素堂と西山宗因(にしやまそういん)
生年・:慶長十年(1605)歿年:・天和二年(1682)年七十八才。
西山豊一氏。通称五郎八。宗因は連歌の号。西翁、梅翁。
肥後国八代の生まれ。宗因は元和五年(1619)十五才の頃から加藤家二代の君主忠広の家老八代城主加藤正方の側近に仕え、寛永九年(1632)加藤家改易浪人、旧主正方(片岡風庵)に従い京都、伏見の間に住し、正保元年(1644)摂津国西成郡南中嶋惣社天万宮の連歌所宗匠に里村家の世話で就職、大阪に赴任した。その後連歌師としての地位と名声を得て、陸奥岩城平の城主内藤風虎を初め全国の文人大名に知偶を得て旅行する。
延宝三年(1675)には内藤風虎に招かれて『談林十百韻』を興行する素堂も参加する。この時素堂三十四才、宗因は七十才である。『甲斐国志』には素堂の友人とあるがそれは年齢差から押しても有り得ない事である。年代は定かではないが素堂と宗因の交流を示す資料がある。大野酒竹編の『素堂句集』の詞文「蟻道が句のこと」に、
予が若かりし頃、難波津にて興行
春日山の下手代めか
藤原の又兵衛とそ名乗りける 梅翁
と付けられしを人々興に侍りき
この興行の詳細は伝わらなく未見である。