男色好きの犬公方 徳川綱吉&柳沢吉保
『話のタネ本 日本史』村松駿吉氏著 日本文芸社 一部加筆
男色は当時の〝人づくり〟だった
寛永十六年(1639)公家の六条有純の娘のお梅が尼となって、伊勢の内宮慶光院の住職となり、その挨拶のために江戸城へやってきた。このお梅についてきた下脾に、お玉という十三歳の少女があった。
当時、将軍家光の乳母から出世して大奥取り締まりとなっていた春日局は、美貌のお梅をみる、尼にしておくのは勿体ないというので、還俗させて家光の側女にした。その下姫のお玉は引き取って自分の部屋子(召使い)にしておいたのを家光がみて、「婆アよ、あれもよこせ」少し渋皮のむ芝娘とみれば開へ引っぱりこまずにはおれない家光だったので、十三歳のお玉も家光の側室になることになった。
お玉は京の堀川通り酉薮屋町の八百屋仁左衛門の娘で、六条家の女中になっていて、お梅が慶光院の尼になるとき、ついていったのが、思いがけず将軍の側室となるにいたったのである。
正保三年(1646)正月八日、お玉の方に男子出生、徳松と呼んだ。徳松六歳にして十五万石、十六歳にして二十六万石、上州館林城主となった。家光が死んで、四代将軍にすわった範が子なくして死んだので、徳松がそのあとを継ぎ、五代将軍綱吉となった。これが三十五歳の時、
幼少の頃より学問を好み・・・というが、世は平和となり将軍の息子では公儀に気を使う事もないので、本でも読むしか仕事がなかった。そのかたわら美童を愛することも仕事の一つだった。
「女色に溺るるは怯懦(きょうだ)に陥る。男色造臣を作るに利あり」と、称した。綱吉〝人づくり〟のために衆道(男色)を行なったことになっている。
綱吉にとって随一の忠臣・柳沢吉保がまだ館林時代に十七歳にして小姓組番衆となり、綱吉の閏のトギを勤めたが、その技が抜群であったところから江戸城中へついていき、小納戸役から累進して松平姓まで許され、大老にまで昇っている。
綱吉は将軍職につくとお茶の水の昌平橋の際へ湯島聖堂を造った。後の帝国大学といったようなもので、幕府の学問所だ。
綱吉は大学教授にでもなったつもりで、正月には御講釈始め、毎月一、二回は、みずから論語の講義をした。
諸藩の若侍を、命令を以て集めるのだが、あくびをするわけにもいかず、若侍たちは緊張してご講義を拝聴。落語の「寝床」そのままだった。
それだけならよいが、若侍たちは、いつ自分に白羽の矢が立つかわからないので、戦々兢々の思いで講義などはまるで耳にも入らなかった。
「あの前席の右から二つめの机におった若者を、こんやのトギにつれて参れ」
と、侍臣に命じると、いやでもつれていかれる。中にはゲイボーイ的素質の若侍もあって、出世の糸口ともなるので勇躍して伺候する者もいたが、大抵は痒くもない後門をねらわれ閉口したようだ。
人間より大事にされた〝お大様〟
綱吉には、公家の鷹司房嗣の娘、おさめの方という妻があったが、その寝所へは一度もいかない。
わきから当てがわれた側室のお伝の方ほか四、五人はあったが、替り番に時々いくだけだでった。綱吉が四十に近くなって、お伝の方が生んだ子供が一人だけ。それが五歳で死んだので後嗣がない。それを心配したのは母の桂昌院(お玉)だった。
桂昌院はもともと八百屋の娘から成り上がった身だから教養少なく、家光の死後は脂の乗り盛りだったので、多分にヒステリー気味。やむなく愛玩用の牡大の大きなやつを数匹、手元に飼っていたが、それで満たされるものではなく、後家がインチキ宗教に引っかかるのは今も昔もかわりはなく、真言宗の坊主・隆光に帰依していた。そこで、綱吉に子供を恵まれるようにと、その祈願を隆光に頼んだ。隆光は三七、二十一日の祈祷のあとで、
「これは一大事でありますぞ! 将軍にお子の恵まれないのは、前世に殺生を行なわれたがためでありまする。とくに将軍は戌年のお生まれでありまするによって、お犬様は絶対ご大事にあそばされて、いやしくもお汚しなされるようなことのなきように!」
桂昌院の腰のまわりを、クンタンと大きな牡犬が喚ぎまわっているのをジロリと見ていったので、桂昌院はドキッとした。
隆光は、この姥桜の豊満な肉体を、夜な夜な牡犬どもにまかせておくのは勿体ないと思ったのだ。
桂昌院が、こわごわと、
「それでは、どうしたらよろしいかの?」
「天下のお大様を解放し、生類憐愍(しょうるいれんびん)の令を発せられるほかありますまい。お犬様を解放なされてお寂しゅうなられるお方があったら、拙僧が代わってお慰めもうしましょう」
ニヤリと笑って隆光はいったものだった。
桂昌院はバッと頼を染めたが、しかし男らしい力にあふれている隆光をみて、さらにドキンドキンと胸を高鳴らせた。それからは犬に代わって隆光に、加持や祈祷よりも、もっと有難い法悦境に夜な夜な酔わされることになった。
