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芭蕉の死

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芭蕉の死
『芭蕉年譜大成』今栄造氏著。(掲載書名は略)
●十月十一日
この朝から食を廃し、不浄を清め、香を焚いて安臥する。夕刻、上方旅行中の其角が芭蕉の急を聞いて馳せ参じる。夜、看護の人々に夜伽の句を作らせる。丈草・去来・惟然・支考・正秀・
木節・乙州らに句あり。この内丈草句、「うづくまる薬の下の寒さ哉」のみを「丈草出来たり」と賞す。
●十月十二日 申の刻(午後四時頃)歿す。
遺言により、遺骸を湖南の義仲寺に収めるため、夜、淀川の河舟に乗せて伏見まで上る。この折の付添人は、去来・其角・乙州・支考・丈草・惟然・正秀・木節・呑舟・次郎兵衛の十人。
膳所の臥高・昌房・探志ら三名、行き違い大阪に下る。
●十月十三日
朝、伏見を発し、昼過ぎ湖南の義仲寺に遺骸を運び入れる。支考が師の髪を剃り、智月と乙州の妻が浄衣を縫う。埋葬は、臥高ら三名の戻りを待って明日に延期される。
●十月十四日
夜、子ノ刻(午後十二時頃)葬儀。同境内に埋葬する。導師、同寺直愚上人。門人焼香者八十人。会葬者三百余人。
●十月十六日
伊賀の土芳・卓袋両人、十三日に師危篤の報を得て大阪に急行。廻り道してこの日朝、義仲寺に至る。両人、師の行脚中使用の遺品を改めて伊賀の兄半左衛門のもとに送る。
杖・笠・頭陀は義仲寺奉納と決まる。
●十月二十五日
この日、義仲寺境内に無縫塔が建立される。高さ二尺余の青黒の自然石の表に「芭蕉翁」背に年月日を記す。
 
芭蕉と周辺の動向
▼一月二十日、猿雖宛書簡で、今春帰郷する意向を伝える。
支考、春から美濃、尾張、大坂、伊勢を旅する。
▼四月七日、乙州宛書簡で、持病快復次第帰郷する意向を伝える。

書簡に「拙者、持病快気次第発足致すべく候」とある。

★「おくのほそ道」素龍清書本成る。芭蕉、これに自筆の題簽を付し自らの所持本とする。
▼子珊亭の別座敷で芭蕉餞別句会。芭蕉の他、子珊、杉風、桃隣、八桑を連衆とする五吟歌仙あり。

