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須田正継先生之碑 イスラム教への理解者

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須田正継先生之碑 イスラム教への理解者

『山梨のいしぶみ』山梨日日新聞社 昭和52年刊
 
【註】この記事は、昭和52年以前の記事。
 塩山市下萩原、通称東山と呼ばれるこのあたりは県内でも代表的な果樹産地であり、桜桃栽培先覚者・菊島謙二翁の碑も建てられている。山の中腹までブドウだなが広がり、その間の道を登って行くと文殊院という曹洞宗寺院がある。日本で唯二のイスラム教霊園がある寺である。寺の入り口の小高い場所に、ちょうど塩山市内を見下ろすような格好で高さ二・五メートルほどの碑が建てられている。「須田正継先生之碑」と刻まれている。
須田正継は明治二十六年八月十日東八代郡一宮町小城に生まれた。父親は教育者であったという。日川中学、豊島師範、東京外語大を経て外務省に入った。外語大在学中はロシア語を専修し非常にすぐれていたといわれる。外務省から留学生としてロシアに渡り、戦争が始まってからはそのまま大陸にとどまることになった。ノモンハン事件当時は飯事館嘱託として中国で特務機関的使命を帯びて活躍、大アジア主義を唱え、世界統一政府こそ理想とした右翼思想の持ち主であった。
 そうしたなかで、イスラム教の問題が大陸政策の上で、さらには戦争を
遂行する上で避けられないものであることに気づき、もとより研究熱心な須田に聞け」と言われるほどイスラム教に精通し、またそれを理解するようになった。
 やがて終戦を迎え、結局世界統一政府樹立の夢は果たせぬまま帰国したが、それ以後も世界平和への願いを依然として持ち続け、宗教については「宗教の根本的な思想は世界中のどの宗教についても同じであり、一神教も多神教も相対立すべきものではない。人類の平和はすべての人々の願いである。仏教もイスラム教もキリスト教も、それのみをもって平和への根拠とするべきではなく
それぞれの調和した一つのものを創出すべきである」と考えるに至った。
 昭和三十七年、パキスタンから宗教使節団が来日、各地の寺院、寺社を訪問して回った。その時一行の世話をしたのが須田であった。帰国に先立ち、須田の故郷にも人でもあったことから、やがて「イスラム教のことならぜひ行ってみたいというパキスタン使節団の意向もあって、同年七月、山梨を訪れ、身延山や恵林寺に滞在したあと、この文殊院を訪れた。その時にはさまざまな宗教的問題について熱心に論議されたという。帰国後同寺はパキスタンの雑誌などに「奇跡の寺、文殊院」として紹介され、イスラム教徒の間ではよく知られた寺となった。
 イスラム教では死者はすべて土葬とされる。そのためイスラム教圏外で死亡者が出た場合などは、その都度、遺体を飛行機で運ばねばならなかった。そんなことから日本国内にもぜひイスラム教の霊園をという話が持ち上がり、さまざまな宗教的条件から文殊院がその最適地とされた。
 同寺住職の古屋大量氏も須田と同じように「仏教のみをもって宗教と考えるのではなく、多くの種叛の宗教はすべて融和しなければならない。また困っている時にはいつでも助け合わねばならない」と考えていたことから快くその申し出を引き受けた。その後幾多の障壁を乗り越えて日本一のイスラム教霊園の誕生となったわけある。昭和四十二年のことであった。
 現在中近東を主に、イスラム教圏二十二カ国の霊園となっており、十二の遺体が埋葬されている。以後日本在住の、また日本に来たイスラム教徒がしばしば同寺を訪れ、一日五回、聖地メッカの方に向かって三十分ずつ礼拝するという。また五十一年秋にはエジプトから、王の持つものと同じコーランが日本イスラム教会を通じて届けられ、手厚く保管されている。
 世界統一政府への夢は破れたが、仏教とイスラム教の交流には貴重な役割を果たした須田は、三十九年九月十六日、その生涯を閉じた。
戒名、文教院聖学永昭居士。墓は東八代郡一宮町広厳院にある。

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