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山口素堂 天和3年 癸亥 1683 42才

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天和3年 癸亥 1683 42才
 
世相
……二月、長崎貿易の奢侈輸入品を禁止。町人の帯刀を禁止。
五月、将軍世子徳松五才で死去。
七月、「新武家諸法度」を発令。
九月側用人牧野成貞に二万石加増して関宿城主とする。歌舞伎役者の衣服の制限。
十二月、江戸大火。
 
俳壇
……三月、西鶴西山宗因の一周忌追善興行。春、一晶江戸に下向し定住。
四月、三千風、仙台を発ち、七年に及ぶ全国行脚を行なう。
 
芭蕉の甲州落
……『芭蕉の全貌』萩原蘿月氏著。
・金沢の北枝が火災に遭うた見舞いの文中にも、
「池魚の災承り、我も甲斐の山里に引き移り、さまぐ苦労致し候へば、御
難儀のほど察し申候」と芭蕉が云っている。云々
 
『枯尾華』「芭蕉終焉記」其角著
 

天和三年の冬、深川の草庵急火かこまれ、湖にひたり笘をかつぎて煙のうち生のびん。是ぞ玉の緒のはかなき初也。爰に猶加火宅の變を悟り、無住所の心を発して、其次の年、夏の半に甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければ、それより三更月下入無我 といひけん、昔の跡に立帰りおはしければ、人々うれしくて、焼原の舊艸に庵を結び。しばし心とゞまる詠にもとて一かぶの芭蕉を植えたり。云々

 
蘿月氏談
…甲斐の国には芭蕉門下の杉風の姉が住んでいたといふ略傳の説が事実とすれば、一層好都合であったろう。なほ甲斐の国は俳友素堂の郷国であるから、素堂が何等かの後援して、芭蕉を甲斐の国に一時安住の地を得しめたのではないかと、私は憶測を逞うするのであるが、之を実証するに足る文献が発見されないのは遺憾とする所である。
 
筆註……この其角の文中の「天和三年の冬」は「天和二年の冬」の間違いであると多くの識者は指摘している。
 
『次郎兵衛物語』‥‥者の多くはこの著本を偽作とする。
 
『芭蕉談四編』「次郎兵衛物語』 東肥八代        乞隠文曉編。
 
(前文略)
其十二月(天和二年)廿八日江戸大火の由伊勢津の御本家に早飛脚参り、伊勢より上野に申参候。しかも深川邊一宇ものこらす焼失したる由甚心遺ひに存、取あへす天和三年正月六日に上野を出立いたし、
十一日暮比江戸に入込、見る所深川邊一宇も残らす焼失したりと見へたり。尤板かこひになりたる屋敷もみゆれと、渡によりては川向ゑなとは烟くさき所もありと見へたり。芭蕉庵はいつくならんと段々人に問けれと、しりたる人なし。そこよ爰かと尋廻る中に醫者らしき人に行逢たり。尋候へは芭蕉翁の事なれは、日本榎の上行寺といへる引のき給へりと。直尋行たりしに尋あたりたり。
其夜の御物語に、芭蕉翁にも漸危き事に御逢なされたり。小坊か事にかゝりけれとも、我に気遣ひし給ふなと一さんにかけ出たり。(この後火災に遭遇した模様が続く(略)
天和三年に朝鮮人来朝の事あるによって、失火類焼の神社、仏閣、武家、町屋、造営造作さし急ぎ候様にと申渡しに相成。
深川邊は五六十日には、大半作事成就になる。
芭蕉庵も受門人より四十四五日には移徒ありけり。しかれとも翁は中橋の沾徳、茅場町其角、本所の素堂、堀江町不卜、呉服町調和、濱町の嵐雪、其外所々に招かれ給ひ、庵にかへり給ふ事は希也。我も庵の留守居を相勤め、
四月伊賀にかへり、又六月に江戸に行、又十一月伊賀に帰り、
翌正月十八日伊賀を立、廿九日深川に着せり、
其年天和三年也。丸一年の内に大火の跡、一軒ものこらす、家々成就しにけり。
此数年大阪の宗因と云人あって俳諧の宗匠たりしが、其前年三月十八日とかに相果申されけるとそ。
 
