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甲州金

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甲州金

【徳川貨幣の母胎】

金貨の発展段階としては、砂金から竹流金〔たけながしきん〕といった棹
金や板金、そして蛭藻金〔ひるもきん〕や無銘大判と呼ばれる延金へ、形態上では進化してきたが、いわゆる貨幣制度といったものは、まだ全く整っていなかった。
それが武田信玄の創鋳になるといわれる甲州金の出現によって、突然変異のように現われてきたのである。この貨幣制度は武田氏が亡びたあとも徳川家康によって引き継がれ徳川幣制の母胎になってゆく。家康の幣制統一後も甲斐園内に限定されていたとはいえ、甲州金だけが文政期まで発行、通用を許されていたのも、こうした縁があったからといえよう。

【甲州金の貨幣単位】

数多くの金山と優秀な採掘技術者をかかえていた武田信玄は、永禄十年(1567)今川氏を討って、富士、安倍の両金山をあわせたのを機に志村、野中、山下、松木の四家に命じて量目を表示した金貨幣をつくらせた。
量目の単位は、
両、分 =4分の一両、
  朱   =4分の一
種中  =二分の一栄
糸目  =二分の一朱中
小糸目 =二分一糸目
小糸目中=二分1小糸目
で、この丙・分・朱の四進法単位が、そのまま徳川幣制の中に引き継がれたのである。

【古甲金と新甲金】

前にも述べたように、甲州金は江戸時代にはいってからも鋳造されたが、武田時代につくられたものと、それ以後につくられたものとは、はっきりした違いがある。そこで前者を古甲金、後者を新甲金と呼んで区別している。
 古甲金は裏が石臼打ち(石の上で叩いたあと)になっていた。
 新甲金は、-分、二朱、-朱、米車と二進額面四種に限られており、裏は
平澗で忠、甲棄、甲重、甲定の四種のうち、いずれかの極印が打ってあるものが多い。

【新甲金の背極印】

新甲金の裏に打たれている忠、安、重、定の極印は瀬戸浩平氏の研究によって人名の一字であることが確証づけられつつある。忠は元和二年(1616)から甲州を領した二代将軍秀忠の次男徳川忠長の忠,重は甲府侯の祖といわれる三代将軍家光の三男綱重の重であることは確定している。これから類推して、安は宝永元年(1704)に甲州領主になった柳沢吉保の幼名・房安の安、定は享保年間の若年寄筆頭水野忠定の定ではないかとみられている。
なお安には、極印の位置によって下安〔しもやす〕、中安〔なかやす〕の二種があり、中安は後鋳とみられ、品位は変らないが、現存数は少ない。なお甲は甲州の甲である。 

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