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真田源太左衛門尉信綱 さなだげんたざえもんのじようのぶつな

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真田源太左衛門尉信綱 さなだげんたざえもんのじようのぶつな

『武田二十四将伝』坂本徳一氏著 新人物往来社

 鬼弾正といわれた真田幸隆の長男。成人して真田源太左衛門尉信綱と名乗る。

父に劣らぬ剛勇の士であった。母親は海野家ゆかりのある名門の家であることは確かだが、信綱を産み、まもなく早死したら
しい。弟の昌輝、昌幸とは異母兄弟である。
 天文六年(1537)、信州の小県郡の英田郷の松尾城で生まれている。幼年を源太郎と呼んだ。真田家では代々「源」の字を頭につけている。坂東源氏の末裔であるというプライドを誇示したものと推定される。
 源太郎は生まれながらにして戦乱を肌で感じ、陰媒と牧歌の渦の中で成長した。父幸隆が長男の源太郎に大きな期待を抱いたのは当然であろう。
 先方衆というハンデを担っていながら幸隆同様、父子二代が武田二十四将に加えられているのは真田父子だけである。信綱も父と共に信玄・勝頼の二代に仕え、川中島合戦、上野国進攻、駿河攻めなど第一線で活躍し、長篠の役で壮烈な戦死を遂げている。中世武士の亀鑑ともいうべき信綱の生きざまが高く評価されているからだろう。
 六文銭を旗じるしとする真田一族の始祖は、海野長氏の七男、七郎幸春。分家して小県郡真田郷に移り、真田の姓を名乗った、という説と、海野幸氏の第四子幸寿が始祖という二つの家系に分かれている。
  海野幸氏は『吾妻鏡』に登場する源漑朝の家臣で騎射の名手とある。その子の幸春が真田郷に移り、 真田の氏祖となったといわれるが、率春以降四百年の空間を経て幸隆が忽然とあらわれてくるので、その間十数代、真田を名乗っていたかどうか不明である。
 ただし応永七年(1400)、篠ノ井付近の横田河原で信濃守護の小笠原長秀の軍と北信濃の豪族との間で抗争した「大塔合戦」の陣番張に「実田」の姓で村上頼清の配下に源太・源五・源六の三人がいることが立証されている。
 いずれにしても真田一族は、幸隆の名がクローズアップされる前は、菅平山麓の山家郷で民兵のような暮らしをしていたことだけは確かなようだ。しかし幸隆・信綱父子は単なる猛将ではなく、学問を深く極めた智将の風格を兼ね備えている。
 信綱が愛用した大刀は国の重要文化財に指定され、上田市の真田宝物館に所蔵されている。刀匠名は「備中国住人□□ 延文六年二月日」とあり、備中育江派の傑作といわれている。その大刀の長さは百三センチ。『真田家譜』に「肯江貞次が鍛えたる三尺三寸余の陣刀」と記されている。ずっしり重いこの大刀をふるった信綱という武将は、かなり背丈があり、剛力があったと伝えられている。
  信綱の緒戦は天文二十一年(1552)八月一日から始まった信州南安曇郡の小岩岳城(穂高町)の攻略である。城を守る者は小岩岳図書守、村上義清の属囁で城兵約五首人。それに女、子供を加えて武田に抵抗した。小岩岳城の攻撃は前年十月と今度で二回目であった。武田晴信は二回目の攻略で小岩岳一族を完全に滅ぼす計画で先方衆へも出撃を要請した。
 信網が父幸隆に従い、初陣を飾ったのは十五歳。武田軍と合流して小岩岳城に迫った。天然の要害を生かした山城へ攻め込めば犠牲者を出すばかりである。晴信は敵を城外から一歩も出さない包囲陣を敷き、山城の背後から城内に流れ込む水路を完全に遮断した。晴信が得意とする〝封じ込め作戦〟である。
 城兵はこれに耐えること十二日間。いよいよ水が欠乏して枯渇状態に陥り、ついに耐えきれず、水を求めて城内から数十人がカラの水桶を携え大手門を開けて城外へ飛び出してきた。武田軍は「得たり」とばかり、数十人を蹴散らして城内になだれ込んだ。激闘の末、城兵五首人余りを討ち取り、城主図専守は自刃した。この光景をまのあたりに目撃した信網は、いくさの残酷さを痛感した。水を絶たれた城兵たちは刃向かう気力すらなく武田方の槍と太刀に突き刺されて息絶えた。
