北杜市大泉町の文化財
大泉の文化財第二集 大泉の文学碑めぐり
<大泉の句碑・歌碑 分布図>
芭蕉の句碑 彦貫 蕪庵四世
大泉の文化財第二集 大泉の文学碑めぐり
花盛り山は日故呂の朝ぼらけ はせを
(花盛り山は日ごろの朝ぼらけ)
忠興寺境内の句碑 所在地 大泉村西井出
この句碑は、安政五年(一八五八)弥生に建てられた。
この句碑の裏面には、次の句が刻まれている。
くらぶ樹めなくて年ふる桜かな 彦貫
天保の頃(一八三〇年頃)より、峡北地方に芭蕉の顕彰運動が起り、この句碑もそれら草木連の人々が建てたもので、賛同者二十六人の雅号が碑の側面に刻まれている。
彦貫は、清水源五郎といい、旧甲村五丁田(北杜市高根町)の人で酒造業を営んでいた。同郷の小尾守彦(蕪庵三世・小尾兵之進)に国学・俳諧を学び、その十七回忌に「旭露集」を編集するなど、その俳風を継承して、蕪庵四世を名乗った人。
明治四年(一八七一)九月九日病没。享年六十三。
忠興寺の桜については、明治三十七年刊行の景勝地紹介の中に、高さ六・七丈(約二〇メートル)太さ三尋余(約五メートル)一まれに見る大樹なりと記されている。
又、『井出名勝和歌集』の中にも忠興寺の桜を詠んだ次の一首がある。
白雲の何ぞと人の間ふまでに 大樹の桜花咲きにけり 八代駒雄
当時の名桜の風姿が偲ばれるが、経る年月に、さしもの名木も枯れ朽ちてしまい、芭蕉の句碑も昭和五十一年、工場造成のため近くの道・路辺に移転された。
忠興寺は、神石山忠興寺と称し、長坂町清光寺の末寺であり同寺九世日州玄朔和尚によって寛永三年(一六二六)開山された曹洞宗の寺である。本尊は地蔵尊で「甲斐国志」には、除地が二〇坪あったことが記されている。明治初年廃寺となり、明治七年より井出学校の校舎に使用されたが、明治十年三月焼失した。
大泉町谷戸 道喜院内の句碑
あの雲は稲妻を待つ便りかな はせ越 うめ人書
・所在地 大泉村谷戸
道喜院は、城向山と称し、後奈良天皇、天文三年(一五三四)武田信虎の隆昌時代の創立で、開山は、清光寺第七世の住職、利山元益禅師である。
この寺の境内は、谷戸淡路守の役宅であった旧蹟である。この境内の東南隅に俳号を花仏と称した住職の隠居所跡があり、その庭前に、この句碑が建てられている。建立年月日は不明。
花仏の句碑
秋雨やはるる気色をもつ高峰 庵王 花仏
この句碑は、道善院の和尚(俳号を」花仏という)の隠居跡に建てられている。建立年月は不明。
花仏は、江戸時代末の人で、この草庵にあって、法の道にいそしむとともに、近郷に俳風を宣揚し、且つ城向山の八景の四季折々の明け暮れを心ゆくばかり鑑賞されたという。
文久三年(一八六三)、両録所から触頭格に昇進せられ、同四年、本山より特別待遇の令を受けた。
大泉町跡谷戸城南麓の句碑
元日の人は神なり仏なり 花仏 蕪菴書
・所在地 大泉村谷戸
この句は、黒海太清光の居城・谷戸城跡の南麓にある巨大な自然石に刻まれている。建立年月日は、弘化三丙午年菊見店日(一八四六)で、「世話人 村 栄泉」と記されてあるが、栄泉は、城下の細田栄兵衛の雅号である。栄泉は、明治八年八月十五日没す。
蕪庵書とあるが、これは蕪庵四世・彦貫(清水源五郎)のことである。
栄泉の句碑
栄泉宅裏庭の句碑 ・所在地 大泉村谷戸
晴れ屋可(やか)に富士の詣でも三十三度 先達 栄泉.
