武田三代年表 享禄四年(1531)~ 天文十年(1541)
甲陽=高白斎実記(甲陽日記) 栗原左兵衛 ……『甲斐資料集成7 歴史部』
妙法=妙法寺記 妙法寺住僧 ……『甲斐資料集成7 歴史部』
軍艦=甲陽軍艦
参考資料
武田=武田史料集 清水茂夫氏服部治則氏校註 昭和42年刊。
暦年=日本歴史年表 歴史学研究会編
山梨=図説 山梨県の歴史 磯貝正義氏著 河出書房新社刊。
武川=武川村誌、年表
小笠=小笠原文書
鎌倉=鎌倉大草紙
一蓮=一蓮寺文書 甲斐甲府
王代=王代記
甲斐=甲斐国志
高野=高野山文書 高野山引導院過去帳
勝山=勝山記
宝寿=宝寿至要旧記
御頭=諏訪神使御頭之日記
歴名=歴名士代
津金=信州津金文書
寛政=寛政重修諸家譜
塩山=塩山向岳禅庵小年代記
堀江=堀江文書
守矢=守矢文書
積翠=積翠寺文書
系図=武田系図
東大=保阪潤治旧蔵東大史料蔵本
神使=守矢文書/神使御頭之日記
神幸=当社神幸記
戦国=年表戦国史
○= 地域周辺の事。
●= 武田家に関すること。
◎= 中央の出来事。
※= 武田家周辺の事。
享禄 四年 1531 1月21日【妙法】《信虎-38歳・信玄11歳》
●此年、正月廿一日、浦殿。栗原殿、屋形をさみし奉て府内を引退。御嶽へ馬を入候。去間浦信本も御同心にて、御座候。
●然は此人々信州諏方殿を頼候而、府中向めされ候。河原辺にて軍あり。浦衆打負、栗原兵庫殿、諏方殿、打死被食候。打取頭八百計云々。其儘信州勢は皆引被申候。
※此年、萬力に而三河守殿死被食候。
○此年、春人々つまる事無限。賣買安、米二斗五合、大豆二斗五合、小豆二斗に賣買申候
○此年、少童疱を病む事無限。千死一生也。大麦は五斗賣申候。
○此年、七月西に当て星一と焼。
○此年、基本寺へ参詣申處、折節江州より小猿楽下候而、長沢にて能を致候。猿楽と申若衆と申言語同断、見物此事に候。此年の正月御本寺御影堂の上葺めされ候。本願東御
坊。
享禄 四年 1531 1月21日【武川】
●飯富虎昌・栗原兵庫・大井信業らが、武田信虎に叛いて、御嶽に屯し、ついで逸見今井信元(浦殿)の拠点小倉浦城に入城した。
享禄 四年 1531 1月22日【武川/当社神事記】
●是より先、下諏訪社人が牢人を集めて篠尾城に入り、反信虎と対していたが、この日牢人衆が敗れて篠尾砦は自落した。
享禄 四年 1531 2月 2日【武川/一蓮】
●武田信虎が逸見今井ら、小倉浦に拠る叛徒を城外誘い、大打撃を与え、今井尾張守大井信業らを斬る。
享禄 四年 1531 3月【王代】
●三月七日、曾禰三州縄直大庄ニ陣取。十二日ハ塩川ニテ諏訪衆合戦。諏訪三百人討死。十三一日三州上之坊ニ陣取。十六日辰尅討死。
享禄 四年 1531 4月12日【武川/勝山記】
●武田信虎が今井信元・栗原兵庫ら及び諏訪某ら大軍を河原部(韮崎)に攻めて大いに破り、栗原・諏訪らを打ち取る。
享禄 四年 1531 4月12日【守矢/神使】
●諏訪頼満、武田信虎と甲斐塩川に戦う。
●此年、鶚御親父(諏訪頼隆)安芸守頼満、甲州エ出張候。四月十二日於塩河合戦候。数多討死、乍去合戦カチイクサ(勝ち戦)候。
享禄 四年 1531【守矢/神幸】
●同四年、甲州へ自此方打入、韮崎ニ陣取、於河原合戦、一日ニ四五度、花岡方矢島善九郎・小井弖六郎討死候。其他十余騎討死候。打勝候而敵方数百討捕、得大利、逸見其
外餘多此方ノ手ニ被討候。
享禄 四年 1531 11月18日【王代】
○十一月十八日、法光寺炎上。那智山色川の百姓寺社一モ不残焼候。□本ハ残。
享禄 五年 1532【妙法】(天文元年改元)《信虎-39歳・信玄12歳》
○此年、春人々つまる事無限。雑事一向無て野にて雑事を摘事無限。
○此年、大麦小麦共吉。秋世中吉、日照る事無限。此方に不限。天下皆悉照り申候。
○此年、むけから宗(無碍光宗)と云者、天下にはびこりて、諸宗を責申候。殊更法花宗を一向に可失談合を被申候。去間むけから宗は廿萬法花宗は五百計御座候。何れも経文に身をまかせ候而、弓矢を取被申候。去間法花宗切勝候而、むけから宗を責失事無限。
《註-『武田資料集』》
むけから宗…無碍光宗。無碍光仏は、人や法の何物にも障害されない光の功徳によって名付けられた阿弥陀仏の異称であるから、むけから宗は一向宗。
天文 元年 1532 8月 9日【妙法】
○此年、八月、九月、両月東に当て星燃る。余不思議さに書付ける。
天文 元年 1532 9月【妙法】
●此年、九月浦の信元武田殿に敵を被食候。去間信州の衆大勢頼養候而、浦へ籠り被食候去程に、一国寄て、浦の城を責被食候、されども終に浦信本劣(まけ)被食候而。屋形へ降参申候去間、城を屋形へ渡し申候而、ひさしたに御つめ被食候。一国御無異に成候。
天文 元年 1532 10月【妙法】
○此年十月、某部屋を致建立。此年、むけから宗を退治めされ候而。年号を改被食候。
※此年、小山越中守殿、上様御死去被食候。
○去間此年、中谷村へ御越候而、新屋鋪を御立候頓而成就候。御上意御わたまし御越被食候。一家国皆々御越候。此年熊野余(奈)良もむけから宗焼申候。
天文 元年 1532 9月【武川/勝山】
●逸見今井信元が信虎に小倉浦(中尾)城に拠って叛いたが、信虎の反撃を受けて敗れ降る。野と等は小倉浦城を没収し、信元を府中に錮す。
