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甲斐甲府 八の宮と遊女三芳野の悲恋

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甲斐甲府 八の宮と遊女三芳野の悲恋

「八の宮、おうみ(河海)に契り深きゆえ、その行先も、甲斐の国なり。」
いまから三二〇年前、京洛の町々にこんな歌が流行していた。二品良純親王が、京の遊廓で遊興にふけり遊女阿海と浮き名を流し、ついにご乱行のすえ甲州の天目山(知恩院史)に配流されたところから生まれた俗謡である。
 頃は寛永一九年の秋、そろそろ京の東山を紅葉がいろどりはじめようとするある宵の口一、島原遊廓の裏町に、立派な駕籠が一挺おろされた。中から、恰幅のよい四〇がらみ、いかにも身分ありげの男が頭巾に顔を隠して出てくると、すぐさま駕籠を返して急ぎ足で立ち去った。
「あれは八の宮、もはやこの島原で隠れもない放埓な浮名、名じまぬおいらんはないと言うが、ご身分柄いかがなものか」
「島原通いの門跡さまは、通りすがりにつまみ食い。」
「あばたはあれど阿海の桃は熟れりや御前のお気に召す。
 通りすがりの浪人体の者が二人、そんなザレうたを流して肩を叩きあった。

二品の宮は後陽成天皇の第八皇子で、

京都の浄土宗総本山知恩院の初代門主として第二九世満誉尊照僧正の時、四歳で知恩院に入ったのが慶長九年十一月のことで、元和元年(一六一五)には家康の猶子となって門跡領一千四十五石を食(は)んでいた身分だ。
 浄土宗は家康がその一派白旗流を信仰し、上野に寛永寺を建てて、代々徳川家の墓所となっていらい、双方の門跡は皇族から迎えられた。八の宮は、博学で歌ごころもあったが、天皇親政の世なおしを志しつつも、その志むなしく、自然門跡という捨てぶちのような身を儚んで酒と遊女にそみ、京の町中へ浮き名を流してしまった。
そなたは人間のもつ肉欲の煩悩を罪咎とも汚れたものとも考えずに素直に、人間に与えられた歓喜と受けとめて幸せに浸る。そして日に何遍か口の中で念仏さえ唱えていれば、日々に男を欺き、産を傾けて首をくくる者があっても罪障はいっさい消滅したと信じて迷わぬところがおもしろい」
「はい、わちきは門徒もの知らずといわれようと、生まれたままの心を偽らず自分に与えられた定めに従うて、肉も食べまする、男から喜ばせただけは銭も頂きまする」
 さきほど駕籠を捨てた門跡は、遊女阿海のもとに現れると、無知な阿海を相手に、肩の荷を下したように寛いだ気特ちで盃を乾した。このようにげすの女から、ありのままの姿で生きる法然思想を学びとることができるような気がして、ズルズルと深田に足を取られる様な遊里がよい。この噂はとうに天朝にも達し、厳しい戒めの使者が頻繁に到来した。最も心を痛めていたのは当然母君大典侍具子(庭田大納言重通の女)であった。
四歳にして母の元を離れて門跡となって以来、まだ一度も対面をしたことのない二品の宮は、十八歳で満誉尊照僧正を師として得度。寛永四年には本願寺光円に伴われて江戸城にゆき、将軍家光にも閲している。だが門跡とは申せ三十五ケ条の掟というのに縛られて、二品の宮は息の詰る思いの明け暮れだった。いつか一〇四五石の門跡領でもまかなえぬ避里通いに、知恩院においても僧正はじめ役僧たちも心の休まらぬ辛い思いを重ねていたのだ。
 伝説では、門跡が遊里に足を染めていらい、通りすがりに目をひく遊女を相方としたことに対し「つまみぐい」と評し、
「そばかす女は紀州の育ち、櫓舟こぐのも荒磯じこみ」と謳われた。紀州生まれの遊女阿海とはいまいう超グラマーで、相手にする男どもは完全にダウンさせずにおかぬという根っからの男好きで遊女になったような女だ。島原で指折りの遊女だけに、なるほど目鼻立ちも整っていて、漁夫の子とは思えない色白の肌をしていたが、その顔にソバカスが多かった。ところがそのソバカスがかえって他の女では味わえない阿海のセックス・アピールを倍加したのだ。「タデ食う虫も好き不好き」の贔屓筋として、門跡は熊野灘の荒磯のように激しく燃える阿海の野性に惹かれていく夜となく枕を交わしていた。

