県に統合される迄、柳沢保申が百四十七年間にわたって統いた藩主の地位はおりたが、郡山知藩事であった」のも明記されている。だから、いくら柳沢騒動が世に喧伝されたにしても、そう異説があってよいわけはなかろうと思われる。
 ところが実際は岩手十万石南部家に伝わっていた『福寿堂年録』などには、まったく変わった話がでている。そこで、盛岡市上目黒石野平の小笠原徳公邸に、保存されていろそれを引用してみることとすると…
 南部盛岡に普耳える岩鷲山は、別名を岩手山ともよぶが、そこの麓に柳沢村というのが今もあるが、江戸時代にもあった。そこに生まれたのが、弥太郎で、「変わりのごとしとの噂がありまする」と言上をした。
「よし、では、まずその者をよべ」と、鶴の一声。そこで呼び出しをうけた弥太郎は、翌朝、平川口より中の口へ上り、御当番の成田舎人、本田喜内、脇坂勘平、大久保伝五右らへ、
「われらの組頭伊奈半左衛門よりの差紙にて、かく出頭を仕りました」
 と登城のおもむきをのべたところ、差違いなきかを照合して調べた結果、「よお候……」と保科八郎左が同伴して、月番老中土屋相模守の許へ出頭。
しかし御老中井伊掃部頭、酒井雅楽頭らは、この件を間こし召されて、「前代末間なり、と不承知であった。しかし将軍綱吉は、あくまでも、「柳沢の妻をこそ召せ」といいはるので、やむなく高家衆品川豊前守が代わって、すすきの間にて弥太郎に面接。というのは、弥太郎の身分では目見得できぬ仕来たりだったからである。
「恐れながら七十俵どりの小普請の身分にては、妻女と交換でも登城さえもままなりませぬ」
 そこで御老中阿部豊後守が、諌めようと申し上げた。すると綱吉は、「では苦しゅうない、柳沢とやらに役をつけてつかわせ」と御納戸奉行を命じ、下総佐倉三万石の御加増を仰せ出され、しめて三万石七十俵となった。
 その内訳は、臼井、成田、安庭、海川、銚子、新川、屋多ら八部で、弥太郎は即日任官し、出羽守従五位下になった。そして二年後には、また綱吉の命令で、若年寄役にまで抜擢され、新たに下総古河にて二万石御加増で計五万石七十俵にまで、妻さめのおかげで累進した。
(……というのが『南部史料』である)しかし下総佐倉に元禄七年に入府したのは戸田忠昌六万一千石、元禄十四年に戸田が越後高田へ移り、代わりに入ってきたのは稲葉正徳八万七千石。下総古河は大和郡山より移った九万石の松平信之で、元禄年間はその子の忠之がつぎ、他へ転封されてはいない。もっともらしくてもこうみてくるとまったくの嘘っぱちである。
 ついでにいえば、その時代の大老は堀田筑前。老中は戸田忠昌、松平信之、つまり前記の連中はまれな誤りなのである。高家衆の名前も同じく相違している。
 では、どうしてこうしたものが、南部十万石の御城の中で、重要な御文書として取り扱われたり、現代に至っても、「史料」とされて居るかといえぱ、
(元禄初年までは八戸藩へ二万石の分地をしたが、新田開発分を加えて前に上廻り順調だった南部藩の財政が、鹿角鉱山の産金が減ったことと、元禄年代の未曾有の冷水害で大飢饉が続いた際公儀に対し何度も救済万を申し出たのに対し、江戸参勤交代を免せられたくらいに止まり、いくら願い出ても御貸付金や米が来ず餓死者四万をだした)
 という怨念が、藩主南部行信以下家臣一同に、これも側近柳沢めの取扱いの悪さからであると恨まれ、たまたま盛岡のはずれに同じ地名があるのを奇貨とし、儒臣か筆の立つ者が、
「……柳沢とはかかる卑賎な輩である」と昔は、各藩がまったく別々でそれぞれの国だったからして、お構いなしに憎悪で作ったものを、勝手に御文書として門外不出で蔵って居たのだろう。
つまり、昔の大名は自藩本位ゆえ、気儘にこうしたものをこしらえさせて、「史料である」としまいこみ、今になって郷土史家を誤まらせている、困ったものだが仕万がない。がおおっぴらに柳沢の悪口が一般にいわれるようになったのは明治に入ってから柳沢子爵が旧幕時代に比べして没落したからで、当時の人気役者九代目市川団十郎が鳥越の中村座で演じた芝居からであろう。
 それゆえ明治十二年六月三日脚届本の、東京日本橋松島町一の大西庄之助刊の木版刷り、「柳沢女太平記」「柳佐和実伝」の上下二巻を原文のままで紹介しておく。文献というわけではないが俗説柳沢騒動の最後のもので、大西が当時の芝居の筋書をそのまま、さももっともらしくまとめたものゆえ、珍しいものでおおかたの参考にもなろうと考えたからである。
 

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