武田三代詳細年譜 天文十一年(1542)~天文十二年(1543)
基本資料
高白=高白斎実記(甲陽日記) 栗原左兵衛 ……『甲斐資料集成7 歴史部』
妙法=妙法寺記 妙法寺住僧 ……『甲斐資料集成7 歴史部』
甲陽=甲陽軍艦
参考資料
武田=武田史料集 清水茂夫氏服部治則氏校註 昭和42年刊。
暦年=日本歴史年表 歴史学研究会編
山梨=図説 山梨県の歴史 磯貝正義氏著 河出書房新社刊。
武川=武川村誌、年表
小笠=小笠原文書
鎌倉=鎌倉大草紙
一蓮=一蓮寺文書 甲斐甲府
王代=王代記
甲斐=甲斐国志
高野=高野山文書 高野山引導院過去帳
勝山=勝山記
宝寿=宝寿至要旧記
御頭=諏訪神使御頭之日記
歴名=歴名士代
津金=信州津金文書
寛政=寛政重修諸家譜
塩山=塩山向岳禅庵小年代記
堀江=堀江文書
守矢=守矢文書
積翠=積翠寺文書
系図=武田系図
東大=保阪潤治旧蔵東大史料蔵本
神使=守矢文書/神使御頭之日記
神幸=当社神幸記
甲陽=甲陽軍艦
小平=小平物語
高野=高野山引導院過去帳
○= 地域周辺の事。
●= 武田家に関すること。
◎= 中央の出来事。
※= 武田家周辺の事。
天文十一年 1542【高白】《信虎-49歳・信玄-22歳》
○此年、正月大朔日、十三日立春、
●二月九日定奉行衆初る。廿四日午刻御勢調。三月大朔日、十五日。
●三月大朔日、十五日。
天文十一年 1542 2月【甲陽】
●天文十一年二月中旬に、信濃の国大身衆、小笠原、諏訪頼重、村上義清、木曽殿、尽く申合わせ、甲州武田晴信公、退治いたすべきとの評議の事、甲府へきこへ、武田の家老、板垣信方、飯富兵部、甘利備前、諸角豊後、原加賀守、日向大和守、其外皆々家老衆、足軽大将、弓矢巧者の武篇者、打寄り談合仕る。一ツ書をもって、晴信公へいさめ申上る。云々
●(略)子細は五年以前、父信虎を追出申す時、義元を頼み、駿河へ方便出だし、信虎公を駿府にとどめ置まいらせらるゝは、偏に、義元へ、むざい故故也。義元如此(かくのごとき)段、精に入、我等甲州をふみしづめ候様に分別せられ候。奥意は、信虎公は、舅と申老巧の大将なれば、、我旗下に仕ル事ならず、某は又義元に二ツの年劣り候へば、旗下にせんと有る、覚悟なるべきなり、さある所に、加勢こひ候共、我らは、義元にはた下に究り候。加勢をこひ候共、あなたなどより、人質を出し、是非共、我等参るか、さなくば家老の者共、如何ほども進ずべきなど申に付け、人数を呼候はゞ、それをあなたをこなたの、旗下に仕ての儀也。
天文十一年 1542 3月 9日【甲陽】
●天文十一年、初の三月九日、辰の刻(午前八時)に甲州方から始められたこの合戦は未の刻(午後二時)に終わった。信濃勢を討ち取ること千六百二十一名、その頸帳を記し、勝どきをあげられた。
●信濃小笠原長時・諏訪頼重・村上義清・木曾義康ら、武田晴信を甲斐の攻める。晴信信濃瀬沢に迎え撃ってこれを破る。【戦国】
●味方にも負傷者・死者が多数あり、飯富兵部、甘利備前も負傷した。
●信州瀬沢合戦とはこれである。信玄公が二十二歳の御時であった。(品第二十二)
●小笠原・諏訪・村上・木曾氏、連合して甲信国境瀬沢・平沢で武田氏と戦い、敗退す
ると伝える。【長野】
天文十一年 1542 4月【高白】