○甲州八幡宮奉納□□八月ヨリカハル。【王代】
天文 二年 1533【妙法】《信虎-40歳・信玄13歳》
○此年、春方福貴す。
●武田殿御所焼る。
※小山田氏殿は七十坪の家を造る。国中越被食候。
○此年、猿橋焼申候。
○此年三月十六日、夜上吉田皆焼る。上行寺は残申候。是は佛力と存候。
○此年、賣買此方は安候。大原の湖ほる事無限。
○此年、五月、六月、七月迄大雨降て耕作凶、去共賣買安し。銭けかちにて御座候。
○此年、谷村焼候。
●此年、武田殿、川越殿の息女をむかひ候。御供衆中無申候。
○此年、下吉田方々、渡辺庄左衛門殿と水沙汰御座候。色々堰を落しつ落されつ被食候。去る程に小山田殿預り申候。色々様々の沙汰候へ共、終には下吉田勝て候。
○八幡宮鳥居ノ地蔵再興。今は御門ノ南ニ立。【王代】
天文 三年 1534 1月【長野】
○安曇郡松尾寺本堂、甲斐大工により修理される。
天文 三年 1534【妙法】《信虎-41歳・信玄14歳》
○此年、正月閏月。此春言語道断餓死致候而、人々つまる事無限。次に疫病はやり候而、皆々病み申候。去共賣買一切安し。銭飢渇にて御座候。
○此年、大麦は十分の越て能候。
○此年は始年八月より明る年の四月迄、蕨を掘り候而。皆身命を継候。
○此年の秋、世中十分の御座候を風吹候而、三ケ一の世中と申候。去共米三升、小豆四升其余は賣買何れも安候。
○此年、御本寺より西蓮院御越候寺、本堂の葺板を勧進被成候。去間百駄御座候。
○此年、五月より八月迄いきれ事無限。
●此月霜月、当国屋形源太郎殿上様川越より御越候而、一年御座候而懐胎被食死去被食候。
○此年は雪も一向降らず。
○閏正月アリ。薬師堂ニ扉カクル。八幡宮中ニ水入ルヽ。【王代】
天文 三年 1534【高白】
○春より夏迄疫病人多死。
天文 三年 1534 9月【武川/勝山】
●信虎の子太郎がっ武蔵川越の上杉朝興の女を娶る。
●上杉夫人は翌年妊娠するが、難産で早世する。
天文 四年 1535【高白】《信虎-42歳・信玄15歳》
○正月小。
○舞台修造本願休室、大工宮内丞番定九十五人。
天文 四年 1535 1月24日【武川/宝寿】
○甘利郷大公寺主玄室慶参が入寂する。
天文 四年 1535【妙法】
○此年正月より暄気に御座候。二月大風吹て皆家を損ざし候。
○此年、正月四日の夜、森の三郎左衛門自火にて、三人焼死。
○此年、二月廿九日の昼、常在寺焼る。造立する九年目也。
※此年、小林道光御死去。次に難義なる咳病はやりて皆死去申候。
天文 四年 1535 6月 3日【高白】
◎三好海雲等細川澄元か子晴元を大将にして、細川高国と於攝州尼崎合戦高国敗軍自殺す。
天文 四年 1535 7月【暦年】
●北条氏綱・今川氏輝、甲斐に武田信虎を破る。
●今川氏輝、北条氏綱の援を得て、甲斐都留郡山中に武田信虎の兵と戦い、これを破
る。【戦国】
天文 四年 1535 8月22日【妙法】
●此年、八月廿二日、相模の屋形勢を遣被食而、人数二萬四千。御方は二千計て、小山田殿軍を被成候。小山田殿劣(負け)被食候而。弾正殿、大輔殿、侍者周防殿、小林左京助殿下の検断殿随分方々打死被食候。殊に勝沼の人数以上二百四十人打死申候。
○其日上吉田焼申候。明る日、下吉田焼申候。
○此年、十月妙授死去被申候世中十分。
天文 四年 1535 8月22日【武川/勝山】
◎北条氏綱が二万四000の大軍を率いて、都留郡山中に来攻、甲州方は武田・小山田連合して二000の劣勢で大敗し、勝沼信友およびその部下二四0が戦死する。
天文 四年 1535 9月17日【武川/御頭】
●信虎が信州諏訪郡堺川に出張し、諏訪頼満と和し、諏訪上社の宝鈴を鳴らす。
天文 四年 1535 9月17日【守矢/御頭】
●武田信虎、諏訪頼満(碧雲斎)と堺川に会し、和睦する。
●此年、武田信虎ト碧雲斎、於堺川ニ参会、当社御宝鈴ヲモタセラレ、於堺川ニ御宝鈴被仰候。神長(守矢頼真)ツヅラノ箱ニ御宝ヲソヘテ六人ニカツガセ御供申、信虎・碧雲両所ノ間ニテ神長申立ツカマツリナラシ候。堺川迄御宝御越候事往古ヨリ是始ニ候。
彼川ノ北ノハタニテ鳴ラシ申候。往古ヨリナキハウニ候間、九月十七日ニ御宝鈴鳴候而其月ノ内ニ又不会、武田殿ヨリ参銭七出候。
天文 五年 1536【妙法】《信虎-43歳・信玄16歳》
○此年、正月暖気に御座候。はい畑に降申候。
■此年。正月暖気に御座候、事イ畑に降申候。《註…事=地震》【武田】
天文 五年 1536【高白】
○正月大七日立春。二月御即位。
○此年、正月十四日、夜大風吹候而、皆々家を損し申候。
○若宮舞殿造作ス。【王代】
天文 五年 1536 1月17日【武川/歴名】
●信虎の子太郎(晴信)が従五位下に叙される。
天文 五年 1536 2月11日【妙法】
※此年、小林和泉殿死去。
天文 五年 1536 3月【高白】
●武田晴信公、元服十六歳、義晴の諱の晴の字を賜ふ。
天文 五年 1536 3月【武川/高白】
●太郎(晴信)が元服して将軍足利義晴の偏諱を賜り、武田晴信と名のる。
天文 五年 1536 3月17日
◎今川氏照、同彦五郎同時に死す。
天文 五年 1536 4月10日(17日【武田】)
●駿河の屋形御兄弟(今川氏輝)死去被食候。
天文 五年 1536 5月24日【高白】