あらわれた才女三芳野

阿海との情事は、世間のうわさとはうらはらに、血の通っていない味気ないものだと門跡が思いはじめたころ、当時の島原で急に評判の高まった大夫三芳野が門跡の目にとまった。阿海の知呆性美女に対し、三芳野は才智をかねた柳腰の王朝的美女であった。
 相手が誰あろうと、身分の高低など詮索せずに、ただ肉体だけの遊びに没頭せしめた阿海には、事の済んだあとの虚しさがあったが、三芳野には人をみる目と、あとあとまで浮き心を包む温かさがあった。
 当時の貴族社会にとって最も教養の有無を示すのが三十一文字の短歌であったことは、古代社会からかわらぬ自己顧示の手段だった。ことに遊女たる三芳野が、歌に長じていたことは、門跡の心を強く捉えたのは当然で
あろう。門跡には不満が多すぎた。徳川によって天皇親政の座を明け渡していた朝廷にとっても、もはや権力に寄生する公卿たちによって、中宮、摂、関の奪い合いからおこる戦乱も絶えて天下太平の世であれば、うつぼつとして王政復古への念にかられながらも、門跡は三十五ケ条の知恩院のご法度に従っていなければならない。坐っていればすむ権威の偶像である。
 ある夜、「恐れながらこれを大夫より」と、三芳野の使いをうけた門跡は、差し出された一句に目をひきつけられた。
「仮寝とぞおもいて寄せしかながきも、一夜明くればしがらみの里」
 かながきとは宿り木のことである。一句の意は、当時の遊女間には一旦馴染んだ殿御を奪い合わない義があった。三芳野は、いまを時めく知恩院門跡といえども、噂に高い阿海との情事を知っていては、阿海に義理を立てねばナンバーワンの大夫としてこの里で羽ぶりをきかせられなくなる。この歌心にますます心をひかれた門跡は、もう「三芳野なくてなんでこの世がさくらかな」と、せっせと足を運び、その都度強い幕情を歌に託して三芳野の心をとらえた。
「貴き御前にあれはいかようにもお相手仕るが、ただし.こよい夜限りの密事ゆえ、その御志ならば」
 と、ようやく島原一の花魁と一夜の交わりを遂げた。えてして一夜限りいう約束は、毎晩に転化しやすい。
いつしか二人の情事は、これまではしたない花魁と転々交わっていたのと事が違い、ライバルである阿海の耳に届いたので、
「わらわのいとしい殿御を、三芳野大夫に奪いとられたとあらば、わらわの顔がつぶれまする。これからかけ合いに参じまする。」
遊女に面子(メソツ)が有ったか無かったか知らぬが、とにかく阿海はさっそく待機していた駕籠に打ちのってまっしぐら。急げや、急げ、せの君を奪いたるにっくき三芳野のもとに馳せ参じ、散々になぶりになぶらでお
かばやと一散走り。駕籠より、転げいでんばかりにして三芳野の廓にかけ入った阿海は、「サッ」とばかり押し開いた襖の前で思わず息をのんだ。とても自分がこれまで振舞っていたと同じ行ないとは思えない濡れ場であった。さすがな阿海も暫し戸惑ったが、やっと怒りを呼び覚ますと、あとはもうメチャクチャな悪口雑言を浴びせた。廓の前は黒山の人だかり、宮と聞いては町方同心では手がつかず京都所可代板倉周防守重宗のご出張と相成って取り鎮められた。この有様はただちに禁裏に届いたので、後光明天皇(寛永20~承応2)は重ね重ねの宮の不行跡にたいそう御腹立ちあらせられたのである。
京都守護職はただちに将軍家光の御裁可を仰いだ結果、天皇の御意にしたがって、流罪と決定した。八の宮四十歳のことである。
 寛永二〇年(一六四三)十一月十一日、十一という厄日に当たって捕われの身となった八の宮は、門跡領没収、不行跡をもって甲州流罪、甲斐の郡内藩秋元越中守預かりとなった。冬ざれの東海道をめしうどとなった八の宮は、甲斐の天目山(山梨県大和村)へ配流され、のち八の宮の願いでいまの甲府市湯村町(県史蹟指定)へ移された、白木町清運院記によると、竪町の竹内又右衛門入道蓮栖という者が近侍を勤めた。もちろん郡内藩から監視の役人が常に目を配っていたのは当然である。