●四月節向上諏訪御出馬、朝曇り、細雨、大井の森御陣所温井人衆も高白に同心仕候。
天文十一年 1542 4月29日【高白】
●廿九日、みさ山原御陣所□(京鳥)取候て御調美。
天文十一年 1542 5月23日【王代】
○五月廿三日御門立、カチ番匠二百七十四人。
天文十一年 1542 6月【妙法】
●此年、六月、信州諏訪方殿へ取懸被食候。武田殿切勝被食候而、諏訪方殿を生捕に被成候而、府中にて腹を兄弟御切候。
天文十一年 1542【守矢】
●武田晴信、諏訪氏を攻撃し、上原城を落し、諏訪頼重を自殺させる。
天文十一年 1542 7月【妙法】
●又、同年七月、信州伊那へ取懸被食候。伊那衆切劣(負け)て、首三千と聞申候。
●7月5日、晴信が頼重と和し、甲府に伴い東光寺に幽す。【武川/高白】
●7月21日、頼重が自刃する。【武川/高白】
●7月、武田晴信、諏訪頼重を自殺される。
天文十一年 1542 7月 2日【長野】
●武田晴信、高遠諏訪頼継・下社金刺氏とともに、諏訪頼重を諏訪郡上原城に攻めて破り、五日町・十日町・上野原町に放火する。ついで桑原城に頼重を攻め、開城した頼重を捕える。
天文十一年 1542 7月 4日【守矢/神使】
●七月四日、高とやの城を攻め落とし、同五日に頼重甲府へ御越、同廿日の夜御腹めされ候。
天文十一年 1542 7月 5日【長野】
●武田晴信、諏訪頼重を甲斐に幽閉、ついで自刃させる。
●晴信ら、諏訪郡宮川以西を高遠諏訪頼継、以東を晴信の所領と協定する。
天文十一年 1542 8月【高白】
●士峯御陣所諏訪の方雲黒赤。
●三日、桑原へ押詰風雨。
●四日、桑原城攻頼重を生捕、酉刻各陣所へ帰る。
●五日、頼重甲府へ被遣申刻着府。
●九日、屋形様御帰府。
●十三日、諏訪大悦方へ御預、十八日。
○八月節、十九日、頼重□者。
●廿一日、寅刻頼重被為切腹。
●廿五日、下諏訪始めて出仕。
●八月小、六日、彼岸に入る。
●十二日、棟別(せんべつ)帳始む。
天文十一年 1542 7月 8日【長野】
●武田晴信、諏訪上社に諏訪神戸、矢崎の地で灯明田と社僧領を寄進する。
天文十一年 1542 9月【高白】
●九月小、十日午刻、下諏訪放火、
●十日に頼重息虎王殿を引立、従甲府御出張。【守矢/神使】
●翌十一日信方向諏訪勤。
●十九日、巳刻御出馬、若神子御陣所。
●同廿五日に一戦候て、高遠之人数七百騎討取候。頼重おぢ薩摩殿(満隆)甲州御同心
にて候。【守矢/神使】
●廿五日、未刻出て宮川橋御合戦、蓮芳被為陣取。長坂筑後守・「栗原左衛門」高名、
酉刻御勝利。
●廿六日、廿六日辰刻被仰付候間高白藤沢口放火案内者。神長一騎。諏訪薩摩守方竹慶は遅着陣。
●廿八日、箕輪次郎出仕。
●廿九日、信方上伊那口斗勤。
天文十一年 1542 9月10日【長野】
●諏訪郡折半に不満な高遠諏訪頼継、上社禰宜矢島満清と語らい、上原城を奪い下社に放火、上・下社を占領する。
天文十一年 1542 9月25日【武川/高白】
●晴信が高遠頼継を諏訪の安国寺に破る。 ●武田晴信が諏訪頼信を破り、諏訪氏の全所領を支配する。
天文十一年 1542 9月24日【守矢】
○納め奉る願書の事。今度の働き利運に就いては、具足壹領・馬壹疋・伊那郡に於て百貫文、神領、これを付するべきものなり、仍って願書かくの如し。