※五月二十四日、夜氏照の老母福島越前守宿所へ行花蔵と同心して翌廿五日従未明於駿府戦夜中、福島常久能へ引籠る。六月十四日花蔵生害。
天文 五年 1536 5月【妙法】
○此年、五月より七月迄雨降候字言語道断餓死殊更疫病はやり申候。
天文 五年 1536 6月 8日【妙法】
※花蔵殿福島一門皆相模氏綱の人数が責めころし被申候。去程に善待寺殿屋形になをり被食候。
天文 五年 1536 6月【妙法】
※此年、六月当国府中にて前島一門皆上意叛き腹を切申候。去程に一国奉行衆他国へ越被申候。
※此年、浄泉の田地を六郎左衛門殿請取被申候。
※此年、小林刑部左衛門殿松原さきを屋鋪に御立候。次に相模の青根のからをちらし被食候。足弱を百人計御取候。蓮眞坊寺焼被申候。
天文 五年 1536 6月【武川/勝山】
●これより先、駿河守護今川氏輝没して子無く、氏輝の同母弟承芳(義元の僧名)と異
母弟恵探とが氏輝の跡目相続を争った。
●信虎は氏輝・承芳の母寿桂もの請援を容れて承芳を推し、信虎の重臣前島一派は恵探を推した。この日、承芳が遷俗して義元と名のり、守護となる。信虎は前島一門に自刃を命じる。
天文 五年 1536 7月【軍艦】
○晴信が三条公頼の二女を娶る。
天文 五年 1536 12月【戦国】
●12月、甲斐武田信虎、晴信父子、平賀成頼を信濃海野口城に攻め、これお陥れる。
天文 六年 1537【高白】《信虎-44歳・信玄17歳》
○正月大。
○在庁上葺造作ス。コシカへ入ル五貫文。
○御小人善四郎殿勧進、当代官軈テ秋山民部丞ニ被成。
天文 六年 1537 1月【妙法】
○此年、正月暄に候。疫病はやり申候。殊更言語道断致餓死候而賣買なし。
天文 六年 1537 2月10日【妙法】
○此年、二月十日当国屋形御息女様、駿河屋形の御上になほり被食候。去程に相模の氏輝色々さまたけ被食候へ共成不申候而、終には弓矢に成候而、駿河国を奥津迄焼被食候。去程に武田殿も須走口へ御馬出し被食候。
天文 六年 1537 2月【暦年】
●今川義元、武田信虎の娘を妻とし、北条殿と絶交する。
天文 六年 1537【妙法】
※此年、御宿殿此国御越候出陣の案内者に成被食候。
※此年、尾暮殿満座にて打たれ玉ふ。
○此年、春風再々吹事無限。
○此年、常在寺御堂十月十日卯刻に立申候。
※次に河越殿、相模の屋形に城を取られ玉ふ。去程に松山を拵御座候。
○此年、童子共疱を致死候事無限。然に十月十六日より雪降候而。寒き事近年に無し。下吉田くね木を皆々切候。
※駿河屋形と氏縄(綱)の取合未止。
天文 七年 1538【高白】《信虎-45歳・信玄18歳》
※正月小。北条氏康、上杉憲政・上杉朝定と武州河越にて合戦。氏康勝利。
○引付二月三日ニ。五ケ持於曾・萩原一日半時。【王代】
天文 七年 1538 1月17日【妙法】
○此年、正月十七日夜大風吹候而、
○其後二月三月大風度々吹申候。去間冬の寒に大麦ぬけ候而、一向無御座候。此方に不限大原も皆損し無御座候。此春も皆人餓死致し候而、つまる事無限。
※此年迄も相州・甲州の取合不止。
○小麦草生は能御座候。
天文 七年 1538 5月16日【妙法】
●夜新宿を夜懸被致候。吉田宿中のおとな衆は下吉田河原に在所被成候。其後武田殿、氏縄、和談候而、吉田へ御帰。
天文 七年 1538 5月16日【山梨】
●北条軍、吉田新宿を夜襲する。
天文 七年 1538 8月【山梨】
●信虎、冷泉為和を招き、和歌の会を信虎の屋敷で開く。
天文 七年 1538 10月12日【妙法】
※此年、十月十二日夜須走殿八刀殿談合候而、上吉田へ夜懸を被成候、然に一宿の旁曲断候而、悉く打殺され候。
天文 七年 1538 10月12日【山梨】
●北条軍、上吉田を夜襲する。
天文 八年 1539【甲陽軍艦】《信虎-45歳・信玄18歳》
●天文八年正月元日の日。右の亥の年の間じゅう、晴信公のご行跡が乱れ果てていたことは、当時ご奉公していた人びとも、これを残らず申し立てることはできないほどであったという。云々(本文参照)
天文 八年 1539【高白】
○正月、大。
○大持人足鎮目沢尻万力鳥居笠木知野宮ニテ伐。
天文 八年 1539 6月【甲陽軍艦】
●(略)信州方は、甲信両国の国境に砦を構え、やがては甲州へ侵入しようとの準備を整えて、村上義清勢は、若神子筋の境、諏訪勢は台ケ原筋へと、それぞれ千四、五百ずつの軍勢を向けてきた。
●晴信公の側からは、若神子筋には、飯富兵部が八百騎を率いて進撃し、村上勢と対戦諏訪地方には板垣信方がこれも七百騎で出撃した。
●六月二十日辰の刻、飯富兵部の軍を防戦に勝利し、村上勢の雑兵九十七人を討ち取った。これは念場、野辺山という場所でのことである。
●また板垣信方は、同月二十三日巳の刻(午前十時)、蔦木において防戦に成功、諏訪勢の雑兵百十五人を討ち取った。云々
天文 八年 1539【妙法】
※此年も未だ両国取相不止然秋世中半分。
○此年、導者に下吉田にて附候。法花堂には鬮を取宿を取被申候。在所六ヶ所鋪御座候
而、民も喜申候。
○此年。極月十五日に大風吹候而、大水出て候。
天文 八年 1539 10月【妙法】
※此年十月、小林刑部左衛門殿、松山を御立て候。大原富貴。此方はけかちと見候。
天文 八年 1539 11月 1日【甲陽軍艦】