 そのころの湯村は一面の草深い田舎で「湯島」といわれていた。甲州特有の空っ風と吹雪く夜など、キツネが鳴くという寂しさ、ましてや人里離れた天目山にあった三年あまり八の宮にとって死を宣告されたのも同様の日々であった。流罪となって考えることは、過ぎし日の、華の都で交わったあまたの遊女の面影。憎いはずの阿海の甘さえも愛しく懐かしく思い出された。
 かたや京に残された三芳野はしばらく町役の預かりとなって島原に戻ったが、日夜居ても立ってもいられない慕情にかられて深い憂いに沈んでいたあたり、思い思われながら引き裂かれた絵島、生島のようだった。
 やがてその思い出に嘆く身の八の宮にとって、幾ばくでも心の憂さを救ってくれる女が現れた。
 八の宮の遺した墨書短歌の類は多いが、いずれも
「鳴くばきく、きけば都の恋しきに、この里すぎよ山ほととぎす」
といった模歌や既製の御歌集からぬいたものが多いといわれている。だが甲斐配流の身となったつれづれに、
八の宮は甲府湯村近郊の身分賤しからぬ者たちに請われて、短歌の手引きをしていた一人に、湯屋の娘がある。当時甲州の女からみれば、歳こそ四十過ぎになっていようとも、京の都育ち、遊芸をこととして育ち、教養もあった御門跡だった八の宮の美貌は、決して若い女の心をそらすほど衰えをみせてはいなかった。娘カナエは宮の身のまわりの世話を承け賜わるために差し出されたので、これも見目美しい器量であった。
「御前さま、カツコウがしきりに鳴いておりまする。心憂きことはござりませぬか」
 麦を刈りとった田岡のおちこちに茂るアシの薫かげでは、気ぜわしくヨシキリも鳴いている。手習いの手を休めたカナエが、うるんだ目で色白の宮をみつめる。
「鳴くはきくきけば都の恋しきに、この里過ぎよ山ほととぎす。」
さらさらとしたためた一句を渡された。カナエは、又ぞろ宮が京に残してきた三芳野を慕うているかと思い煩って顔を雲らせた。宮がこの一句を認めてより甲府では以来ホトトギスが鳴かなくなったという伝説がある。
 流罪であるから秋元家中の警備がついてはいたが、八の宮はまったく自由に振る舞っていた。いまの積翠寺に.も「八の宮仮屋」跡があるが、大火で焼け御堂も潰れた。八の宮配流の地は今の下積翠寺興円寺である。この地にもいろいろ口伝がある。
この湯島は裏山で陽をかえして夏は暑くるしく、冬は風当たりが強いからと、天目山から湯村へ、湯村から積翠寺へと転居している。この間八の宮の元には武家や豊かな商家から沢山の遣い物が届いた。つれづれならば、娘をトギに出し、あわよくば高貴の人のおとし胤をさずけてもらいたいという野心もあったのだ。これは別にのべる「芝平、荊口女の夜這い…」で知られる、信州御所平峠の北条時行、早良、宗良両親王に纏わる口碑とおなじケースである。いまだ三芳野を忘れえず、京へ文を托してその返信に二吾一憂心を悩ませていた八の宮も、とうてい、帝のお怒りの醒めぬことをしると、心の憂さはこのカナエにも向けられるようになった。八の宮を慰めようとするいじらしいカナエの心根に八の宮は時にやさしく肩を抱くときもあったが、やはり京において責任のないあそび女(め)と同様には賤女に手をつけるようなはしたないことはしなかった。
「この古府中は、太古大きな湖水だったと聞いておる。東南は国府、国分寺のあった西の万上平井よりねとり(笛吹)川に沿うて富士川をはかる東海の海まで一望湖沼であったさまが目に浮かぶ、玉諸と申す当たりにはことにアシが繁く、ヨシキリの多いのもそのせいであろう。あのヨシキリと、ホトトギスの声を聞けばなにやらひどい郷愁にかられる思いよ」
 八の宮はそっとカナエの白い手をとった。このように常に八の宮の身近にあったカナエは、いつしか八の官の寝所前に人目を偲ぶ姿が見られるようになった。去りがたい三芳野の面影を打ち消そうとする八の宮の苦しさ
がついに美しいカナエと三芳野の面影をダブらせて手を引き寄せたのである。そんなある日、京の町から宮に音信があつた。懐かしい三芳野の音信であった。矢もたてもたまらなくなった八の宮は、積翠寺の深草観音において数十日の参寵を行うということで、京の町へ一山に駕籠を乗り継ぎ走らせた。