同時に綱吉にすすめて、〝生類憐愍生禁断の令″を、発することとなる。お犬様を第一とし、猫も牛馬も魚類も鳥類も、あらゆる動物の殺生を全国にわたって厳禁してしまった。市中の犬は一切殺してはならないと、中野に十万坪の〝お大様アパート″を建て、十一万二千匹の犬をゼイタクな食料で飼った。
一方、隆光のために神田構外に知足院を建立し、柳沢吉保を総奉行として七堂伽藍を造らせ、後これを新義真言宗大本山と定め、元禄山護持院と改めて隆光を大僧正に、寺領千五百石を与えるにいたった。
ところが、それほどにしても綱吉の妻妾に子供ができないのは、相もかわらず男色のほうにツツを抜かしているからだった。これでは、いくらお大様を大事にしても、信仰を厚くしても、子供のできるはずがない。
お側にある柳沢吉保が、桂昌院とともに心配しだした。柳沢は、もう年をとったので男色のお相手は勤めていなかった。
「わたくしに、よい考えがありますから」
と、柳沢は、ある日、綱吉の論語の講義のとき、一計を案じてそれを実行することとした。
見台へすわって、五十人ばかり居並んだ若侍たちを見まわした綱吉の眼に、ふと止まったのは前髪立ちの美しい少年だった。
「あれは、あの若者はいずれの範の者じゃ。はじめての顔じゃの。あれを呼べ」
と、そわそわして言ったのは、よほど綱吉の気に入ったものらしかった。この日の講義は、そのせいか早々に終えて、その少年をひきつれて城内へもどってきた。
「近うよれ。そちは、どこの藩中じゃ?」
なよなよした女のような手をついた少年は、おそるおそる白い顔をあげて、
「あの……武州川越藩の……」
「なんじゃ。柳沢の藩士か。よしよし、そんならなおのことよろしい」
柳沢吉保は、すでに川越藩七万二千石の大名となり老中格になっていた。
「さア、わしの寝所へ来い。早うこい」
真っ昼間から、若侍をしたがえて寝所へはいっていった。が、ここで綱吉は、あわてた。後向きにさせようとすると、若侍は前向きになって、
「はい、上様どうぞ…:」とはいわなかったが、よく言い含められていたとみえて、オズオズと開いた薄紅の牡丹の花は、まだ開ききらない蕾ではあったが、正しく女。
「そちゃ女! 予を欺きおったな……」
と、綱吉は、言うかと思ったら言わなかった。
「うっふっふっふっ……これは珍趣好!男のよそおいをしておって、じつは女か。これは雑作がなくてよいわ」
この男装の美女が大変気に入ったらしかった。しばらくは男装のままで、小姓として身辺において可愛がった。
綱吉は、まんまと柳沢吉保の手にひっかかったのだが、実はこの男装の麗人こそは柳沢の娘で、お柳の方と称して愛妾となった。
これから綱吉は、女にも興味を持つようになった。
女体攻撃戦法で出世した柳沢吉保
綱吉のかげには、いつも柳沢吉保がいた。
綱吉が学問に熱中すれば柳沢も、そのまねをし、能楽をやれば自分も柄にもなく能楽をやった。男色において然り、女色においてもそうだった。全国にわたって姜狩りをやったというのは、家来を数人ずつ諸国へ密行させ、町娘や下級武士の娘、百姓娘のたぐいまで、磨けば光ると思える娘を、わずかな金をやっては連れて来て拒む者があると、
「将軍家御用なるぞー」
と、脅かせば一も二もない。綱吉の側近で最大の権力者であることは諸国大名でも知らないものはなかった。集めて来た娘を、まず自分で味見して、これならという娘を、
「上様、またよき品が手に入りましたが、ご上覧に入れまする」
娘は一個の物品に過ぎなかった。それを使用してみて綱吉は、
「そちの手に入れる品は、いつも上物じゃのう。うっふっふっふっ」
と、綱吉はゴキゲンだった。
柳沢の身辺には、いつもー一十数人の女が侍っていて、その道に馴れないのは、柳沢がとくと仕込んでから綱吉に献上する。
綱吉にしてみれば柳沢のお古を、いつももらっていることとなるが、そこはお人好しで万事に鷹揚にできている将軍ともなれば、生娘の面倒臭いのよりも、初めっから、たとえ作り声にしても、すすり泣きをし、身悶えてくれる娘のほうがよかったのだろう。
柳沢はまた美童も常に二、三十人邸内へ集めておいた。これは、普通では、すぐには使用に堪えないので、衆道(男色道)の教育をほどこした。
柳沢がどんな方法でやったかは詳かではないが。こうして綱吉の機嫌をとって、おのれの昇進の道をはかった。
前述のごとく父親の代には僅か百六十石の小身だったのが、江戸城へあがったとき六百七十石、ほどなく上総国を与えられて千石に。ついで一万石の大名となり若年寄。三年目に三万石。二年を経て七万二千石川越藩主。それから七年たつと甲州十五万石の大名となり、まもなく大老といえば、いまの総理大臣のような地位についた。トントンびょうしといっても例のないことだった。
