武田武将 跡部大炊助勝資 あとべおおいのすけ かつすけ
300騎。放色白地に朱の丸。信玄・勝頼の側近。伊賀守信秋の子又八郎。天正7年に尾張守を称する。跡部家は小笠原家の分家伴野氏より派生。大炊助は信玄のお守役跡部尾張守の甥で信玄の遊び友達。信玄が尾張守の死を哀れみ、300騎の将に抜擢したという。
跡部家が甲州へ入国したのは武田信元(武田信満の弟。空山。穴山修理大夫)とその甥の武田信重(信満の子)が高野山へ流浪していたとき、足利幕府が信濃国守護の小笠原政康(母は武田信春の女。信元の甥)に信元の入国を支援するよう要請、その結果として武田家の守護代となる。権力をほしいままにした跡部駿河守明海・ 上野介景家父子は武田家の家宝御放・楯無を奪い取り、下剋上を果たそうとした。しかし明海の死後、貴家が武田信昌に敗れて牧丘町西保小田野城外で殺害される。
永禄4年の川中島戦のとき八幡原で信玄の後ろ備えを務め、また駿河攻めのとき 北条民政の軍勢と下手な合戦をして「紅丸拠旗(こき)」と渾名(あだな)を付けられる。合戦は苦手だったが、他国の客人の接待や文書の扱いは得意だったという。『甲斐国志』によれば、長篠戦後は原隼人佑とともに行政の最高機関である「職」を務める。天正10年3月勝頼に殉死したとも、また諏訪で殺されたともいう。穀蔵寺殿といわれ、父が造った攀桂(はんけい)寺(甲府市千塚)に葬られる。法名は天祐恵長居士。跡部は佐久市の地名。