▼ 帰郷のため寿貞の子二郎兵衛を伴い江戸を発つ。曽良、箱根まで同行する。伊賀上野着は28日。

五月二十八日、伊賀上野着。閏五月十六日まで滞在。後、大津→膳所→落柿舎。
★支考、伊賀上野から芭蕉と同道。

六月八日、寿貞が(6月2日ごろ)芭蕉庵で死去したことを知る。

★野坡・利牛・孤屋編「炭俵」、京の井筒屋から刊行。
▼6月中旬から7月5日まで湖南逗留。後、京都の去来宅へ。
▼七月中旬、伊賀上野で「続猿蓑」撰に従事。
▼八月、反目しあう門弟、之道と酒堂の仲を取り持つため大坂へ向かう。支考と二郎兵衛が同道。
十月、杉風宛書簡を執筆。
いまだ句体定め難く候。他見被成まじく候。
菊の香や奈良にハ古き仏達
菊の香やならハ幾世の男ぶり
ぴいと啼尻声悲し夜の鹿
▼晩方から悪寒、頭痛に襲われ、この日から一〇日間ほど同じ症状を繰り返す。
▼兄半左衛門宛書簡を執筆。
 私南都に一宿、九日に大坂へ参着、道中に又右衛門かげにてさのみ苦労も不仕、なぐさみがてらに参つき申候。大坂へ参候而、十日之晩よりふるひ付申、毎暁七つ時より夜五つまでさむけ、熱、頭痛参候而、もしは、瘧に成可申かと薬給候へば、二十日頃よりすきとやみ申候。
▼意專・土芳宛書簡を執筆。
いまだ気分も勝れず。
九日南都を立ちける心を 菊に出て奈良と難波ハ宵月夜
秋夜  秋の夜を打崩したる咄かな
 秋暮  この道を行人なしに秋の暮
▼大坂清水茶屋四郎兵衛の晴々亭で十吟半歌仙。
  連衆は、芭蕉、泥足、支考、之道、酒堂など。
★泥足編「其便」(元禄7年刊)より。
 所思
此道や行人なしに秋の暮     芭蕉
▼園女亭で九吟歌仙、附句四。○園女編「菊の塵」より。
白菊の目に立てゝ見る塵もなし  芭蕉
紅葉に水を流す朝月       園女
冷々と鯛の片身を折まげて    諷竹
何もせずに年暮行        渭川
以下略。
▼蛙止亭で句会。泥足編「其便」(元禄7年刊)より。
月下送兒
月澄むや狐こはがる兒の供    芭蕉
▼二十九日、に予定されていた芝柏亭俳諧のため発句「秋深き隣は何をする人ぞ」を遣わす。
▼九月二十九日、夜下痢で床に臥す。この日を境に次第に容態悪化。 
 
 
 