天文拾壹年九月廿四日 武田大膳大夫晴信(花押)
諏訪法性上下大明神御宝前
●信州諏訪於て安国寺前宮川端、頸一ツ討取候、神妙之至、
弥此上可袖忠信之状如件、
天文十一年九月二十五日 晴信 印
正徳寺平次左衛門との
天文十一年 1542 9月26日【長野】
●武田方駒井高白斎、伊那郡に入り、藤沢口に放火、福与城の藤沢頼親(よりちか)を
降す。板垣信方も出兵する。
天文十一年 1542【妙法】
○此年、秋世中一向悪く候而、大風三度迄吹申候。人々餓死事無限。去共賣買安し。飢
饉渇にて御座候。並て三年致餓死候。
天文十一年 1542 10月【高白】
●十月大朔日、高白陣所上伊那山寺。
●七日、諏訪西方の衆鳴御室鈴の奉行高白。
天文十一年 1542 10月 7日【長野】
●諏訪上社神長守矢頼真(よりざね)、武田晴信に味方し、諏訪頼継方の矢島満清にか
わり同社禰宜を兼ねる。
天文十一年 1542 10月【戦国】
●信濃村上義清、小笠原長時の援兵とともに武田晴信と同国大門峠に戦い、敗れる。
天文十一月 1542 11月【高白】
●十一月大朔日
●十九刻甘利備前守、新屋の普請初。
二十九日、従駿府高井兵庫之助、御縁御祝言為御使参府。
天文十一年 1542 12月【高白】
○十二月小朔日、五日土用。
●十五日、夜従彌津御前様御越御祝言。
○廿三日立春。
天文十一年 1542 12月15日【長野】
●晴信、小県郡彌津元直の娘を娶る。このころ諏訪頼重の娘も娶る。
●晴信、この年以降、信濃一宮諏訪上下社を保護する。
天文十二年 1543 1月 3日【甲陽軍艦】《信虎-50歳・晴信-23歳》
基本資料
高白=高白斎実記(甲陽日記) 栗原左兵衛 ……『甲斐資料集成7 歴史部』
妙法=妙法寺記 妙法寺住僧 ……『甲斐資料集成7 歴史部』
甲陽=甲陽軍艦
参考資料
武田=武田史料集 清水茂夫氏服部治則氏校註 昭和42年刊。
暦年=日本歴史年表 歴史学研究会編
山梨=図説 山梨県の歴史 磯貝正義氏著 河出書房新社刊。
武川=武川村誌、年表
小笠=小笠原文書
鎌倉=鎌倉大草紙
一蓮=一蓮寺文書 甲斐甲府
王代=王代記
甲斐=甲斐国志
高野=高野山文書 高野山引導院過去帳
勝山=勝山記
宝寿=宝寿至要旧記
御頭=諏訪神使御頭之日記
歴名=歴名士代
津金=信州津金文書
寛政=寛政重修諸家譜
塩山=塩山向岳禅庵小年代記
堀江=堀江文書
守矢=守矢文書
積翠=積翠寺文書
系図=武田系図
東大=保阪潤治旧蔵東大史料蔵本
神使=守矢文書/神使御頭之日記
神幸=当社神幸記
甲陽=甲陽軍艦
小平=小平物語
高野=高野山引導院過去帳
○= 地域周辺の事。
●= 武田家に関すること。
◎= 中央の出来事。
※= 武田家周辺の事。
天文十一年 1542【高白】《信虎-49歳・信玄-22歳》
○此年、正月大朔日、十三日立春、
●二月九日定奉行衆初る。廿四日午刻御勢調。三月大朔日、十五日。
●三月大朔日、十五日。
天文十一年 1542 2月【甲陽】
●天文十一年二月中旬に、信濃の国大身衆、小笠原、諏訪頼重、村上義清、木曽殿、尽く申合わせ、甲州武田晴信公、退治いたすべきとの評議の事、甲府へきこへ、武田の家老、板垣信方、飯富兵部、甘利備前、諸角豊後、原加賀守、日向大和守、其外皆々家老衆、足軽大将、弓矢巧者の武篇者、打寄り談合仕る。一ツ書をもって、晴信公へいさめ申上る。云々