三芳野と再会

 三芳野と再会したのは数年後だ。二人はさらに強く結ばれ、八の宮を配所へ返そうとはしない三芳野に惹かれ、八の宮は島原にこもって三芳野の元にとう留を続けた。この宮の大胆な振舞いも、もとはといえば大まかに自由を認めていた秋元越中守に責任があった。ことの次第は京都守護から郡内藩に非難となってハネ返ってきた。
「八の宮は参籠と偽り、京の遊廓にて登楼を続けていると、京都所司代よりご注進があり申した。当藩の手ぬるい監視はかえって朝廷のご不快を招き申した。早々に召されい。」
秋元越中守は好意と威敬が仇となったのに腹を立てて、八の宮引もどしの使者を京にむけた。
 八の宮は郡内藩差し回しの籠に乗せられると、有無をいわせず迎の配所へ引き戻されたが、それに先立って三方野は前途を悲観して自害して果てた。
「もはや、生きて二度とおめもじできるとは思いませぬ、せめて宮のお体の温もりが、涙に空しく凍らぬ間に、三方野は世を終わりとうございまする。」
「のぞみは捨て去るものではない。いずれは罪も許される日がこよう。たとえそのとき、いずれも髪に霜をおこうとも、それはそれでよいではないか。」
 その慰める八の宮は、本心から老いさらばえても三芳野を忘れ去ることはできなかった。
「八の宮さまに、このような辛い御旅を続けさせるわらわはおそろしい罪人にござりまする。」
 その夜が明けるまでに三芳野は喉を突いて自害して果てた。八の宮の嘆きはここに書き記すまでもあるまい。
そのとき切々の胸を歌った一句がある。
「都おば花なき里となしにけり、芳野を死出の山に移して(八の宮)」
 あくる日、甲斐より到着した郡内藩の藩士によって、八の宮は放心して蝉の抜け殻のような体を駕籠に押し込められるように配所へ連行された。帰りしな、いまの愛知川の渡しにかかり、
「愛知川、渡れと千鳥鳴かぬなり、誰かいつわりの名にや立つらん(八の宮)」
 と按に自分と三芳野との間は誠の愛に結ばれている純粋なものであると、いささか棄て八で、なかば配流を命じた帝に対しても怒をぶちまけたような歌をのこして去っていった。この歌はたちまち上聞に達したので、後光明天皇は大いに怒りをましく、「勅勘」と称して終生配所にて短歌をつくることを禁じてしまった。