門人らの動向 山崎藤吉氏著 『芭蕉全傳』より
        資料 山崎藤吉氏著 昭和十七年刊(一部加筆)
★十月五日、南の御堂へ本願寺支坊の花屋の閑静なる別室へ引移った。
此の日から心気頗る沈静し安堵の状あり、之道の居室が狭苦しいので引移ったのである、社屋の跡は、今の南久太馳町に画した小林家と、御堂筋の継野家が其跡であつたが、最近区改正で道路になったといふ。
★十月六日、心地稍(やや)宜し。
★十月七日、正秀来る、次で去来来る、暮方乙州、丈草、李由、木節来る。木節が逆挽湯を處剤して内服せしめた、去来は寸時も病床を離れす看護に努めた。
★「笈日記」に、
去来は須叟も病床を離れず、如何なる故にかと申に、此の夏阿叟が、我が方に居まして、誰々人は吾を親の如くし侍るに、吾老て子の如くすること侍らずと仰せられしを、いざしらす、去来は世務に引かれて、さるべき孝道もなきに、斯かる事承ることの肝に銘じ覚えければ、せめて此度は離れじとこそ思ひ候へと申されしなり、云々。
とある、去来は性篤實の人であった。
 風国は、芭蕉の病気を聞きて、北野の付近に家を借りて芭蕉の養生所に宛てんとて調度の類まで準備して置いたのに、後死亡と聞いて落胆し、借りたる家む返すとて一句
力なく軒む見通す時雨哉    風国 
*何日にや、黄門の大阪衆車庸、畦止、舎羅、何中等が見舞に来た。
 芭蕉は不浄を憚って訪客を病床に引くことを避け、惟然に命じて此の由を紙に記して門に貼らせた。看病の門人等は、壁を隔てゝ次の間に控えて居た。
大阪の鬼貫、洞川が見舞つたと侍へられる、是等の人々は病床に引かす、門人が代わる代わる応接したといふ。.
★十月八日、之道、住吉大明神に平癒の所感を立て、厚く奉納物を供へ、また奉納句を手向けて師を慰めた。
下痢は其の度々増し、脈拍は沈み、気力は次第に衰えて、木節が処方も効験が見えなかった。木節は治法を他の医者に求めんことを去来に謀って、芭蕉の意を覗った。
芭蕉の答へに。
 「如何なる仙法ありとても天業将た如何にかせん、唯木節が神方に安んじて、他に求る心なし」
と答へた。
また門人等が辞世の句を所望した、其の答に。
  古池や蛙飛びこむ水の音
の句に我一風を興せしよりはじめて、句々皆辞世なり。
と答へたと停へられる。
さきに羅漢寺の僧に託した伊賀連衆宛の手紙は、此の僧が途中病気で滞留したため、遅れて芭蕉の死んだ日の夕方漸く届いたといふことである、其のため何日まで待っても伊賀衆が来ない、門人等が伊賀へ早飛脚をたてようと相談したことを芭蕉は聞付けて、急使など差立てゝはならぬと制止した、其の言。
  我隠遁の身として、虚弱なる身の数百里の飛枚を思い立ち(長
崎行脚を指す)親族より止めけれども、心のまゝせしは、我過なり、今大病と申送りなば、一軒中のさわぎ、殊に主公の聞しめしも恐れあり、たとひ此度大切に及ぶとも沙汰あるまじ……。
此の言で芭蕉の心意も覚悟の程も窺ひ得る。
この日、下痢数十回、夜来の病勢昂進して眠られす、現とも幻ともなく魂は騒ぐ様子であつた、深更忙及んで。
旅に病みて夢は枯野をかけ廻る
の句を案じて、去来、丈草を召し、介抱して居た呑舟に執筆させて、さて云く。 
 これは辞世にあらす、辞世にあらざるにもあらず、病中の吟な
り、かゝる生死の大事を前に置ながら、如何に生涯好みし一風流
とはいひながら、、これも妄執の一ともいふべけん。
 と言つた、枯野とは幽界のことであらう、去来之れに答へて。
  朝雲暮雨の問日夜を分たす、心を風雅に止め、山水野草、乃至鳥
獣の分ちなく景色妙音に身を托す、然るに今河魚の患へに疲れ
ながら此の名句あゎ、門葉の悦び、他門の聞え末代の亀鑑なり。.
とて、感慨悲愴、寂とし声が無かった。暫くして共に語るに。
  眼あるもの是れを見ば魂を飛ばさん、耳あるもの之れを聞かば毛髪ために動かん。
と語ったといふ、後其角が病床を訪ひ来りて、此の句に附加へて、
 また「枯野を廻る夢心」ともせばやと申されしが、是さへ妄執ながら風雅の上に死なん身の道を切に思ふなりと悔まれし、八日夜の吟なり。
と「終焉記」に記してある。「笈日記」には。
其の後支考を召してなを かけ廻る夢心 といふ句作あり、い
づれをかと申されしに、其五文字はいかに承り候半と申ば、いと
むつかしき事に侍らんと息ひて、此の句何にかおとり候半と答
へけるなり、いかなる不思議の五文字か侍らん、今は本意なし。
  自ら申されけるは、はた生死の転変を前に置き乍ら発句すべき
わざにもあらぬど、此の道に心を籠めて、年もやや半百に過ぎた
れば、いねては朝雲暮雨の間をかけり、さめては山水野鳥の聲に
驚く、是れを彿の妄執と戒め給へり、之れを直に今の身の上に覚
え侍るなり、此の後は唯生前の俳諧を忘れんとのみ思ふはと、か
へすがえす悔み申されし也。
とある、また路通は此の句は辞世ではないと言つて居た。
  いにしへより辞世を遺すことは誰にもある事なれば、翁も残し
給ふべけれど、平世別辞世也、何事ぞ此の節にあらんやとて臨終
の折り一句なし。
とある、路通がいふ如く、辞世と見るべきでなく、唯病中吟とすべきであらう。
★十月九日、衰弱著しく加はり下痢の度数もまた増す。
今日、衣服夜具丘新しいのに更へた、芭蕉が喜んで。
  かゝる美々しき褥(しとね)の上に、而も未来までの友だちにぎ
にぎしく附添へ鬼録に上らんこと受生の本望なり……。
と言つた。
今日、さきに嵯峨にての句
大井川浪に鹿なし夏の月
は園女が白菊の塵に紛らはし、是れも亡き後の妄執と思へば
清瀧や波にちり込む青松葉
に作り替えると、去来、支考に語ったといふ。
★十月十日、暮れ方より病勢革まり、熱加はり、苦悶甚だしく、時に譫語をいふ。木節が芍薬湯を投じたけれども苦痛が去らない、夜に入つて苦悶が稍々減じた。
 曰人の「諸生傳」に、
十月十日、木説芍薬湯を投じる。梨を好み給ふ、禁すれども強ひ
て望み給へり、一片昧ひて止み給ふ、脾胃受くる所なければ死期
近きにありといへり、
とあり。
★十日夜の病問を機会に、二三の人等が窃に枕頭に侍して後り風雅如何を問うた、
其答
  此道の吾に出でて後三十餘年にして百変百化す、然れども其の境、眞、行、草の三を離れず、其の三が中に未だ一二をも盡さざるよし、其の三つよりして千変萬化す、汝等此の以後とても地をはなるゝことなかれ、地とは、心は杜小美が老を思い、さびは西上人の道心をしたひ調は業平が高儀をうつし、いつまでも我等世にありと思ひ、ゆめゆめ他に化せらるゝことなかれ。
と唇を濕(しめ)ほしほし語り続けたので、皆粛然として感激に溢れ、師は此の遥の紳なれと崇めたといふ。
★十一日、暮方、突如として其角が師の病床を訪うた。
「芭蕉終焉記」に 
いとど涙せき上げて、蹲(うづくま)り居るを、去来、支考傍ら
に招くゆゑに、退いて忘味の心を休めけり、膝をゆるめて、病眼るに、いよいよ頼み無くて死期期もめなく時雨るゝに。
  吹井より鶴を招かん時雨かな  晋子(其角)
と祈誓して慰め申しけり。
とある。其は伊勢参宮の序でに大和巡りして、大阪へ来た處、計らずも芭蕉の病床にある吉を聞いて愴惶として駈け付けたのである。
此の日去来は病人の残粥を啜って。
病中の餘りすゝるや冬籠    去来
と吟じ、惟然と正秀とは、昨夜蒲団一枚を彼方此方に引合つゝ終夜眠らざりしを打笑うて、
  引はりて布団にさむき笑かな
と吟じ一座大いに笑つたので芭蕉もまた微笑み漏らした。丈草は、
  うづくまる薬のもとの寒さかな
と吟じ惟然が読みあげた所、芭蕉が聞いて、しわがれ聲にて、
丈草出来されたり、何時聞いても寂栞とゝのひたり面白し。
と賞した。
支考は、日頃芭蕉の句を其の歿後に一集せんとの考へを持って居たので、この病間を機会に、此の事を去来に謀った。
去来勃然として忿(いか)って。
  師平素名聞に遠ざかる、今病息漸く閑を得たるに、再び心を労
せしめば、其の罪極めて軽からず、子の如きは此の病床を遠慮し
給へ……。
と聲荒らかに叱った。支考衆前に面目を失って座を避けて一句。
叱られて次の間に立つ寒さかな    支考
芭蕉之れを聞いてまた微笑を催した。
    