元禄四年三月にはいると、
「上様、わたくしの邸へ一度お成りくださいませ。いろんなものをご上覧に供しまする」
と、誘ったので、綱吉が柳沢邸へいくことになる。
その日は、若い美女ばかり二十数人を着飾らせて、ずらりと並べておいた。
「ほうほう・・・大へんな女たちじゃな・・・」
綱吉は眼をみはったが、ふと柳沢のところをみると、柳沢にくっつくようにして坐っている少し年増の女がいた。
「これ。あれを、わしのそばへ寄こせ」
これには柳沢も少々弱った。ほかの女のすべてに手をつけてはいるが、その女は染子といって柳沢の一ばん可愛がっている女。つまり他の女は綱吉の気に入るために集めておいたものだが、染子は自分の愛妾だった。
「これは上様。わたくしが使い古しておりまするもので……」
「だいじない。それでもよい」
「これだけは、ごかんべんを……」
「左様か。いたしかたがない」
綱吉は大へん不機嫌になった。しかしストリップがでてくる、酒や珍味佳肴が運ばれるして、どうやら夜がふけてきた。
「上様、どの女がお気に入りましたでしょうか?」
と、柳沢がたずねると、綱吉はプンとふくれて、
「こんな女ども、わしは欲しくない。大奥へかえれば何百人でもいるわ」
「まアまア、左様おおせられず……」
「いやじゃ、わしは帰る。帰るぞー⊥
と、ヤンチャのように喚く綱吉を、柳沢は女たちにささやいて取りかこんで一室へつれていかせた。そこには金屏風でかこまれた中に赤い布団がしいてあり、その上に寝そべっていたのは、染子だった。
「おうー……そちゃ、さっきの女」いっぺんに綱吉の機嫌がなおった。
染子のサービスは、柳沢の仕込みで無類のものだったので、綱吉は有頂天になり、狂喜の叫びをあげた。
それから記録に残るところによると、十八年間に実に五十三回にわたって綱吉は柳沢邸へ通っている。将軍が臣下の屋敷へお成りということは滅多にあることではなかった。
染子が生んだ柳沢吉里は、綱吉の胤か吉保の胤かわからないといわれている。
大の病気で死んだ犬公方
元禄六年(1693)十二月、水戸から光圀がやってきた。徳川ご三家の一つで、隠居してから黄門と号しヤカマシ屋で通っている。
これは綱吉にも苦手だった。
「ご健勝にて祝着にぞんじまするな」
表面はおだやかだが、何か歯にものの挟まったような言い方で、ニヤニヤと口のまわり皺をよせている。
「ご老公もお達者で…・・」
幸せだとは綱吉はいわなかったが、向こうから、
「まず、しあわせに暮らしておりますわい。江戸へでてきて、庶民のしあわせげな生活をみて安堵つかまつりました。なかんずく、お大様どもの、おしあわせ振りは、まことにもって祝着千万!」
来たな……と、綱吉は思った。
そのとき黄門は、かたえに運ばせた木箱のフタをとって、中から取り出したものを、
「ご無沙汰のおわびに粗略なものでございまするが……」
「あっ……こ、これは犬の皮ではないか!」
白、黒、まだら、ぶちの犬の皮をきれいにナメして揃え、前へおかれて綱吉は青くなった。
ガクガクとふるえ出した。
「なんの。人間の皮でござる」
「人間は、そのような毛が生えておるものかー」
「さればでございまする。この頃の人間どもで性の悪いやつは、おのれが横着で食うに困ると、犬の皮着た人間めに化けおりましての……わっはっはっはっ。そのようなやつを、わしは手討ちにいたしてこの通り皮をはいでやりまする」
「む、むごたらしいことをー」
犬を手討ちにしたといえば、黄門とても天下の法律に照らして裁かれねばならない。
そうはいかないので綱吉は困ってしまった。
「このごろは人間でおるよりも、お大様に化けたほうが安全に生きていけますのでのう」
黄門は、また、「わっはっはっはっ」
と笑った。
「これなる悪人の皮二十枚、みせしめのために、おン座へ敷いてくださるよう」
綱吉が歯がみしてふるえているところへ、美しい小姓が茶をはこんできた。
それが下がっていくうしろ姿をみて黄門は、
「あっ、あれはまた、人間の皮を着たお大様でござったな」
「なんと申されるー」
「いや。あの腰の振り方をみると、夜になればお大様にかえって四ツン這いになることでござい
ましょう。わっはっはっはっはっ」
相手が黄門では、綱吉もどうするわけにもいかなかった-。
柵青も少し考えてきたので、母の桂昌院へ、
「生類憐愍も、ほどほどにしようではございませぬか」
と、いうと桂昌院は、
「なにを、そなたはー護持院さまの申されることと、お大様の鳴き声をきいては、そのような恐れ多いことができるものですかー」
桂昌院は、お大様と護持院隆光から自分の喜びを得ているものだから、これほど有難いものはなかった。
老来の桂昌院は腰がまがって、