●(略)晴信公は、そこではじめて心づかれ、板垣信方をご寝所につれて行き、涙を流して誓紙を入れられ、それまでの無軌道をお直しなった。
●晴信公が十九歳の御時のことである。当時、晴信公がお作りになった詩、二十首ほどを本になさり、京都の高僧が序文を書かれたものが残されている。(品第十九)
●此年、武田信虎、甲斐大井俣窪八幡社を造立し、総門前の石橋を高遠石工北原茂右衛門が造る。【長野】
天文 九年 1540【高白】《信虎-47歳・信玄20歳》
○正月大。春夏大疫人多死。
天文 九年 1540【王代】
○命禄と伊豆暦ニスル也。八幡宮鳥居二月廿七日河畔ニ始立。八月十一日申時ヨリ大風、河原明神社大木打散ス。
天文 九年 1540【妙法】
○此年、春賣買安し。殊更大麦分十に越候。賣買六升、小麦二升五合買申候。
○五月、六月大雨降世中さんさんに候處、又八月十一日の暮程に大風吹候而、亥刻迄三時吹申候。大海端は皆浪に引れ、山家は大木に打破られ、堂寺宮悉く吹たふし候。地下
に家は千に一寓に一御座候。鳥獣皆死申候。世間の大木は一本も無御座候。去程に世の中の事申に不及候。殊の外物一向無御座候。浄泉寺も吹たふし申候。諏訪方の鳥居をも
吹たふし申候。諏訪の松をは一萬本計と承候。
天文 九年 1540 4月【武川/塩山】
●信虎が板垣信方に命じて信州佐久郡に侵入し、臼田、入沢両城のほか、数十の城を陥
れ前山城を築いて布陣する。
天文 九年 1540 5月【長野】
●武田信虎、佐久郡に攻め入り、臼田・入沢両城をはじめ数十の城を落とし、前山城に布陣する。
●七月、諏訪頼重、信虎と結び小県郡長窪城を占拠する。
天文 九年 1540 8月 2【武川/津金】
●信虎が佐久郡の占領地に伝馬制を布く。
●武田信虎、佐久郡海之口郷に伝馬制をしき、竜朱印の手形携行者以外に伝馬を出すことを禁じる。【長野】
天文 九年 1540 9月【妙法】
●此年、九月より武田殿信州へ取懸被食候。去程に弓矢に切勝被食候而、一日に城を三十六落し被申候と聞え候。去共佐久郡と申候を御手に入候。
※小山田殿と小林宮内助殿一城をかまへ候。去間此方寄子近付陣立しげく候而、皆々迷惑いたし候。
○此年、七月御本寺へ参詣申候而、坊号を賜(【武田】輝)候。人数千人計に而候。殊大石より寺を買い候而本寺当寺立て申候。
●此年、武田殿御息心、信州諏訪殿御前に御なほり候。
◎此年、鎌倉若宮八幡御遷宮。
天文 九年 1540 11月 8日【妙法】
○此年、霜月八日猿橋掛り申候。
天文 九年 1540 11月15日【妙法】
◎霜月十五日、伊勢新九郎殿氏縄の御本願と申傳之候。殊雪ふらず。
天文 九年 1540 11月29日【武川/御頭】
●信虎の息女祢祢が諏訪頼重に嫁す。
●この頃、信虎、娘等を彌津神平・海野某らに嫁がせる。【長野】
天文 十年 1541【妙法】《信虎-48歳・信玄21歳》
○正月大。二日立春。二月大。三月小。四月立夏。五月小。
天文 十年 1541【妙法】
○此年、春致餓死候而、人馬共死る事無限。百年の内にも無御座候と人々申来るり候。千死一生と申候。
天文 十年 1541 5月14日【長野】
●武田信虎、諏訪頼重・村上義清の連合軍、棟綱の小県郡尾野山城を落とし、この日海野平で大勝する。
●棟綱、関東管領上杉憲政を頼る。彌津・矢沢氏らは信虎に降り、村上氏が勢力を伸ばす。
天文 十年 1541 5月25日【山梨】【武川/御頭】
●信虎ら、海野棟綱を海野平に破る。
天文 十年 1541 5月25日【高白】
●五月二十五日、海野平破、村上義清、諏訪頼重両将出陣。
天文 十年 1541 6月14日【武川/勝山・寛政】
●信虎が晴信の為に駿河に退隠される。この時柳沢信景が信虎に随行する。
天文 十年 1541 6月【戦国】
●信濃小笠原長時、諏訪頼重とともに甲斐武田晴信と同国韮崎に戦い、敗れる。
天文 十年 1541 6月14日【妙法】
●此年、六月十四日に武田大夫殿様(晴信)、親の信虎を駿河国へ押申候。余りに悪行を被成候間加様被食候。去程に地下侍出家男女共喜致満足候事無限。信虎出家被成候
而、駿河に御座候。
●晴信、父信虎を駿河に追放。【山梨】
天文 十年 1541 6月14日【高白】
●六月十四日、信虎公、甲府御立駿府へ御越。至今年無御帰国候。於甲府十六日各存候。
天文 十年 1541 6月14日【王代】
●武田信虎六月十四日、駿州に御出、十七日巳刻晴信屋形ヘ御移。一国平均安全ニ成。
●武田信虎、子晴信に追われ、駿河の今川義元を頼る。
天文 十年 1541 6月28日【高白】
●天恩日三吉日也。御家督御祝儀の御酌温井丹波守。
○七月大。七日立秋。
○八月小。十一日、大風禁中殿門多吹倒す。九月小。十月大。十一月大、二十六日冬至。十二月小。十二日小寒。二十七日大寒。
天文 十年 1541 7月 4日【長野】
●上杉憲政、小県郡の村上義清を攻める。この日諏訪頼重、義清に呼応し同郡長窪へ出陣する。ついで頼重、武田晴信が来援しないため憲政と和する。
天文 十年 1541 7月17日【妙法】
※此年、七月十七日、相模屋形氏縄御死去被食候。
○此年、八月、九月度々大風吹候而、世中一向凶く御座候。
天文 十年 1541 9月23日【武川/堀江】
●駿府の今川義元が信虎の処遇について、晴信に書を寄せ、信虎の隠居手当と女中衆を一日もはやく送るように要求する。
