弘化四年(一八四七)善光寺ご開帳の日に信濃大地震
(読みくだし)
かかる目出度御代なれば天変地妖にてぜひもなし、爰に弘化四末年三月廿四日夜四ツ時頃より信州水内郡遠近大地震ありし、場所をくわしくたづぬるに先善光寺を初メ堂塔伽藍末社寺院其外人家おびただしく、并川々ハ洪水し里々ハ出火し人馬の損亡人多く、東ハ丹波島 川田 松代 屋代 戸倉 坂木 上田、此辺殊に絶えかい□□□大石等道ゆり出し大地もさくるか如シ、□□□しきなるハ善光寺如来也、抑信濃国善光寺ハ本多善光開きにして霊現あらたなる事
にて世の知る所なれ共、此たびの大地震に境内ハ申に及ず新田町後丁大門町西権堂丁岩石桜小路西門丁東門左右あまねくゆり崩れ共、本堂ハ少も破却なく御堂にこもる□□ハ怪我のなきハひとへに□尊□の□□□□ならんと諸人かつこうの思ひぞ深かりけれ、さて又越後路の方ハ井多橋よりおし□□村吉田宿 荒町宿 田子村 吉村 平出村 三本松村 牟礼宿 大吉間宿 小古間宿 柏原宿 黒姫山野尻宿 関川宿等也、此所信濃と越後の国境にして関川の御関所有夫より越後の国中山之宿初メ同国高田辺迄也右の場所より又々上州江の方は小諸追分宿 沓掛宿 軽井沢宿 碓氷(以下略)
弘化四年三月二十四日夜十時ごろ、信州一帯に大地震がおこった。あいにくこの月のはじめから、善光寺でご開帳があり、諸国から信者が集まって混雑していた。そこへぐらぐらっときたので、案内知らぬ旅人は逃げまどって大騒ぎ、つぶされた家の下敷きになった者が数知れない。さらに、倒壊家屋から出火、門前町はたちまち火の海となった。
余震はその後も雷鳴のような、凄まじい音と共に絶え間なく続き、一夜に八十余度もあった。大地は裂け、泥砂流出し、犀川上流で崖崩れがあったため、流れが堰き止められて大洪水となった。
かく二重にも三重にも災厄が重なり、死者三万にのぼるともいわれた。と
ころで、地震に先立つご開帳まえ、門前に拝観注意の高札を立てたところ一夜で消え、二度立てたがこれも紛失、三度目には昼夜番人をつけたという。思えばこれは善光寺ご本尊が、庶民に地震を予知されたのか。
(読みくだし)
信濃大地震之事
弘化四年丁未三月廿四日 夜四ツ時 丁家不残焼 大門之内如斯 人数凡六千人程死す 人家焼失致不知 本堂壱ケ所 大門壱ケ所 本坊壱ケ所 (以下略)