「戦いに勝つというのは弓矢や武具の相違ではない。敵の盲点を衝くこと。味方に損害あらば勝ったとは言えない」
 のちに信綱はこう括っている。信綱が初陣で体験した小岩岳城攻略の〝封じ込め″の武田戦法は、少年の心に強い衝撃となっていつまでも消えなかったようである。
 翌年は信州の川中島で越後の長尾景虎(謙信)の軍と対戦した。第一回の川中島の合戦である。この戦いは前半、越後軍に佐久郡の内山城、長窪城などを奪い取られたが、武田軍の本隊が救援に駆けつけ川中島をはさんで対陣、真田幸隆・信綱父子をはじめ親武田派の室賀、小泉、浦野、禰津ら先方衆の活躍で越軍の内部を撹乱して、ついに九月二十日、遊軍は退却した。
 この軍功に際し、晴信は宰隆・信綱父子に小県郡の領地を与えるなど先方衆に論功行貨を与えている。晴信は上田原、戸石城と続いた惨敗以来、「勝てる」と確信が持てる戦い以外に戦いを挑むような無課なことは一切しなくなった。その代わり戦闘へ持ち込むまでの事前の調査を徹底して行った。その頭脳作戦を理解し、晴信の手足になって勇躍したのが真田一族である。信綱は二百騎の大将として父に代わり駿河攻め、西上作戦など重大な、そして緻密な戦法を要する時には必ず出馬している。
  特に駿河攻めには父の代わりに信州の先方衆の騎馬軍団をひき連れて参加している。永禄十二年(1569)九月、信玄の幕臣として関東に攻め込み、鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)を包囲して南下し、十月一日未明、相模川を渡って小田原城外(神奈川県小田原市)になだれ込んだ。甲軍の騎馬の数的五千騎。信綱もー番手に突進して小田原城包囲作戦は無血のままで行われた。
  武田軍は四日間、城を囲んで動かなかったが、北条方の増援隊が帰って気配を察知して後退した。関東及び小田原城包囲作戦は、北条民政に対する威圧行動で、できるだけ衝突を避けて武田の威信を相模に示す命がけのデモンストレーションだった。
 だが帰国寸前、三増(みませ)峠で待ち構えていた北条軍の鉄砲隊に狙撃された。一瞬、馬上から倒れる騎士もいたが、山岳戦では自信のある武田の将卒である。北条方の火縄銃で第二弾を放つころは山林をかき分けて北条軍の陣地へ躍り込んでいた。
 信綱も摩ってくる矢弾を避けて、側面の山林に潜む北条軍と戦いながら峠を越した。「深追いせず、前進せよ」
 信玄の命令通り、武田の将兵は側面の敵だけをなぎ払う形で速度を早めて峠を越えた。後方からついてきた小荷駄隊が北条軍に拿捕されるなど武田軍の損害は予想をほるかに上回った。信綱も信州から連れてきた先方衆の同士を数多く失った。偶発的な戦いは、得てして犠牲が大きい。それが中世の合戦の宿命とも言える。
元亀三年(1572)十月から始まった信玄の西上作戦。名目は延暦寺復興のため京へのぼる、とある。この作戦は一年を限度として信州、相模、駿河の先方衆全員に出動を要請し、約二万の大軍団を編成した。
 この時、信綱は前線へ、父幸隆は上杉方の乱入に備えて信州・上州の警備に当たった。西上作戦では山県三郎兵衛尉昌崇隊と行動を共にした。同年十二月二十二日夕暮れどき、遠州の三方ケ原で徳川の主力と織田の援軍合わせて一万四千と武田全軍と衝突した。信網はその時、先衆七手の一人で二百騎をあとに従え、小県昌景、内藤修理、小山田信茂、小幡貞信、高坂弾正、馬場美濃の先衆七手の一番槍を果たそうと、真正面から徳川家康の本隊めがけて爆走した。武田先衆の猛進撃に圧倒されて家康を援護する旗本隊は隊列を乱して敗走した。
 真田隊は、夕闇にまぎれて敗走する徳川軍を迫って南下し、浜松城近くの布橋まで追い詰めたが、信玄の号令で深追いを避けて引き返した。騎馬隊にかけては武田譜代の甲州武士に一歩もひけを取らない

