**** 素堂と芭蕉について ****
芭蕉と同時代文壇について 小高敏郎氏著
『国文学』「解釈と鑑賞」昭和三十四年二月号
「芭蕉俳句便覧」
旧庵をわかるゝ時、素堂松嶋の詩あり。
(前文略)
たとえば奥の細道で松嶋の条に、
旧庵をわかるゝ時、素堂松嶋の詩あり。原安適松がうらしまの和歌を贈らる。
とある。ここで何故松嶋といわず「松がうらしま」と言つたか、これは勿論安適の歌に「松がうらしま」とあつたのを、そのまま芭蕉がひいたのであろうが、やはり気にかかる筒所である。しかし安適が歌人であり大名から文臣として召抱えられたことを思うと、安適はここでは意識して枕草子の「島は」の条に「松が浦島」とあるのによっているのだと思われる。そう考えればここも気にかからなくなる。
また芭蕉と当時の歌人たちとの交渉も、やはり究明すべき問題であると思われる。芭蕉は長嘯子について「挙白集」を愛読していたらしいし、長嘯子の与えた影響については既にしばしば言及されてもいる。
しかし、その門下で芭蕉とはほぼ同時代の文壇で活躍していた山本春正、清水宗川、或は戸田茂睡とは、どのような関係にあつたか。春正とはその門下の安適が彼の詞友であったから知っていた筈であるし、茂睡とも素堂が共通の友人であったから如つていたはずである。云々
〔人見竹洞と芭蕉の関係について次のような記事が見える〕
また素堂を介して二人(竹洞と芭蕉)の交友を考える説もある。竹洞は素堂と同じく鵞峰林春斎の門人だが、素堂より二十二才年長で、素堂が春斎の門に入つた時は既に一家をなしている。また竹洞は秀才で、幕府の儒官として重きをなしていたが、素堂は春斎門で頭角をあらわすことが出来なかつたようである。年齢からいつても学者としての地位からいつても、両者の交友がさして密接だつたとは考えられない。
〔虚栗調の説明文中〕
虚粟調が漢学の素養の深い素堂によつて提唱されたという説は、荻野清氏によつて否定され、其角、杉風、宮水らの若い人々…がこの詞の先駆であり、素堂は「むしろ追随的な立場にあつた」という(山口素堂の研究)。また荻野氏は「芭蕉が素堂に儒学を学んだといふ説は疑はしいとしても」、「少くも素堂の学識に推服してゐたのは紛れない事実であつたと考へられる」(同上)と、注目すべき意見をのべられている。