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吉保の念仏行(「武川村誌」一部加筆)

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吉保の念仏行(「武川村誌」一部加筆)
 
吉保の信仰について、特記したいことがある。それは、吉保の念仏行についてである。韮崎市清哲町青木の常光寺に、吉保の嫡男吉里が亡父の遺命によって寄進した「勧修作福念仏図説」と名づける紙本彩色の掛軸がある。
その由来は、軸の裏に吉保の自筆と伝える次のような裏書のあることによって知られる。
 
念仏百万、図式によりその数を填む。装して一煩と為し、以て武隆山常光寺に寄す。
正徳甲午の秋
甲斐の前藩主羽林次将源吉保
 
正徳甲午は同四年(1714)の干支で、羽林は近衛府の唐名、次将は少将。吉保の当時の官名は左近衛権少将であった。「勧修作福念仏図説」というものは、辻善之助博士の論文、「柳沢吉保の一面」によれば、黄粟宗本山京都市宇治の万福寺塔頭、真蔵院に、吉保と夫人曽雌氏の寄進に在るもの各一幅、計二幅が所蔵されているという。したがって、常光寺所蔵の一幅と合わせて計三幅が現存しているのであるが、他にその存在を聞かないので、これら三幅の価値は貴重である。
この「図説」というのは、版画で、その中央に阿弥陀三尊を描き、その周囲に念仏の図説と、念仏の功徳に関する偉大士の説を記している。
偉大士は、六世紀ごろの中国の高僧で、転輪蔵の発明者である。図説の周囲に、五色をもって圏を連ねて幾段にも画してあり、圏の総数は一、○○○箇である。その下段に、
 
此ノ図、震旦ニ於テ世ニ行ハルルコト、スデニ久シ。大清ノ康煕年中ニ至リ、旨ヲ奉ジテ天下ニ頒チ行ヒ、普ネク念仏ヲ勧化ス。日(本)国ニ未ダ此ノ図有ラザルヲ以テ、今、錆刻シテ流通シ、天下ノ人ヲシテ念仏修福シ、同ニ浄土ニ生レシメバ、則ハチ利益量リ無ケン。念仏千声ニシテ一圏ヲ填メ、白黄紅青黒、五次ニ填ムベシ。
宝永甲申 重陽 支那 独湛螢識ス
 
とある。宝永甲申は元年(1704)である。重陽は陰暦九月九日、支那は当時清朝、独湛螢は黄葉山万福寺の第四世、独湛性螢である。
この図説の用紙は、はじめ唐紙であったが、当時、唐紙は輸入品として高価なので、吉保は甲府の菩提所、永慶寺に依頼して丈夫な和紙に複刻させ、自身が施主となって費用を寄進し、普ねく念仏行老に頒布して勧修した。
常光寺所蔵の「図説」の中央、阿弥陀三尊の下に蓮座があり、蓮座と三尊との間の空き間に、「念仏弟子保山」と自署し、また右側の偉大士の説の末句、回向浄土求願往生、の下に「善人保山受持」とあり、その下に長方形の印が押捺されている。
印文に「竜華山永慶寺蔵板印施」とある。つまり永慶寺蔵版で、念仏者には無料で印刷、施与したものであろう。「勧修作福念仏図説」を、念仏者はどのようにして完成するか、用紙の中央阿弥陀三尊を囲んで長方形に連ねられた一、○○○箇の白圏に、一、○○O遍の念仏ごとに白・黄・紅・青・黒の色の順に、一箇ずつ白圏を填めて行くのである。こうして一、○○○箇の白圏を残らず填め尽した時、念仏百万遍を成し遂げたことになるのである。
吉保は、元禄から宝永にかけて徳川幕閣の大黒柱のような地位を占め、身辺は多事を極めた人である。それにもかかわらず、常に禅の修行につとめ、一つの公案に二〇年近くも工夫を凝らし、遂に大悟して師の印可を得た。そして晩年に至っては念仏行に励み、「念仏図説」を二偵完成したのである。吉保の純粋熾烈な求道の態度こそ、仰がるべきではないか。
 