筆註
……残念ながら『次郎兵衛物語』には芭蕉の甲斐流寓の記載はない。芭蕉は貞享二年にも甲斐を訪れているが、子細は伝わらない。
 
素堂……六月、『虚栗』  其角編。荷興十唱、発句一入集。
凩よ世に拾はれぬみなし栗                其角
改正
禮者門レ敲しだくらく花明か也             
賎よ春餅に蔦はふ宿ならん                三峰
初えぼしかざりの床やむら烏              玉尺
先伴に太山おろしや門の松                残詞
春ン紫ニ負フレ葩ヲ木深き宿を山路哉            翠紅
餅ヲ焼て富を知ル日の轉士哉              麋塒
句ひねたり今年廿五ノ翁          文排
髭隠るやと にかざす藪柑子              杉風
いでや春地なし小袖のかいとりせる        信徳
月は更科もあれ我蓬莱の朝日守            友静
釈迦迯て彌勒進まず國の春                春澄
山松やうらの藪より今朝の春              千之
六尺袴着て塵見帰らじ松の門              千春
春ごとに松は食くふて年ふるや            卜尺
春得たり人たり殊に男たり                楊水
春ヲ何と凩のごまめ時雨の海老              嵐蘭
餅の室根深を蘭の薫リ哉                    嵐竹
海老臥龍餅をうがつに玉あらん            北鯤
屠蘇ふらば傘すてん若時雨                楓風
朝明のはつねの關や            李下
餅の島ごまめの白 眠リけり                洗口
初禮や富士をかさねて扇狩                枳風
代ヲ様ス銀池に鴻の觜鈍し          仙化
民の戸や松に餅さく百代          柳興
初なぎやしらけの嶋の空セ榧                 山
花申せ吉野三味線國栖                    才丸
烟の中に年の昏けるを
霞むらん火 出見の世の朝渚              似春
なれも戀猫に伽羅焼てうかれけり 嵐雪
傘にねぐらかさうやぬれ燕                其角

髭風ヲ吹て暮秋歎ルハ誰子
 
芭蕉

贈一鐵
亦や鰹命あらば我も                      素堂
素堂…… 荷興十唱
浮葉巻葉此蓮風情過たらん                 々
鳥うたふ風蓮露を礫けり           々
そよがさす蓮雨に魚の児躍                 々
荷たれて母にそふ鴨の枕蚊屋               々
青蜻花のはちすの胡蝶かな                 々
おのれつぼみ己レ畫きてはちすらん          
花芙蓉美女湯あがりて立りけり             々
荷ヲうって霞    君みずや村雨             
蓮世界翠の不二の沈むらく                 々
或ハ唐茶ニ翠        蓮の梶                
改夏                             々
ほとゝぎす正月は梅の花咲リ              芭蕉   正=ム
山彦と啼く子規夢ヲ切ル斧                 素堂
素堂が池に望む
風秋の荷葉二扇をくゝる也                其角
 
俳文学の系譜』
……山本唯一氏著。「様式の系譜」
花芙蓉美女湯あがりて立りけり           素堂
蓮の花の咲いている艶麗なさまに、美女の湯上がりの立姿を感じ取ってつくられた句であり、情緒の類似というのが発想の主契機となっている句なのである。
さらにいえば、眼前にあるものはただ蓮の花だけであり、美女の湯あがりの立姿は、作者がそれに与えた一種の想像上の像()であったのである。
鳥うたふ風蓮露を礫けり                 素堂
おのれつぼみ己レ畫きてはちすらん       々
 