甲陽=高白斎実記(甲陽日記) 栗原左兵衛 ……『甲斐資料集成7 歴史部』
妙法=妙法寺記 妙法寺住僧 ……『甲斐資料集成7 歴史部』
軍艦=甲陽軍艦
参考資料
武田=武田史料集 清水茂夫氏服部治則氏校註 昭和42年刊。
暦年=日本歴史年表 歴史学研究会編
山梨=図説 山梨県の歴史 磯貝正義氏著 河出書房新社刊。
武川=武川村誌、年表
小笠=小笠原文書
鎌倉=鎌倉大草紙
一蓮=一蓮寺文書 甲斐甲府
王代=王代記
甲斐=甲斐国志
高野=高野山文書 高野山引導院過去帳
勝山=勝山記
宝寿=宝寿至要旧記
御頭=諏訪神使御頭之日記
歴名=歴名士代
津金=信州津金文書
寛政=寛政重修諸家譜
塩山=塩山向岳禅庵小年代記
堀江=堀江文書
守矢=守矢文書
積翠=積翠寺文書
系図=武田系図
東大=保阪潤治旧蔵東大史料蔵本
神使=守矢文書/神使御頭之日記
神幸=当社神幸記
戦国=年表戦国史
○= 地域周辺の事。
●= 武田家に関すること。
◎= 中央の出来事。
※= 武田家周辺の事。
享禄 四年 1531 1月21日【妙法】《信虎-38歳・信玄11歳》
●此年、正月廿一日、浦殿。栗原殿、屋形をさみし奉て府内を引退。御嶽へ馬を入候。去間浦信本も御同心にて、御座候。
●然は此人々信州諏方殿を頼候而、府中向めされ候。河原辺にて軍あり。浦衆打負、栗原兵庫殿、諏方殿、打死被食候。打取頭八百計云々。其儘信州勢は皆引被申候。
※此年、萬力に而三河守殿死被食候。
○此年、春人々つまる事無限。賣買安、米二斗五合、大豆二斗五合、小豆二斗に賣買申候
○此年、少童疱を病む事無限。千死一生也。大麦は五斗賣申候。
○此年、七月西に当て星一と焼。
○此年、基本寺へ参詣申處、折節江州より小猿楽下候而、長沢にて能を致候。猿楽と申若衆と申言語同断、見物此事に候。此年の正月御本寺御影堂の上葺めされ候。本願東御
坊。
享禄 四年 1531 1月21日【武川】
●飯富虎昌・栗原兵庫・大井信業らが、武田信虎に叛いて、御嶽に屯し、ついで逸見今井信元(浦殿)の拠点小倉浦城に入城した。
享禄 四年 1531 1月22日【武川/当社神事記】
●是より先、下諏訪社人が牢人を集めて篠尾城に入り、反信虎と対していたが、この日牢人衆が敗れて篠尾砦は自落した。
享禄 四年 1531 2月 2日【武川/一蓮】
●武田信虎が逸見今井ら、小倉浦に拠る叛徒を城外誘い、大打撃を与え、今井尾張守大井信業らを斬る。
享禄 四年 1531 3月【王代】
●三月七日、曾禰三州縄直大庄ニ陣取。十二日ハ塩川ニテ諏訪衆合戦。諏訪三百人討死。十三一日三州上之坊ニ陣取。十六日辰尅討死。
享禄 四年 1531 4月12日【武川/勝山記】
●武田信虎が今井信元・栗原兵庫ら及び諏訪某ら大軍を河原部(韮崎)に攻めて大いに破り、栗原・諏訪らを打ち取る。
享禄 四年 1531 4月12日【守矢/神使】
●諏訪頼満、武田信虎と甲斐塩川に戦う。
●此年、鶚御親父(諏訪頼隆)安芸守頼満、甲州エ出張候。四月十二日於塩河合戦候。数多討死、乍去合戦カチイクサ(勝ち戦)候。
享禄 四年 1531【守矢/神幸】
●同四年、甲州へ自此方打入、韮崎ニ陣取、於河原合戦、一日ニ四五度、花岡方矢島善九郎・小井弖六郎討死候。其他十余騎討死候。打勝候而敵方数百討捕、得大利、逸見其
外餘多此方ノ手ニ被討候。
享禄 四年 1531 11月18日【王代】
○十一月十八日、法光寺炎上。那智山色川の百姓寺社一モ不残焼候。□本ハ残。
享禄 五年 1532【妙法】(天文元年改元)《信虎-39歳・信玄12歳》
○此年、春人々つまる事無限。雑事一向無て野にて雑事を摘事無限。
○此年、大麦小麦共吉。秋世中吉、日照る事無限。此方に不限。天下皆悉照り申候。
○此年、むけから宗(無碍光宗)と云者、天下にはびこりて、諸宗を責申候。殊更法花宗を一向に可失談合を被申候。去間むけから宗は廿萬法花宗は五百計御座候。何れも経文に身をまかせ候而、弓矢を取被申候。去間法花宗切勝候而、むけから宗を責失事無限。
《註-『武田資料集』》
むけから宗…無碍光宗。無碍光仏は、人や法の何物にも障害されない光の功徳によって名付けられた阿弥陀仏の異称であるから、むけから宗は一向宗。
天文 元年 1532 8月 9日【妙法】
○此年、八月、九月、両月東に当て星燃る。余不思議さに書付ける。
天文 元年 1532 9月【妙法】
●此年、九月浦の信元武田殿に敵を被食候。去間信州の衆大勢頼養候而、浦へ籠り被食候去程に、一国寄て、浦の城を責被食候、されども終に浦信本劣(まけ)被食候而。屋形へ降参申候去間、城を屋形へ渡し申候而、ひさしたに御つめ被食候。一国御無異に成候。
天文 元年 1532 10月【妙法】
○此年十月、某部屋を致建立。此年、むけから宗を退治めされ候而。年号を改被食候。
※此年、小山越中守殿、上様御死去被食候。
○去間此年、中谷村へ御越候而、新屋鋪を御立候頓而成就候。御上意御わたまし御越被食候。一家国皆々御越候。此年熊野余(奈)良もむけから宗焼申候。
天文 元年 1532 9月【武川/勝山】
●逸見今井信元が信虎に小倉浦(中尾)城に拠って叛いたが、信虎の反撃を受けて敗れ降る。野と等は小倉浦城を没収し、信元を府中に錮す。
○甲州八幡宮奉納□□八月ヨリカハル。【王代】