●(略)子細は五年以前、父信虎を追出申す時、義元を頼み、駿河へ方便出だし、信虎公を駿府にとどめ置まいらせらるゝは、偏に、義元へ、むざい故故也。義元如此(かくのごとき)段、精に入、我等甲州をふみしづめ候様に分別せられ候。奥意は、信虎公は、舅と申老巧の大将なれば、、我旗下に仕ル事ならず、某は又義元に二ツの年劣り候へば、旗下にせんと有る、覚悟なるべきなり、さある所に、加勢こひ候共、我らは、義元にはた下に究り候。加勢をこひ候共、あなたなどより、人質を出し、是非共、我等参るか、さなくば家老の者共、如何ほども進ずべきなど申に付け、人数を呼候はゞ、それをあなたをこなたの、旗下に仕ての儀也。
天文十一年 1542 3月 9日【甲陽】
●天文十一年、初の三月九日、辰の刻(午前八時)に甲州方から始められたこの合戦は未の刻(午後二時)に終わった。信濃勢を討ち取ること千六百二十一名、その頸帳を記し、勝どきをあげられた。
●信濃小笠原長時・諏訪頼重・村上義清・木曾義康ら、武田晴信を甲斐の攻める。晴信信濃瀬沢に迎え撃ってこれを破る。【戦国】
●味方にも負傷者・死者が多数あり、飯富兵部、甘利備前も負傷した。
●信州瀬沢合戦とはこれである。信玄公が二十二歳の御時であった。(品第二十二)
●小笠原・諏訪・村上・木曾氏、連合して甲信国境瀬沢・平沢で武田氏と戦い、敗退す
ると伝える。【長野】
天文十一年 1542 4月【高白】
●四月節向上諏訪御出馬、朝曇り、細雨、大井の森御陣所温井人衆も高白に同心仕候。
天文十一年 1542 4月29日【高白】
●廿九日、みさ山原御陣所□(京鳥)取候て御調美。
天文十一年 1542 5月23日【王代】
○五月廿三日御門立、カチ番匠二百七十四人。
天文十一年 1542 6月【妙法】
●此年、六月、信州諏訪方殿へ取懸被食候。武田殿切勝被食候而、諏訪方殿を生捕に被成候而、府中にて腹を兄弟御切候。
天文十一年 1542【守矢】
●武田晴信、諏訪氏を攻撃し、上原城を落し、諏訪頼重を自殺させる。
天文十一年 1542 7月【妙法】
●又、同年七月、信州伊那へ取懸被食候。伊那衆切劣(負け)て、首三千と聞申候。
●7月5日、晴信が頼重と和し、甲府に伴い東光寺に幽す。【武川/高白】
●7月21日、頼重が自刃する。【武川/高白】
●7月、武田晴信、諏訪頼重を自殺される。
天文十一年 1542 7月 2日【長野】
●武田晴信、高遠諏訪頼継・下社金刺氏とともに、諏訪頼重を諏訪郡上原城に攻めて破り、五日町・十日町・上野原町に放火する。ついで桑原城に頼重を攻め、開城した頼重を捕える。
天文十一年 1542 7月 4日【守矢/神使】
●七月四日、高とやの城を攻め落とし、同五日に頼重甲府へ御越、同廿日の夜御腹めされ候。
天文十一年 1542 7月 5日【長野】
●武田晴信、諏訪頼重を甲斐に幽閉、ついで自刃させる。
●晴信ら、諏訪郡宮川以西を高遠諏訪頼継、以東を晴信の所領と協定する。
天文十一年 1542 8月【高白】
●士峯御陣所諏訪の方雲黒赤。
●三日、桑原へ押詰風雨。
●四日、桑原城攻頼重を生捕、酉刻各陣所へ帰る。