「礫けり」は「つぶてけり」とよむのであろう。そしてそれはつぶてという体言を動詞化したので、例えばまつりごとがまつりごつとなるのと同様であると考えられはする。しかし他に類例をみないので、異例としなければならない。もっとも「とばしけり」と読むとすれば別である。次の「はちすらん」に至っては、全く国語の語法を無視したものといわなければなるまい。たとい詩歌ででもこのようなものは許されるべきではないであろう。
(略)換言すればその定型を破った佶倔の表現は、そのまま彼らの内面の感動のリズムをそのまま句としていたのであった。彼らの句の直接胸にせまってくるもののあるのは、そのためであろう。
或ハ唐茶ニ翠     蓮の梶
(略)すべてのものを見る目、ものを感ずる心が中国的になっている。云々
荷ヲうって霞  君みずや村雨
(略)その結果、表現は漢詩的になり漢語を多く用いるようになっていた。
浮葉巻葉此蓮風情過たらん
鳥うたふ風蓮露を礫けり
そよがさす蓮雨に魚の児躍

これは素堂の「荷興十唱」の初めの三句である。三句は『三体詩』に収められている韓 の「野塘」と題する。「侵レ暁乗レ涼偶独来、不レ因魚躍見 萍開 、捲荷忽被 微風触 、潟瀉下清香露一盃」の詩と関係がなくはないだろうか。「魚躍」「捲荷」「微風」などという語が目につく。素堂は『続虚栗』の序において「野渡無レ人舟自横」という韋応物の詩句をひいているが、これも『三体詩』に収められているのである。

 
与謝蕪村の素堂像
〔素堂余話〕
参考……『蕪村連句選集』(『紫狐庵聯句集』) 安永四年(1775)刊。
其の二
浮葉巻葉此蓮風情過たらん                素堂
月を残して暁の雨                        蕪村
渡り鳥ゆかしや里を筋違に                卅魚
圓坐も秋の黄ばみそめたり                 仝
能句ありあられ聯句の席も哉               村
(以下略)
解説……なほ脇起しの一巻は二十四句で了って歌仙の約束に叶はない事も言ひ添えて置かう。京都寺村助右衛門氏蔵。
(『日本俳書大系』「蕪村一代集」蕪村連句選集。神田豊穂氏著)
 
『新雑談集』上 蝶夢編。天明五年(1785)刊。
浮葉巻葉此蓮風情過たらむ                素堂
乾鮭や琴の斧うつ響有                    蕪村
蕉翁曰、素堂が句、蓮と音によまされば、一句の手柄なきに似たりと、
く是を考えるに、蕪翁の琴に斧うつといへるも趣相におなじ。さるを片田
舎より文の端に琴の字音引せられしは、音訓差別ありての事にやなど、なじり聞え侍りしは、句を聞ことの疎きのみかは、不幸にして古人の句をも多く見さりし人にや。いとおほつかなし。
 
『蕪村発句集』
倣 素堂
乾鮭や琴の斧うつひゞきあり
 
『井華集』几董編。天明七年刊。
倣 素堂口質
雁がねも春の夕暮となりけり
風呂の戸をあけて鴈見る名残哉
 
『蕪村文集』(『春泥発句集』)安永六年(1769)刊。
-蕪村と召波(春泥舎)との質疑。
蕪村- (前略)しかれども常に其友を撰て、其人に交るにあらざれば、其郷に至ることかたし。
召波- 其友とするものは誰や

蕪村- 其角を尋ね、嵐雪を訪ひ、素堂を倡ひ、鬼貫に伴ふ.日々四老に會して、はつかに市城名刺を域を離れ、林園に遊び山水にうたげし、酒を酌みて談笑し、句を得る事専ラ不用意を尊ぶ。云々

 
『鬼貫句選』跋。明和六年(1769)作。
…五子の風韻をしらざるものには、ともに俳諧をかたらず、五子といふものは、其角・嵐雪・素堂・去来・鬼つら也。其角・嵐雪おのおの其集あり。素堂はもとより句少なく、去来おのづから句多きも、諸家にの選にもるゝこと侍らず、ひとり鬼貫は大家にして、世に傳る句まれ也。云々
于時明和己丑春正月                      三菓軒蕪村書
 
取句法
其角之豪壮、 嵐雪之高華、 去来之眞卒、素堂之洒落、

各可レ法、麥林支考雖 句格賤陋 ナリト各々為ス一家

亦有 可レ取者 。
 
 
芭蕉庵再興勧進簿
素堂…… 九月、昨冬焼失した「芭蕉庵再興勧進簿」を草す。

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