天文 二年 1533【妙法】《信虎-40歳・信玄13歳》
○此年、春方福貴す。
●武田殿御所焼る。
※小山田氏殿は七十坪の家を造る。国中越被食候。
○此年、猿橋焼申候。
○此年三月十六日、夜上吉田皆焼る。上行寺は残申候。是は佛力と存候。
○此年、賣買此方は安候。大原の湖ほる事無限。
○此年、五月、六月、七月迄大雨降て耕作凶、去共賣買安し。銭けかちにて御座候。
○此年、谷村焼候。
●此年、武田殿、川越殿の息女をむかひ候。御供衆中無申候。
○此年、下吉田方々、渡辺庄左衛門殿と水沙汰御座候。色々堰を落しつ落されつ被食候。去る程に小山田殿預り申候。色々様々の沙汰候へ共、終には下吉田勝て候。
○八幡宮鳥居ノ地蔵再興。今は御門ノ南ニ立。【王代】
天文 三年 1534 1月【長野】
○安曇郡松尾寺本堂、甲斐大工により修理される。
天文 三年 1534【妙法】《信虎-41歳・信玄14歳》
○此年、正月閏月。此春言語道断餓死致候而、人々つまる事無限。次に疫病はやり候而、皆々病み申候。去共賣買一切安し。銭飢渇にて御座候。
○此年、大麦は十分の越て能候。
○此年は始年八月より明る年の四月迄、蕨を掘り候而。皆身命を継候。
○此年の秋、世中十分の御座候を風吹候而、三ケ一の世中と申候。去共米三升、小豆四升其余は賣買何れも安候。
○此年、御本寺より西蓮院御越候寺、本堂の葺板を勧進被成候。去間百駄御座候。
○此年、五月より八月迄いきれ事無限。
●此月霜月、当国屋形源太郎殿上様川越より御越候而、一年御座候而懐胎被食死去被食候。
○此年は雪も一向降らず。
○閏正月アリ。薬師堂ニ扉カクル。八幡宮中ニ水入ルヽ。【王代】
天文 三年 1534【高白】
○春より夏迄疫病人多死。
天文 三年 1534 9月【武川/勝山】
●信虎の子太郎がっ武蔵川越の上杉朝興の女を娶る。
●上杉夫人は翌年妊娠するが、難産で早世する。
天文 四年 1535【高白】《信虎-42歳・信玄15歳》
○正月小。
○舞台修造本願休室、大工宮内丞番定九十五人。
天文 四年 1535 1月24日【武川/宝寿】
○甘利郷大公寺主玄室慶参が入寂する。
天文 四年 1535【妙法】
○此年正月より暄気に御座候。二月大風吹て皆家を損ざし候。
○此年、正月四日の夜、森の三郎左衛門自火にて、三人焼死。
○此年、二月廿九日の昼、常在寺焼る。造立する九年目也。
※此年、小林道光御死去。次に難義なる咳病はやりて皆死去申候。
天文 四年 1535 6月 3日【高白】
◎三好海雲等細川澄元か子晴元を大将にして、細川高国と於攝州尼崎合戦高国敗軍自殺す。
天文 四年 1535 7月【暦年】
●北条氏綱・今川氏輝、甲斐に武田信虎を破る。
●今川氏輝、北条氏綱の援を得て、甲斐都留郡山中に武田信虎の兵と戦い、これを破
る。【戦国】
天文 四年 1535 8月22日【妙法】
●此年、八月廿二日、相模の屋形勢を遣被食而、人数二萬四千。御方は二千計て、小山田殿軍を被成候。小山田殿劣(負け)被食候而。弾正殿、大輔殿、侍者周防殿、小林左京助殿下の検断殿随分方々打死被食候。殊に勝沼の人数以上二百四十人打死申候。
○其日上吉田焼申候。明る日、下吉田焼申候。
○此年、十月妙授死去被申候世中十分。
天文 四年 1535 8月22日【武川/勝山】
◎北条氏綱が二万四000の大軍を率いて、都留郡山中に来攻、甲州方は武田・小山田連合して二000の劣勢で大敗し、勝沼信友およびその部下二四0が戦死する。
天文 四年 1535 9月17日【武川/御頭】
●信虎が信州諏訪郡堺川に出張し、諏訪頼満と和し、諏訪上社の宝鈴を鳴らす。
天文 四年 1535 9月17日【守矢/御頭】
●武田信虎、諏訪頼満(碧雲斎)と堺川に会し、和睦する。
●此年、武田信虎ト碧雲斎、於堺川ニ参会、当社御宝鈴ヲモタセラレ、於堺川ニ御宝鈴被仰候。神長(守矢頼真)ツヅラノ箱ニ御宝ヲソヘテ六人ニカツガセ御供申、信虎・碧雲両所ノ間ニテ神長申立ツカマツリナラシ候。堺川迄御宝御越候事往古ヨリ是始ニ候。
彼川ノ北ノハタニテ鳴ラシ申候。往古ヨリナキハウニ候間、九月十七日ニ御宝鈴鳴候而其月ノ内ニ又不会、武田殿ヨリ参銭七出候。
天文 五年 1536【妙法】《信虎-43歳・信玄16歳》
○此年、正月暖気に御座候。はい畑に降申候。
■此年。正月暖気に御座候、事イ畑に降申候。《註…事=地震》【武田】
天文 五年 1536【高白】
○正月大七日立春。二月御即位。
○此年、正月十四日、夜大風吹候而、皆々家を損し申候。
○若宮舞殿造作ス。【王代】
天文 五年 1536 1月17日【武川/歴名】
●信虎の子太郎(晴信)が従五位下に叙される。
天文 五年 1536 2月11日【妙法】
※此年、小林和泉殿死去。
天文 五年 1536 3月【高白】
●武田晴信公、元服十六歳、義晴の諱の晴の字を賜ふ。
天文 五年 1536 3月【武川/高白】
●太郎(晴信)が元服して将軍足利義晴の偏諱を賜り、武田晴信と名のる。
天文 五年 1536 3月17日
◎今川氏照、同彦五郎同時に死す。
天文 五年 1536 4月10日(17日【武田】)
●駿河の屋形御兄弟(今川氏輝)死去被食候。
天文 五年 1536 5月24日【高白】
