家康公駿河口より御乱入の事
『信長(しんちょう)公記』桑田忠親氏著 人物往来社 一部加筆
家康公、穴山玄蕃(信君)を案内者として召し列(つ)れ、駿河の河口より甲斐国文殊堂の麓市川口ヘ御乱入。
武田四郎甲州新府退散の事
『信長(しんちょう)公記』桑田忠親氏著 人物往来社 一部加筆
武田四郎勝頼、高遠の城にて一先づ相拘へらるゝと存知せられ候ところ、思ひの外、早速相果て、既に、三位中将信忠、新府へ御取り懸け候由、取々申すにつきて、新府在地の上下一門、家老の衆、軍(いくさ)の行(てだて)は、一切これなく、面くの足弱・子供引越し候に坂り紛れ、廃忘致し、取る物も取り敢へず四郎勝頼幡本に人数一勢もこれなし。爰より武田典厩引き別れ、信州佐久の郡小諸に楯籠り、一先、相拘ふべき覚悟にて、下曾根を憑み、小諸へ逃れ候。四郎勝頼攻め、一仁に罷りなる。三月三日、卯の刻、新府の館に火を懸け、世上の人質余多これありしを、焼き龍にして籠り退かる。人質、ドウと泣き悲しむ声、天にも響くばかりにて、哀れなる有様、申すも中々愚かなり。
去る年十二月廿四日に、古府より新府城へ勝頼簾中一門移従(わたまし)の砌は、金銀を鎮め、輿車・馬鞍美々しくして、隣国の諸侍に騎馬をうたせ、崇敬斜ならざる見物なり。群集栄花を誇り、常は簾中深く仮にも人にまみゆる事なく、いつきかしづき、寵愛せられし上臈達、幾程もなく引き替ヘて、勝頼の御前、同そば上臈高畠のおあひ、勝頼の伯母大方、信玄末子のむすめ、信虎、京上臈のむすめ、
此の外、一門親類の上臈の付き々々等、弐百余人の其の中に馬乗り廿騎には過ぐべからず。歴々の上臈、子供、踏みならはぬ山道を、徒歩(かち)裸足にて、足は紅に染みて、落人の哀れさ、中々目も当てられぬ次第なり。名残り惜しくも、住み慣れし古府をば、所に見て、直ちに小山田を頼み、勝沼と申す山中より、「こがつこ?」と申す山賀へのがれ候。漸く、小山田が館程近くなりしところに、内々、肯じ侯て、呼び寄する。実にて、無情無下に撞堕(突き落とし)、拘へがたきの由申し来たり、上下の者、ほたと、十万を失ひ、難儀なり。新府を出で候時、侍分、五、六百も候ひキ。路次すがら引き散らし、過ぎる者、僅か四十一人になるなり。田子と云ふ所の平屋敷に暫時の柵を付け、
居陣侯て、足を休まされ候。左を見、右を見るに、余多の女房達、我れ一人を便(たより)として、歴々とこれあり。我身ながらも、僉議区為方(せんかた)なし。さるほどに、人を誅伐する事、思ひながらも、小身業に叶はず、国主に生るゝ人は、他国を奪取せんと欲するに依りて、人数を殺す事、常の習ひなり。信虎、信玄、々々より勝頼まで、三代、人を殺す事数千人と云ひ員(かず)を知らず。世間の盛衰、時節の転変、間髪を容るゝを扞(ふせ)ぐべくもあらず。因果歴然、此の節なり。天を恨まず、人を尤もとせず、闇より間道に迷ひ、苦より苦境に沈む。哀れなる勝頼かな。