また、正室曽雌氏が念仏行を全うして、菩提所である萬幅寺塔頭真光院に納めた「念仏図説」の裏書には、
 
称名百万遍、図説に遵ひてその数を満たし、却ち真光禅院に鎮む。
正徳癸巳の仲秋
前の甲斐藩主松平吉保の室人曽雌氏
とある。正徳癸巳は同三年の干支で、仲秋は八月をいう。ちなみに、曽雌氏は同年九月五日に没しているから、この「図説」寄進ののち僅々一か月ほどで世を去ったわけである。曽雌氏を喪った吉保の悲歎は譬えんにものなく、その夜から五日間を費やして亡妻のために長編の挽歌を草し、葬送の日、自身でこれを詠じ、会葬の大名旗本ら、泣かぬはなかった。
その吉保も、正徳三年春、曽雌氏より先に一幅を完成し、真光院に寄進した。裏書に、
 
念仏百万、専ら図式に依り、其の数を填め畢んぬ。今装して一偵と成し、
以て真光院中に寄するのみ。
正徳癸巳の春
前の甲斐藩主羽林次将源吉保
吉保の菩提寺 韮崎市 常行光寺
吉保は、曽雌氏生前の正徳三年癸巳の春、すでに念仏百万遍を成就し、その一幅を真光院に寄進し、その秋、曽雌氏に先き立たれたのであるが、ますます勇往精進して翌四年甲午の秋、さらに一幅を成就し、遺命して常光寺に寄進させたことは、既述の通りである。
吉保が、常光寺を崇敬するのは、この寺が青木家の菩提所だからである。というのは、吉保の祖父柳沢兵部丞信俊は、武川衆の旗頭青木尾張守信立(信親)の三男であるが、主命により柳沢家を継いだため、柳沢家にとって青木家は宗家である。しかも柳沢家本来の菩提所である柳沢村竜華山柳沢寺が、水害など不幸続きのため寺運は衰徴の極に陥ったため、当時江戸に邸を賜わっていて、先祖の地とはいえ甲州柳沢村の柳沢寺を再興するに及ばずと考えたものであろう。それに柳沢氏はしばしば青木氏から嗣を迎え、最近では吉保の曽祖父信俊が青木氏の出身であるから、祖先といえば青木氏につながるので、青木氏の菩提所常光寺をもって柳沢氏の菩提所を兼ねしめたらしい。
というのは、常光寺位牌堂には、吉保寄進にたる青木家の系図が安置されていて、鼻祖新羅三郎義光より第十七世青木尾張守信立までを整然と記しているのである。このように常光寺を菩提寺同前に崇敬した吉保は、宝永元年に甲府一五万石に封ぜられると、翌三年儒臣荻生狙株を新封の地甲斐に派し、領内の地形産業、世態、人情を見聞させ、これが復命を命じた。その結果が『峡中紀行』『風流使者記』である。いま、『峡中紀行』によって青木村常光寺の状況を瞥見しよう。
 
『峡中紀行』(「武川村誌」一部加筆)
常光寺に至る。門前皆田なり。田を隔てて人家数十、簇をなす。却ち青城村なり。堂に登り藩主先公の神主に謁して後、方丈に往て話し、遺事三条を得。機山の時の旧封券を観るに、人名門の字皆間に作る。蓋し古時は爾りと為す。花押亦時様の者に非ず。古撲頗る趣有り。寺憎を拉し先公の墳墓を覧る、碑の制、諸(これ)を今世都下士庶所用の考に比するに極めて短小なり。其の時俗想うべし、字皆剥落して、復た辞を存せず。寺を出づれば則ち先公の荘在り。
徂徠の誤解
というもので、先公とは青木信立をいう。徂徠の一文は、当時の常光寺を叙して彷彿たらしめるものである。神主とは儒教式葬儀の際、死者の官位・姓名を書いて祠堂に安置する霊牌で、仏教でいう位牌である。人名門の字、皆問に作る、蓋し古時は爾りと為す、とは徂徠の千慮の一失で、人名の問は、問答の問でなく門尉の合字、闘の草体、問であることを知らなかったのである。関ケ原以後、僅か100年を経たばかりなのに、徂徠はどの学者すら武人の官名を誤解するに至ったのである。
 

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