芭蕉遺言
★芭蕉は十一日夜の病間を幸に、郷里の兄牛左街門苑の遺言状を自ら書いた。
  御免に立候段残念可ㇾ被思召候、如何様とも叉左街門(松尾半左街門ノ子息ナラン)便に被成、御年被寄、御心静に御臨終可成候、別段可申上事無御座候、市兵衛(廣岡雪芝)次右衛門(岡本苔蘇)殿、意専老(窪田猿雖)をはじめ不残御心得奉頼候、中にも十左衛門殿(山岸半残)半左殿(服部土芳)右之通に候、 はは様およし力落し可申候、以上。
   十月十日(十一日?)        桃青
      松尾半左衛門様
          新歳は殊に骨折かたじけなく候。
 
また支考をして遺書三通を代筆させ、名と花押とは自筆に認めた。
  一、杉風へ申入候、永々御厚志死後とても難忘存候、不慮なる所にて相果て、御暇乞も不申無是非事に候、彌彌雅御勉、老後御楽に可疑候。
一 濁子へ申入候、御厚情生前死後難忘存候、倒内室様に不相替由念此の段、悉く存候、不慮なる所にて相果、御暇乞も不申無是非事に候、禰々風雅御進、老後早く御楽に可成儀。
一 嵐雪を始として門人方不残御暇乞申候、俳諧は老後の楽み
と申事、禰々御忘有間敷候、其角は此方に参居申され侯。

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