●五日、頼重甲府へ被遣申刻着府。
●九日、屋形様御帰府。
●十三日、諏訪大悦方へ御預、十八日。
○八月節、十九日、頼重□者。
●廿一日、寅刻頼重被為切腹。
●廿五日、下諏訪始めて出仕。
●八月小、六日、彼岸に入る。
●十二日、棟別(せんべつ)帳始む。
天文十一年 1542 7月 8日【長野】
●武田晴信、諏訪上社に諏訪神戸、矢崎の地で灯明田と社僧領を寄進する。
天文十一年 1542 9月【高白】
●九月小、十日午刻、下諏訪放火、
●十日に頼重息虎王殿を引立、従甲府御出張。【守矢/神使】
●翌十一日信方向諏訪勤。
●十九日、巳刻御出馬、若神子御陣所。
●同廿五日に一戦候て、高遠之人数七百騎討取候。頼重おぢ薩摩殿(満隆)甲州御同心
にて候。【守矢/神使】
●廿五日、未刻出て宮川橋御合戦、蓮芳被為陣取。長坂筑後守・「栗原左衛門」高名、
酉刻御勝利。
●廿六日、廿六日辰刻被仰付候間高白藤沢口放火案内者。神長一騎。諏訪薩摩守方竹慶は遅着陣。
●廿八日、箕輪次郎出仕。
●廿九日、信方上伊那口斗勤。
天文十一年 1542 9月10日【長野】
●諏訪郡折半に不満な高遠諏訪頼継、上社禰宜矢島満清と語らい、上原城を奪い下社に放火、上・下社を占領する。
天文十一年 1542 9月25日【武川/高白】
●晴信が高遠頼継を諏訪の安国寺に破る。 ●武田晴信が諏訪頼信を破り、諏訪氏の全所領を支配する。
天文十一年 1542 9月24日【守矢】
○納め奉る願書の事。今度の働き利運に就いては、具足壹領・馬壹疋・伊那郡に於て百貫文、神領、これを付するべきものなり、仍って願書かくの如し。
天文拾壹年九月廿四日 武田大膳大夫晴信(花押)
諏訪法性上下大明神御宝前
●信州諏訪於て安国寺前宮川端、頸一ツ討取候、神妙之至、
弥此上可袖忠信之状如件、
天文十一年九月二十五日 晴信 印
正徳寺平次左衛門との
天文十一年 1542 9月26日【長野】
●武田方駒井高白斎、伊那郡に入り、藤沢口に放火、福与城の藤沢頼親(よりちか)を
降す。板垣信方も出兵する。
天文十一年 1542【妙法】
○此年、秋世中一向悪く候而、大風三度迄吹申候。人々餓死事無限。去共賣買安し。飢
饉渇にて御座候。並て三年致餓死候。
天文十一年 1542 10月【高白】
●十月大朔日、高白陣所上伊那山寺。
●七日、諏訪西方の衆鳴御室鈴の奉行高白。
天文十一年 1542 10月 7日【長野】
●諏訪上社神長守矢頼真(よりざね)、武田晴信に味方し、諏訪頼継方の矢島満清にか
わり同社禰宜を兼ねる。
天文十一年 1542 10月【戦国】
●信濃村上義清、小笠原長時の援兵とともに武田晴信と同国大門峠に戦い、敗れる。
天文十一月 1542 11月【高白】
●十一月大朔日
●十九刻甘利備前守、新屋の普請初。
二十九日、従駿府高井兵庫之助、御縁御祝言為御使参府。
天文十一年 1542 12月【高白】
○十二月小朔日、五日土用。
●十五日、夜従彌津御前様御越御祝言。
○廿三日立春。
天文十一年 1542 12月15日【長野】
●晴信、小県郡彌津元直の娘を娶る。このころ諏訪頼重の娘も娶る。
●晴信、この年以降、信濃一宮諏訪上下社を保護する。
天文十二年 1543 1月 3日【甲陽軍艦】《信虎-50歳・晴信-23歳》