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戦国武将の黄金山 泉昌彦氏著

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戦国武将の黄金山

 戦国時代に武田氏と並ぶ隣国の武将には、
越後の上杉氏(佐渡金山)
相模の北条氏(伊豆金銀山)
駿河の今川氏(富士、阿部の金山)
信州の諏訪氏(金鶏、真志野金山)
同州の大井氏(樺山、川端下金山)
上杉管領地 (奥秩父金山)
 以上の中心武将の他に中国地方では大内、毛利、吉川、小笠原の各氏が天文学的産銀をみた石州銀山(島根県大田市)をめぐって激しい取合いを演じた。
 また生野銀山(兵庫県朝来郡)を領有していた山名氏も、信長のために召上げられた。
 このほか、陸奥では藤原氏の亡んだあとの黄金山は和田義盛(文治五年:一一八九年)から北条泰時(建暦二年:一二ー二年)の支配を経て、戦国時代には大崎氏が遠田、玉造、栗原(宮城県)など五郡を領していた。遠田郡は現在の遠田郡西部に当たり、東部は小田郡(古代末期小田保となる)にふくまれていた。砂一升砂金一升の小田郡からは、年々砂金の上納がなされている記録がある(余日記録)。
 大崎氏に対し、葛西氏は東部の気仙、本吉七郡を領して黄金山を分割支配して接地を争っていたが、天正十八(一五九〇)年に至って豊臣氏の小田原攻めに参禅せずに、大崎義隆、葛西晴信は所領没収されて両氏の旧領は
木村、吉清、清久にあたえられたが、これも太閤検地に反対した旧大崎、葛西氏の金掘り、地侍、百姓の一揆を平定した伊達政宗の所領に帰した。
 同じ陸奥においては羽後、陸中にかけて黄金山を経営した武田同族の甲斐源氏に「南部氏」がある。
 南部氏は、源義光-義清-清光に十一人の男子があり、その第三子、加々美遠光の男光行が始祖で、甲斐の南部荘(今の南巨摩郡南部町)を初地としたところから南部氏を氏とした。
 浅利氏は、一般に清光のむすこ義遠が甲斐浅利荘(西八代郡豊富村)を氏とし、光行とも鎌倉御家人であったが、文治五(一一八九)年の奥州征討の功によって、光行は糖部五郡をあたえられ、義遠はいまの北秋田郡の赤
利又(鷹巣町)を初地として、のちに比内郷(比内町)に十孤城を築いて蟠踞したが、光行とも甲斐にも知行地があって一族が支配していた。 浅利氏が武田氏の黄金山開発と練金になんらかの影響をあたえたとかいう点は、甲州金に打たれた「松木」の極印、松木家由緒書(後述)によると、浅利氏の一族で内紛から飯室(豊富村)に分家したと記されている(甲州金の項参照)。
 南部氏は、藩政時代に入ってからも、鹿角(かずの)郡の白根金山、紫波郡の朴金山などを経営したが、鎌倉時代からすでに陸前、陸中にかけて砂金洗取による産金があった。
 浅利氏も初地の赤利又において鎌倉時代から産金し、比内郷に移ってからも、阿仁金山によって金掘りの武士団化した動向は、江戸時代の紀行作家であり詩人であった菅江真澄(一七五四~一八二九)の遊覧記や通蹟伝説
によっても覗われる。
 この浅利氏が武田氏の金山経営にどんな影響をあたえたかは、南部、浅利、佐竹氏の武田同族による金銀銅山の現地調査をした昭和四十六年の資料をかいつまんでおく。
 佐竹氏は南部氏と檜山安東氏(後の秋田氏)との間にはさまれて一国統治ではなく、郡司的な分割知行であった。このためしばしば双方の侵略をうけて激しい攻防戦を展開しながら支配地を固守した。これらの争乱も浅利
氏の知行地に黄金の富帯鉱床があったから(阿仁、赤利又金山など菅江真澄記にある)といえよう。

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