鳳来村(鳥原・教来石・山口・国堺・大武川)
『甲州夏草道中 上巻』「明治天皇巡幸路を行く」昭和11年8月6日~12日
山梨日日新聞社刊 一部加筆
村長小林政長、助役中島庫之助、収入役渡辺喜久治各氏外、吏員、各区長、長駆出迎えられた校長丸茂敏氏、教頭有賀宣一氏や村有志等に案内され、六地蔵を過ぎ、国道を左折、石尊神社の石門をくぐって鳥原の教来石民部の宅跡へ迂廻した。宅跡、丘上殿畑の桑畑からは先史民族時代の土器の出土が多数である(石器は少ない)。ここでの展望はいうべくもなく朗かだ。篠尾村笹尾の蜂火台「鐘つるし」岩に相対する釜無を隔てて南―最も高き山は「万燈火山」で昔の蜂火台跡、今日一行を迎えるために午前八時から正午まで実際に狼煙をあげてお待ち中したのにと、小林村長は午後一時近く着いた一行を、残念そうに見る。万燈火に続く城山・城の沢・新城・陣場・矢の下(低い所)などの名に見て、民部(馬場美濃守信房)はここの辺りに城を築いたものと伝えられる。また万燈火の麓、鳥原部落は桓武天皇十三年「甲斐の白鳥」を献じた故事にちなんだ地名でもある。振り返れば、七里岩を越えて八ヶ岳の大裾野、茅ケ岳、金峰の頂き、御坂連峰から富士まで微笑みかけるこの宅跡の幸よ!裏門跡を下りながら、村長は
「夏草道中に刺戟されて、当村でも、明治大帝聖蹟は勿論、旧蹟保存方法を考究することになった」
と喜ばしい話だ。
道は御駐陣の跡標を左に、午後一時二十分諏訪神社境内へ、道中一行が設けられた席に着くのを待って、丸茂校長の慰労の辞、村長の鳳来村名の説明(大武川と鳥原の大鳥(鳳)と上下教来石の来)があり、カラサン姿の女子青年団員の接待に昼食を済ませてから、わざわざ甲府からはせ参じた、相生町小松屋旅館の三井幸作老(七二)から大帝御巡幸の目の思い出をきいた。同氏は当時十六歳で灰原義一郎(十四)・海野義徳(十五)(両氏とも故人)の二人とともに御駐陣の河西九郎須氏方へ給仕役として召され、氷を銀皿に載せて、徳大寺侍従長の手許まで運んだ上、電信の仮設(当時針金便りといった)に驚いたこと、小林良吉老(七七)が御小休係り、故堀田多之吉、小池喜一郎がそれぞれ田植係、宿警戒係の各頭取となったこと、三井老と小池政古氏方の田(ともに田植えを二十日以上延ばして、ひたすら御巡幸を待おわび申した)二枚の田植えを国道から天覧せられたこと、さよう、早乙女は十四、五人が二組に分れ、早乙女奉仕の中で、三井老の姉さん、円野村草間やすさん、良吉老の妻女あささんなどは、いいお婆さんになって現存していること。二枚の田では、この地方の田植え歌の馬八節を交互に歌い交わしたが、音頭をとった故人宮下直吉氏の、思い出して心美声であったことなど、聞き終わると、すすめられて小林・三井両老は、
オオヤレナ、オー歌をば しゃんと、中高にアアコレヤ、中高に 大船の船をばゆらり、コレヤゆらりと
なまけてくれちよ早乙女衆、この末に五斗五升蒔きの田がある
と、歌ったが、雅趣ゆたかなひな振りだった。さらに小林村長が語る大覚禅師と諏訪明神の力比べの教化石の伝説に興じて一同出発、左に甲府の元標から九里(三六キロ)この里程標柱を、右に端場の教来石公園にある芭蕉の句碑
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
を読み、加久保沢を渡って上教来石に入る。御膳水(湧水 址は現存)、教化石を訪ね、山口番所を過ぎて、晴れ渡った紺碧の空の下、白い国道を一気に甲信国境国界橋へ向う。この辺り、右手に七里岩、釜無川を望み、左に釜無山を仰ぐ活達な展望で、風もみすずかる信濃路からか、秋気ひとしおの味である。三時五十五分、ついに国界橋の鉄橋を踏む。渡れば長野県諏訪郡落合村下蔦木だ。
一同橋上で勢揃い、しばし来し方を顧望低徊し、甲州道中完成の歓喜といまさらの旅愁とに、旅ならではの情感である。それにしても橋上、野口社長発声の「夏草甲州道中」万歳の、いかに高く、晴ればれしかったことか。山口番所跡に戻る。役宅は現存しない。勤務した名取亀六氏(後若尾輝信と改名)相続者、甥にあたる本三郎の家やの相続者、甥に当る本三郎氏の家々、二宮清造氏一家は北海道に去って、宮沢令宣氏が留守居役である。間道は南の山裾にあったという。番所附近から南の諏訪明神の石段を上り、村、学校、田心女青年団の心尽しのむしろに腰を下して麦湯にのどをうるおし、青年団の盆踊りに一同拍手。教来石の名は、日本武尊示東征のとき、お休みになった石、その昔、経来石といったのから、いっか転化しての教来石で「大川(大武川)を経て来し石村に、家庭も見ゆ、あわれ」が伝わっていると、文政年同心府への報告の写しが現に下教米石の牛山基宣氏方に保存されている。
四時半一行は神前に整列、礼拝して解散式だ。杉檜の大樹の下、境内は神さびて、一段と緊張を覚える。野口社長はこの行の意義をのべてから、会員の統制ある行動、沿道各町有志、男女青年団の厚意と各講師の労を謝したが、小林村長、名取青年団長交々祝辞を述べ、講師代表村松心学氏、会員代表、輿石正久校長の謝辞、これに続き、野口社長、小林村長の発声で鳳来村と甲州道中との。万歳を交換して、めでたく、名残り惜しく六泊七日にわたる甲州道中二十五次二十七里(108キロ)の膝栗毛(ひざくりげ)を終わった。
〔註〕町村合併によって、大鶴、大日、甲東村は現在上野原町。富浜村、猿橋町、大月町、初狩村、笹子村は大月市。初鹿野、日影村は大和村。日川村は山梨市。甲運村は甲府市。竜王村は竜王町。川崎村は双葉町。神山村、清哲村、円野村は韮崎市。菅原村、鳳来村は白州町。