句碑の他面に「元治元甲子年四月吉日 俗名細田栄兵衛立之」と記されてある。また「登山大願成就念仏五百万遍」の銘あり。
栄泉は細田栄兵衛の雅号である。明治八年八月十五日没す。
江戸時代末における村の代表的俳人の一人である。
呉春の歌碑 上行寺境内の句碑
・所在地 大泉村西井出 上行寺境内
そしの十九来仏山に鐘の音 三世桂庵 呉春
この句碑は、寺所の上行寺の前庭にあり、昭和十八年(一九四三)七月の建立である。
呉春は、西井出姥神の浅川護俊のことであり、この句は、翁の絶句である。享年七十九才。
上行寺は、建拾元年(一二七五年)八月、日向上人の開基であり、本尊は、日蓮上人である。日蓮上人は、その前年、即ち文永十一年(一二七四)三月十三日、佐渡を発し、なつかしき鎌倉へ帰る途次、同月二十三日上行寺に休憩し、寺号を給い又、村民を集めて、大いに説法し、甘露の法雨を注いだと言われている。
資矩の歌碑
逸見神社境内の歌碑 ・所在地 大泉村谷戸
謹奉甲斐国 逸見神社
未遠くなほ守りませ跡垂れて いく代か逸見の神の御社
正二位 藤原資矩
この歌碑は、逸見神社の前庭に建てられてあり、この歌を書いた色紙が、現在、宮司の森越家に保存されている。
峡北地方において幕府時代の学者、教育者として最も顕著な人は生山正方である。明和元年(一七六四)七月十九日生れ、文政十三年(一八三〇)九月七日没す。
正方は、山県大弐とともに甲斐の碩学、加賀美光章の門に入り、和漢の学を究め出藍の誉があった。この正方が京都に遊学して和歌を学んだのが日野大納言藤原資枝、同資矩の門であった。
正方は帰郷後、家塾を開いて多数の俊才を輩出したが、又、穴山村(現韮崎市)樽見神社の祠官でもあった。
逸見神社の宮司である森越家が里塾を開いて、和漢の学を教えた四代にわたる教化の事績をたどれば資矩の詠進歌が森越家に保存きれている経緯も判然すると思われる。
建岡神社にも、相官・輿石森興の時代に資矩の詠進歌がある。
北杜市大泉町 千野大一の歌碑
下井出金毘羅神社参道入口の歌碑 ・所在地 大泉村西井出
国史在詠和歌 よみひとしらす
八つが根をわけてながるる甲川 深やまのおくにもののふやすむ
昭和二十八年十二月
千野真道 書 千野大一 首唱
この歌碑は、下井出甲川橋の東、県道ぞい金毘羅神社参道入口に建てられている。
また、参道入口の門柱も明治二十八年十二月に、千野大一ら四名により建てられたものである。
「甲斐国志」には、兜川について、八ヶ岳の麓、幕沢より発し、西井出、五丁田、上黒沢を選流す。樫歌ありとして次の歌がのせてある。
やつがたけ井出さき出るかぶと川 深山の奥に武士やすむ
千野兵道は、下井出の人で、天保元年十二月二十二日生れ、明治三十九年
(一八三〇)四月二十三日没す。享年七十六才。
千野大一は、下井出の人で、弘化元年(一八四四)六月六日生れ、大正十五年(一九二六)三月二十二日没す。享年八十二才。
北杜市 三井弥高、小沢幸民、浅川庸三の歌碑
逸見神社境内の歌碑 所在地 大泉村谷戸
の桜咲きしより鳩川の流れのみづも香にあふれつつ 三井弥高
つるの社の青葉かげふえに太鼓に音の清らか 小沢幸民
の着き流の末かけて皇けき秋のみのりをぞ見る 浅川庸三
大正十一年五月九日 眠石(幸民) 書
これらの歌は、神楽殿西の旧村道の道ばたの巨石に刻まれている。
三井弥高は、北新居三井弥澄氏の父。
小沢幸民は、長坂町大八田成岡、小沢琢郎氏の祖父の兄、眠石はその雅
号である。
浅川庸三は、武川の浅川謙三氏の祖父である。
北杜市長坂町 小沢眠石の歌碑
上行寺境内の歌碑 所在地 大泉村西井出
八かねに尊志日蓮上る途次 宿り給しここは霊場 七十五才 眠石書
この歌碑は、上行寺 第三十九世 日暮代に甲子記念として、大正十三年秋建立された。
眠石は小沢幸民で、現在の長坂町大八田の出身で、書家であり、歌人である。
八ヶ岳天女山中腹 大町桂月の歌碑
八ヶ岳天女山中腹の歌碑 所在地 大泉村西井出
大町桂月
麓から頂までも富士ケ嶺を 背負ひて登る八嶽かな 滴泉書
この歌は、大町桂月が八ヶ岳に登山した時に詠んだ歌の一つであり、この歌碑は、昭和七年(一九三二)天女山中腹の八ヶ岳神社石祠前に建立された。
滴泉は、甲斐八ヶ岳会(昭和八年十月二十一日発会)の初代会長・坂本増次郎の雅号である。
大町桂月(天六九⊥九二五)は高知県に生まれた。東京帝京大学国文科に学び、在学中から文芸評論や長詩を発表、後に「中学世界」「学生」などに、歴史談・修養談を書き、青少年教育の献上につとめた。