〝六文銭″の旗じるしの真田隊の三方ケ原の合戦での戦功はめざましかった。

 その翌年の元亀四年四月十二日、信玄の死を迎えるが、辛隆・信綱父子は、信玄の遺言を守り、武田四郎勝頼に忠誠を尽くすことを誓った。だが信玄の死から一年経った天正二年(1574)五月十九日、父幸隆は六十二歳で病没した。
  信玄、そして父の死の二重の悲しみを乗り越えて源太左衝門尉信綱は、四郎勝頼の下で殉死する覚悟を決めて駿河、三河の戦場へ赴いた。父亡きあと弟の真田兵部昌輝も兄信綱と共に出陣している。やがて大詰めの長篠の合戦に身をさらす結果となる。時に信綱、三十九歳。弟の昌輝、三十五歳であった。

長篠の戦い

 天正三年(1575)五月二十二日白昼、長篠城外の設楽ケ原は炎暑下であった。西南に布陣する徳川・織田の連合軍は、武田軍の騎馬攻めに備えて丸太の柵を三重に構え、さらに堀切を三ツ構えとしての防御陣をこしらえて対陣した。
 武田軍の攻めは、馬場美濃隊・真田信綱隊・真田昌輝隊・土屋昌次隊・一条信龍隊・穴山信君隊の六隊約三千騎が一斉に突撃したが、木柵の向こうから撃ってくる織田方の銃火に前方を走る武田軍の騎馬衆が将棋倒しに転倒した。これでは味方の犠牲を大きくするばかりだ、と見極めた武田の大隊は再び引き返して作戦を練り直した。

 そのとき馬場美濃守は、敵情をよく洞察し、真田兄弟、土屋昌次を呼んで、

「おれには今、思う所あって、しばらくここに留まって次の作戦を考える。おぬしらは、このまま前進して功を立てられよ」
 と引導をわたした。真田兄弟には馬場美濃の前進の意味は苛酷に受け取れたが、そのすぐあと
「一度に死んでは口惜しい。おれはおぬしらの死骸を乗り越えて敵陣に突っ込む」
という言葉を聞いて感動した。つまり少しでも戦う時刻を長引かせて敵のひるむのを待って柵を被ろうとする馬場の作戦を見抜い
たからである。
 そこで真田兄弟は二手に分かれ、土屋昌次隊はこのあとを引き継いで、まず真田信綱が一番手に回って、二百余騎の決死の覚悟の真田隊が西軍の柴田勝家隊・羽柴秀吉隊が防衛する柵めがけて突進した。まさに孫子の兵法「疾きこと風の如し」であった。三列縦隊にならんだ真田隊は疾風のような速さで約一キロの織田方の陣地へ突っ込み、柵の内側から撃ちまくりていた鉄砲隊も、次の弾丸を詰め込む余裕もなく、直前に迫った真田隊の折り込みに圧倒されて思わず後退した。
 鉄砲隊の後方に控えていた柴田隊と羽柴隊は、このままでは柵が被られてしまうと、柵の外の側面に迂回して迎え撃った。先頭を切って柵の間近に迫った信綱は側面に回って撃ってきた柴田隊の銃火を浴びて戦死した。一旦、その場から引き返した弟の昌輝も三度目の総攻撃で土屋昌次と目と鼻の先で銃弾を浴びて戦死した。このあと馬場美濃守信春(正しくは信房)も戦死した。真田兄弟の戦死する状況は『日本戦史-長篠役』で委しく伝えている。
『甲陽軍鑑』は、僧綱の首を徳川の臣、渡辺半十郎正綱が討ち取ったと伝えている。
 真田兄弟の墓は設楽ケ属官脇の丘の中腹、辞しくは愛知県新城市八束穂の墓地に一基、二人の名が刻まれて建っている。信網夫妻の墓は郷里の小県郡英田町の信綱寺にある。首のない信綱公の遺体は、英田家ゆかりの田代官兵衛がひそかに郷里へ運び、この寺に埋葬したという伝説もあり、信綱公の遺体を運んだのは北沢最蔵・白川勘解由の両人で、この寺に埋葬したあと殉死したという説もある。門前には両人の殉死の碑が建っていることから後者の二人のほうに信憑性がある。
 なお、真田兄弟と共に設楽ケ原で戦死した真田の家臣は、欄津甚平月直、望月甚八郎(武田信繁の子で望月を継ぐ)、鎌原筑前守重澄、常田図書助永則、河原宮内助正良、河野多兵衛連秀、石井右京進重正、河原新十郎正忠などがいる、と『真田一族と家臣団』(田中誠三郎著)が書き加えている。
 信網の妻キクは、中野箱山城主高梨摂津守政頼の息女で、井上左衛門尉の養女として信綱のもとに嫁ぎ、二人の間に女三人がいた。その女性は成人して従兄の真田信之の室となり、早逝した、と「真田軍功記付記」に記述されている。
 キクの方は倍綱死後、小県郡本原村(真田町)の信綱の館に住み、天正八年(1580)二月八日に没した。同地広山寺に「御北之塚」(寛政七年建立)がある。