※五月二十四日、夜氏照の老母福島越前守宿所へ行花蔵と同心して翌廿五日従未明於駿府戦夜中、福島常久能へ引籠る。六月十四日花蔵生害。
天文 五年 1536 5月【妙法】
○此年、五月より七月迄雨降候字言語道断餓死殊更疫病はやり申候。
天文 五年 1536 6月 8日【妙法】
※花蔵殿福島一門皆相模氏綱の人数が責めころし被申候。去程に善待寺殿屋形になをり被食候。
天文 五年 1536 6月【妙法】
※此年、六月当国府中にて前島一門皆上意叛き腹を切申候。去程に一国奉行衆他国へ越被申候。
※此年、浄泉の田地を六郎左衛門殿請取被申候。
※此年、小林刑部左衛門殿松原さきを屋鋪に御立候。次に相模の青根のからをちらし被食候。足弱を百人計御取候。蓮眞坊寺焼被申候。
天文 五年 1536 6月【武川/勝山】
●これより先、駿河守護今川氏輝没して子無く、氏輝の同母弟承芳(義元の僧名)と異
母弟恵探とが氏輝の跡目相続を争った。
●信虎は氏輝・承芳の母寿桂もの請援を容れて承芳を推し、信虎の重臣前島一派は恵探を推した。この日、承芳が遷俗して義元と名のり、守護となる。信虎は前島一門に自刃を命じる。
天文 五年 1536 7月【軍艦】
○晴信が三条公頼の二女を娶る。
天文 五年 1536 12月【戦国】
●12月、甲斐武田信虎、晴信父子、平賀成頼を信濃海野口城に攻め、これお陥れる。
天文 六年 1537【高白】《信虎-44歳・信玄17歳》
○正月大。
○在庁上葺造作ス。コシカへ入ル五貫文。
○御小人善四郎殿勧進、当代官軈テ秋山民部丞ニ被成。
天文 六年 1537 1月【妙法】
○此年、正月暄に候。疫病はやり申候。殊更言語道断致餓死候而賣買なし。
天文 六年 1537 2月10日【妙法】
○此年、二月十日当国屋形御息女様、駿河屋形の御上になほり被食候。去程に相模の氏輝色々さまたけ被食候へ共成不申候而、終には弓矢に成候而、駿河国を奥津迄焼被食候。去程に武田殿も須走口へ御馬出し被食候。
天文 六年 1537 2月【暦年】
●今川義元、武田信虎の娘を妻とし、北条殿と絶交する。
天文 六年 1537【妙法】
※此年、御宿殿此国御越候出陣の案内者に成被食候。
※此年、尾暮殿満座にて打たれ玉ふ。
○此年、春風再々吹事無限。
○此年、常在寺御堂十月十日卯刻に立申候。
※次に河越殿、相模の屋形に城を取られ玉ふ。去程に松山を拵御座候。
○此年、童子共疱を致死候事無限。然に十月十六日より雪降候而。寒き事近年に無し。下吉田くね木を皆々切候。
※駿河屋形と氏縄(綱)の取合未止。
天文 七年 1538【高白】《信虎-45歳・信玄18歳》
※正月小。北条氏康、上杉憲政・上杉朝定と武州河越にて合戦。氏康勝利。
○引付二月三日ニ。五ケ持於曾・萩原一日半時。【王代】
天文 七年 1538 1月17日【妙法】
○此年、正月十七日夜大風吹候而、
○其後二月三月大風度々吹申候。去間冬の寒に大麦ぬけ候而、一向無御座候。此方に不限大原も皆損し無御座候。此春も皆人餓死致し候而、つまる事無限。
※此年迄も相州・甲州の取合不止。
○小麦草生は能御座候。
天文 七年 1538 5月16日【妙法】
●夜新宿を夜懸被致候。吉田宿中のおとな衆は下吉田河原に在所被成候。其後武田殿、氏縄、和談候而、吉田へ御帰。
天文 七年 1538 5月16日【山梨】
●北条軍、吉田新宿を夜襲する。
天文 七年 1538 8月【山梨】
●信虎、冷泉為和を招き、和歌の会を信虎の屋敷で開く。
天文 七年 1538 10月12日【妙法】
※此年、十月十二日夜須走殿八刀殿談合候而、上吉田へ夜懸を被成候、然に一宿の旁曲断候而、悉く打殺され候。
天文 七年 1538 10月12日【山梨】
●北条軍、上吉田を夜襲する。
天文 八年 1539【甲陽軍艦】《信虎-45歳・信玄18歳》
●天文八年正月元日の日。右の亥の年の間じゅう、晴信公のご行跡が乱れ果てていたことは、当時ご奉公していた人びとも、これを残らず申し立てることはできないほどであったという。云々(本文参照)
天文 八年 1539【高白】
○正月、大。
○大持人足鎮目沢尻万力鳥居笠木知野宮ニテ伐。
天文 八年 1539 6月【甲陽軍艦】
●(略)信州方は、甲信両国の国境に砦を構え、やがては甲州へ侵入しようとの準備を整えて、村上義清勢は、若神子筋の境、諏訪勢は台ケ原筋へと、それぞれ千四、五百ずつの軍勢を向けてきた。
●晴信公の側からは、若神子筋には、飯富兵部が八百騎を率いて進撃し、村上勢と対戦諏訪地方には板垣信方がこれも七百騎で出撃した。
●六月二十日辰の刻、飯富兵部の軍を防戦に勝利し、村上勢の雑兵九十七人を討ち取った。これは念場、野辺山という場所でのことである。
●また板垣信方は、同月二十三日巳の刻(午前十時)、蔦木において防戦に成功、諏訪勢の雑兵百十五人を討ち取った。云々
天文 八年 1539【妙法】
※此年も未だ両国取相不止然秋世中半分。
○此年、導者に下吉田にて附候。法花堂には鬮を取宿を取被申候。在所六ヶ所鋪御座候
而、民も喜申候。
○此年。極月十五日に大風吹候而、大水出て候。
天文 八年 1539 10月【妙法】
※此年十月、小林刑部左衛門殿、松山を御立て候。大原富貴。此方はけかちと見候。
天文 八年 1539 11月 1日【甲陽軍艦】
●(略)晴信公は、そこではじめて心づかれ、板垣信方をご寝所につれて行き、涙を流して誓紙を入れられ、それまでの無軌道をお直しなった。