八宮帰京

 こうして前後十七年、八の宮は、積翠寺と湯村の御所で五十八歳をむかえた年の冬、万治二年(一六五九)配所にて                     
「へふる雪もこの山里は心せよ、竹の園生のすえたわむ世に(八の宮)」                
という勤王の一句が上聞に達し、その年四月二十八日京へ帰ることを許された。八の宮は六月二十七日京の泉涌寺内新善光寺にわらじをぬいだ。寛文四年四月十三日新居を北野に移し「以心庵」と号して、同年八月一月没。三日、泉涌寺に葬られた。六六歳。明和五年八月百回忌にはじめて罪をゆるされて本位に復した。
法名 礙光院専蓮社行譽心阿自在良純大和尚。
法名は生前の行いを表現するものであるが、自在という二字が目をひく。甲斐で十三年間奉仕したカナエは八の宮の京へ帰ったあと尼僧となって旅へ出たきりとなったという。天皇四代配所にあった八の宮はよほど危険視された宮である。しかし今の湯村に宮の学問普及を徳として天満社を祀ってながく記念とした。又湯村の「花月レストラン」には八の宮の真筆の和歌がある。
 宮の筆あとはうるわしく、
人ならば思ふこころをいひてまし、よしやさくらは賤のをだ巻
 花月には袈裟と衣があったが、この二品は衣の糸をぬいてのませると、子供の虫封じにきくと、すこしずつひきぬいて与えているうちにとうとう二つながらかたちを失しない、いまはわずか五センチ四方の端をのこすのみだ。何万という子供が宮の衣と袈裟の糸で「テンカン」がおさまったものだろう。

八の宮のお供をした長百姓の記録

 写真は、湯村に残っている八の官の真筆に対する説明で、寛永七(一六三〇)正月に、内藤七左衛門が書いたものだ。内容は「この御歌は永年長百姓にて所々御案内をつかまつり候に付万治二(一八五九)に湯之嶋村内藤七左衛門へ御真筆を給った」ものとある。
 また八の宮因縁善一通で分かりやすくすると次のようになる。
「八の宮良純親王様は当国湯之嶋へ御左遷は寛永二十年二月に松平伊豆守様が供奉って、当村松元寺へ御越し、
松平越中守様御預り御番を仕っていた。正保元(一六四六)正月、湯嶋天神宮社へ御所を建立致し、正保三年三月松平越中守様が供致し、積翠寺村興円寺へ御座をうつし、明暦二(一六五六)九月まで四ケ年興円寺に御本宿、是より当村天神社へ御帰り、万治二年二月まで、御同二月御京へ御帰り、其節当村へ壱尺五寸弐分の劔を給わり、ついては御感を御神体に致し、八の宮天神宮と称し奉る。
 その後は毎年三月廿五日を祭り日に定めた。その後の安永三(一七〇六)丙成年七月朔日に松元寺焼失致し、八宮天神宮も御殿共社中のこらず焼失仕り、其節劔も紛失に相成候に付、天神宮御殿は小さい石祠を作りそのままに候え共、宝永六(一七〇九)乙丑七月十三日松元寺を相建て致す。後年のためここに記し置くもの」とある。この因縁書は百四十年前の正確な古文書である。なお静岡市格ケ島の三社権現の縁起だと、八の宮は悪瘡を病み霊夢の導きで日蔭沢へ来たところ三匹の蛇が温泉へ案内してカサを治したとある。三蛇を祀ったのが三社権現(駿河記による)だ。

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