▼松尾芭蕉の動向
芭蕉は承応二年(一六五三)頃、つまり十才になった頃に、藤堂新七郎家の嗣子、藤堂主計良忠に小子姓として仕えたとい
う。出仕の時期については異説もある。上野には城代の采女(うねめ)家に次いで、侍大将として藤堂玄蕃、新七郎の両家があり、ともに代々五千石の大身である。その一つの新七郎家の嗣子良忠は、寛永十九年(一六四二)の生れだから、芭蕉より二つ年長になる(素堂と同じ)。だから芭蕉が約十才の頃出仕したとすれば、遊び相手のような事とも考えられる。この主従の関係は良忠が二十五才で没するまで、約十余年つづくことになる。
---- 季吟と藤堂家 ----
竹人の『芭蕉翁全伝」には「愛龍頗る他に異なり」とある。良忠はいつの頃からか、蝉吟と号して、貞門の俳諧を京の北村季吟に学ぶことになる。古典注釈家・和学者として多角的な活動をした季吟は、明暦二年(一六五六)以後俳諸宗匠として、諸家に出入していた。そして当時の俳諧それは和歌の伝統的マンネリズムや、既に儀礼的文学になっていた連歌とちがって、用語も自由だし、何よりも、軽いユーモラスな気分のもので、良忠の文学趣味を満足させるに十分なものであった。
藤堂家は文学に全く無縁であったわけではない。数少ない俳諧初期の資料として珍重すべき、藤堂高虎と家臣八十島道除との「両吟俳諧百韻」が、現在も遺されており、新七郎家の初代良勝、高虎等の連歌の懐紙も遺っている。
さらに蝉吟と時代を同じくして、本家三代目の弟で、伊勢久居五万三千石の初代領主となった藤堂高通は、任口と号して同じく季吟の教えをうけていた。良忠の蝉吟が季吟を帥と選んで俳諧を嗜んだのも、ごく白然なことであったのである。
芭蕉が、ついに生涯をともにする俳諧と結ばれたのも、おそらくこの蝉吟の文学趣味に影響されたものであろう。
すでに寛文四年(一六六四)四月に刊行された『佐夜中山集』には「松尾宗房」として、
〇寛文四年(一六六四)
○ 姥桜さくや老後の思ひ出
○ 月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿
の二句を入集している。文献に見える彼の句の最初のものであり、ともに謡曲の文章によりかかって仕立てた句で、言葉の技巧的なおかしみをねらったもの、当時の風体をそなえて巧みである。
〇寛文五年 芭蕉二十三才
翌五年十一月十三日には、蝉吟の発句に季吟の脇句を得て興行した「貞徳十三回忌追善」の俳諧に一座している。一座の連衆は正好・一笑・一以等上野の俳人である。当時上野の武土・町家の且那衆に俳諧が行われ、『続山之井』には、上野の俳人が三十六人も入集している程で、一種の俳壇が形成されていた。
〇寛文六年 芭蕉二十三才
翌寛文六年は芭蕉の生涯の一転機となる重大な年である。その年の四月二十五日、主君蝉吟が僅か二十五才で亡くなったからである。特別に自分に目をかけてくれた主人の死、それは二十三才の多感な青年にとって大きなショックであったに違いない。殉死を願い出て許されなかったという説(?)があるのも、近世初期の殉死流行期を隔ること遠くなく、有名な「列死禁令」が出たのが僅か三年前の寛文三年であったことを思えば、あながちに伝記作者の理想化の結果とも云いきれないが、定かな史料は伝わらない。
六月中旬、命ぜられて蝉吟の位牌を高野山報恩院に収め(確認の史料は見えない)、その後致仕を願い出たが許されず、無断で伊賀を出奔したというのが通説である。出奔の動機についてはいろいろな推測が行われている。通例として、伊賀を出て上洛し修学したと伝えられるが、これまた確実な資料を欠き、推測の域を出ない。芭蕉伝記の中で、史料からは、寛文十二年までの間は全く空白である。
****『貝おほひ』****
そして、六年後に、世上にあらわれて来た芭蕉は、既にしっかりした考えを持ち、驚異的な成長を遂げていた。芭蕉が無断で出奔したように書かれている書も多くあるが。芭蕉と伊賀は江戸に出てからも親密な関係にあり、特に帰郷した折などの交際などから推察すれば、江戸の藤堂家との関係も考慮されるべきである。自句をも含めて、上野の俳人たちの句を左右に分け、それに宗房自身の判詞を加えた三十番の句合せ『貝おほひ』一巻を、上野菅原社に奉納したのがそれである。ここに集められた句は、当時の流行「小歌」や「はやり言葉」を「種」として作らせたもの、それに加えた宗房の判詞もまたこれらを種とした気の利いた文章で、彼の処女作であり、彼自身の企画と編集になるものである。そしてその自序の末に、「寛文拾二年正月廿五日 伊賀上野 松尾氏宗房釣月軒にしてみずから序す」と署名している、彼のこの書に対する自身と宗匠的立場がうかがわれる。
自序や跋文などは現在でもその書の格式を示すもので、それを書
くことですでに俳諧における芭蕉の地位を示している。芭蕉の朋友素堂の序跋文や詞書の多さもその地位と名声を押し図る上でも重要である。
この「貝おほひ」の企画、内容のもつ澗達奔放な気分は、西山宗因に代表される、当時の俳壇の最も前衛的な傾向、爾後数年問、「談林俳諧」へと俳文芸が進んで行った、その路線に明らかに指向されており、その前駆的な意義をもつ作品である。二十九才の芭蕉がいかに俳壇の動き、時代の流れに対して敏感であったかを証明するものである。またこれは芭蕉の中に、この才気を目覚めさせ成長させ、このダンディズムを身につけさせたのは、この以前六年間の空白時代をおいてはないと考えられる。『貝おほひ」は芭蕉の東下後、延宝初年に、江戸の中野半兵衛から出版された。
*** 芭蕉の江戸下向 ***
芭蕉は『貝おほひ』一編を奉納して、この年の春(あるいは九月)に江戸に下ったと伝えられる。しかし東下の年次は諸説ありこの年とは決定できない。
ただ確実なことは、遅くとも三年後、延宝三年(一六七五)春以前に江戸に下っていたことと、その前年延宝二年三月十七日、師の季吟から、作法書「埋木』伝受された事実だけである。現在芭蕉記念館に蔵する写本『埋木』巻末に、季吟が自筆で「宗房生」が「俳諧執心浅カラザルニ依リテ」この季吟家伝の秘書を写させ、奥書を加える旨を書きつけて、「延宝二年弥生中七季吟(花押)」と、著名しているからである。
芭蕉の東下には、小沢卜尺または向井卜宅が同道したと伝えられる。卜尺は江戸木舟町の名主で、季吟門の俳人。ト宅は藤堂任口の家臣でこれまた季吟門である。江戸について、草鞋をぬいだのはト尺の所とも、杉山杉風の家とも伝えられる。杉風は屋号を鯉屋といい、小田原町に住んでいた幕府御用の魚問屋であり、姉が甲斐に居て天和二年に芭蕉が甲斐に逃れたときに逗留したとの話もあるが、多くの文学者や歴史家は否定している。(別述)