●晴信公が十九歳の御時のことである。当時、晴信公がお作りになった詩、二十首ほどを本になさり、京都の高僧が序文を書かれたものが残されている。(品第十九)
●此年、武田信虎、甲斐大井俣窪八幡社を造立し、総門前の石橋を高遠石工北原茂右衛門が造る。【長野】
天文 九年 1540【高白】《信虎-47歳・信玄20歳》
○正月大。春夏大疫人多死。
天文 九年 1540【王代】
○命禄と伊豆暦ニスル也。八幡宮鳥居二月廿七日河畔ニ始立。八月十一日申時ヨリ大風、河原明神社大木打散ス。
天文 九年 1540【妙法】
○此年、春賣買安し。殊更大麦分十に越候。賣買六升、小麦二升五合買申候。
○五月、六月大雨降世中さんさんに候處、又八月十一日の暮程に大風吹候而、亥刻迄三時吹申候。大海端は皆浪に引れ、山家は大木に打破られ、堂寺宮悉く吹たふし候。地下
に家は千に一寓に一御座候。鳥獣皆死申候。世間の大木は一本も無御座候。去程に世の中の事申に不及候。殊の外物一向無御座候。浄泉寺も吹たふし申候。諏訪方の鳥居をも
吹たふし申候。諏訪の松をは一萬本計と承候。
天文 九年 1540 4月【武川/塩山】
●信虎が板垣信方に命じて信州佐久郡に侵入し、臼田、入沢両城のほか、数十の城を陥
れ前山城を築いて布陣する。
天文 九年 1540 5月【長野】
●武田信虎、佐久郡に攻め入り、臼田・入沢両城をはじめ数十の城を落とし、前山城に布陣する。
●七月、諏訪頼重、信虎と結び小県郡長窪城を占拠する。
天文 九年 1540 8月 2【武川/津金】
●信虎が佐久郡の占領地に伝馬制を布く。
●武田信虎、佐久郡海之口郷に伝馬制をしき、竜朱印の手形携行者以外に伝馬を出すことを禁じる。【長野】
天文 九年 1540 9月【妙法】
●此年、九月より武田殿信州へ取懸被食候。去程に弓矢に切勝被食候而、一日に城を三十六落し被申候と聞え候。去共佐久郡と申候を御手に入候。
※小山田殿と小林宮内助殿一城をかまへ候。去間此方寄子近付陣立しげく候而、皆々迷惑いたし候。
○此年、七月御本寺へ参詣申候而、坊号を賜(【武田】輝)候。人数千人計に而候。殊大石より寺を買い候而本寺当寺立て申候。
●此年、武田殿御息心、信州諏訪殿御前に御なほり候。
◎此年、鎌倉若宮八幡御遷宮。
天文 九年 1540 11月 8日【妙法】
○此年、霜月八日猿橋掛り申候。
天文 九年 1540 11月15日【妙法】
◎霜月十五日、伊勢新九郎殿氏縄の御本願と申傳之候。殊雪ふらず。
天文 九年 1540 11月29日【武川/御頭】
●信虎の息女祢祢が諏訪頼重に嫁す。
●この頃、信虎、娘等を彌津神平・海野某らに嫁がせる。【長野】
天文 十年 1541【妙法】《信虎-48歳・信玄21歳》
○正月大。二日立春。二月大。三月小。四月立夏。五月小。
天文 十年 1541【妙法】
○此年、春致餓死候而、人馬共死る事無限。百年の内にも無御座候と人々申来るり候。千死一生と申候。
天文 十年 1541 5月14日【長野】
●武田信虎、諏訪頼重・村上義清の連合軍、棟綱の小県郡尾野山城を落とし、この日海野平で大勝する。
●棟綱、関東管領上杉憲政を頼る。彌津・矢沢氏らは信虎に降り、村上氏が勢力を伸ばす。
天文 十年 1541 5月25日【山梨】【武川/御頭】
●信虎ら、海野棟綱を海野平に破る。
天文 十年 1541 5月25日【高白】
●五月二十五日、海野平破、村上義清、諏訪頼重両将出陣。
天文 十年 1541 6月14日【武川/勝山・寛政】
●信虎が晴信の為に駿河に退隠される。この時柳沢信景が信虎に随行する。
天文 十年 1541 6月【戦国】
●信濃小笠原長時、諏訪頼重とともに甲斐武田晴信と同国韮崎に戦い、敗れる。
天文 十年 1541 6月14日【妙法】
●此年、六月十四日に武田大夫殿様(晴信)、親の信虎を駿河国へ押申候。余りに悪行を被成候間加様被食候。去程に地下侍出家男女共喜致満足候事無限。信虎出家被成候
而、駿河に御座候。
●晴信、父信虎を駿河に追放。【山梨】
天文 十年 1541 6月14日【高白】
●六月十四日、信虎公、甲府御立駿府へ御越。至今年無御帰国候。於甲府十六日各存候。
天文 十年 1541 6月14日【王代】
●武田信虎六月十四日、駿州に御出、十七日巳刻晴信屋形ヘ御移。一国平均安全ニ成。
●武田信虎、子晴信に追われ、駿河の今川義元を頼る。
天文 十年 1541 6月28日【高白】
●天恩日三吉日也。御家督御祝儀の御酌温井丹波守。
○七月大。七日立秋。
○八月小。十一日、大風禁中殿門多吹倒す。九月小。十月大。十一月大、二十六日冬至。十二月小。十二日小寒。二十七日大寒。
天文 十年 1541 7月 4日【長野】
●上杉憲政、小県郡の村上義清を攻める。この日諏訪頼重、義清に呼応し同郡長窪へ出陣する。ついで頼重、武田晴信が来援しないため憲政と和する。
天文 十年 1541 7月17日【妙法】
※此年、七月十七日、相模屋形氏縄御死去被食候。
○此年、八月、九月度々大風吹候而、世中一向凶く御座候。
天文 十年 1541 9月23日【武川/堀江】
●駿府の今川義元が信虎の処遇について、晴信に書を寄せ、信虎の隠居手当と女中衆を一日もはやく送るように要求する。