 幸隆の三男安房守昌幸は武田勝頼の要請で新府城築城の設計をしている。

だが長篠役で二人の兄を一度に失い、悲嘆に暮れる前に、真田の命脈を保つには己れ白身どう処すべきか……と惧悩した。凋落する武田と運命を共にすべきか。それとも旭日の勢いの西軍につくべきかを迫られた。しかし西軍もまた、織田、羽柴、柴田、徳川と群雄割拠し、相互に勢力を拡大しょうと内面では血みどろな闘争を繰り返していることもよく見極めていた。
 天文十六年(1574)に生まれた昌幸は永禄四年(1561)九月、十五歳で川中島の合戦で初陣を飾り、信玄から戦功賞「昇梯子の鎧」を授けられ、武田氏の家臣武藤左衝門尉信尭(信明)の名跡を嗣いで武藤喜兵衛と名乗った。位は足軽大将であった。だが長篠の役で兄信綱・昌輝が戦死したため生家に戻り真田家を嗣いだ。時に二十九歳。当時の真田氏の領地は一万五千貫。小県・佐久両郡をまたぐ戦国の中大名の地位にあった。
 昌幸には四男五女がいたという。長男は信之、二男が信繁、のちの真田幸村である。
 信之は永禄九年(1566)の生まれ。幼名・源三郎、成人して徳川家康に陪臣、家康の養女(本多中務大輔忠勝の娘)を要る。
 幸村は永禄十年(1567)に生まれる。母は今出川時季の娘。信之は同腹の実兄。幼名・源次郎、のち信繁(昌幸が敬愛する武田典慨信繁の名にあやかってつけた)、成人して左街門僻事村。名君と謳われた大谷刑部吉継の娘を妻に迎え、関白豊臣秀頼に仕えた。
 幸村の最期はナゾに包まれているが、大坂夏の陣で戦死という説と、父昌幸と共に配流され、紀州高野山麓の九度山村で数奇の運命を閉じたという説がある。が、夏の陣で戦死したという説が正しい。
「真田十勇士」の中に根津甚八、穴山小助、寛十蔵などの名が出てくるが、猿飛佐助や霧隠才蔵、三好清海入道といった名前は架空として片付けられる。だが根津、穴山、寛などという姓は現に武田、真田の家中にザラにいた姓名であることから全く架空だったとは言い切れない根拠が潜んでいるように思える。
 武田滅亡を機に真田昌幸父子は、徳川、豊臣、北条など強力な戦国大名を手玉にとって華麗なる転身ぶりを発揮して〝不即不離〟 の立場を堅持する。やがて徳川幕府樹立と同時に幕閣に加わった信之は、父の遺領上田城を経て松代十万石の藩主として返り咲いた。八代目の藩主真田幸貫(雪面)は老中に昇進した出世頭。その配下から佐久間象山のような傑物が巣立っている。

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