真田弾正忠幸隆 さなだだんじょうのじょうゆきたか
『武田二十四将伝』坂本徳一氏著 新人物往来社 一部加筆
真田弾正忠幸隆のふるさとは現在の長野県小県(ちいさがた)郡真田町。往時、長村(おさむら)と呼んだ。
永正十年(1513)、真田郷の松尾城の領主真田右馬允頼昌の二男に生まれた。長男は早死にしたらしい。母親は海野信濃入道棟網の娘で頼昌の正室である。
幸隆の幼名を二郎三郎といい、元服して幸綱、のちに源太左衝門と名乗った。
幸隆が生まれたころの真田一族は小さな武士団であった。その時代に、小県郡を支配していたのは滋野一族であった。滋野の名族は三家に分かれて北信沸全域に勢力を延ばしていた。滋野の筆頭が幸隆の母方の祖父、海野棟綱である。したがって真田頼昌・幸隆父子は海野の属将の身分であった。
幸隆十二歳の時、父頼昌が他界した。大永三年(1523)である。忠隆(当時、幸綱)が喪主を務めている。
武田信虎
天文十年(1541)五月十三日、武田信虎は取訪頼重、北信濃の吉尾城主村上義治と同盟を結んで、真田家の築いた上田城址(長野県上田市)突如、小県郡を襲った。海野一族の属城の尾ノ山城(丸子町)を攻め落とし、さらに海野一党の集落海野平の砦を破って侵入、民家に火を放ち、逃げ惑う女、子供、老人にいたるまで虐殺した。その死者二百を超えたという。
武田・諏訪・村上の連合軍の奇襲のまえに海野信濃入道棟綱は、滋野一党の海野・禰津・真田・矢沢らの武士団と共によく戦ったが、抗しきれず、棟綱は若輩の真田幸降ら身内の者たちをひき連れて鳥居峠を越え、上州(群馬県)吾妻郡羽尾の羽尾道雲入道学会のもとに逃げのびた。羽尾一族は海野と同族の間柄で関東管領の上杉憲政の庇護の下にあった。
真田幸隆
幸隆は羽尾を出て上州の箕輪城(北群馬郡箕輪町)の領主長野信濃守業政を頼って身を寄せた。
そのころ甲斐の国で内乱が起きた。信虎が駿河へ追放され、武田晴信が甲斐守護職に就いたという知らせが、箕輪城にいた幸隆の耳にはいったのは六月二十日ごろであり、幸隆が真田郷へ戻れる絶好の機会だった。だが信濃の佐久地方の豪族のほとんどが武田軍に恭順し、武田方の先方衆として働き、反武田勢力の掃討が行われていた。
幸隆が真田郷に戻る前、信虎に随臣した爾津元直(神平)の使者が幸隆のもとを訪ねている。武田方への随臣をすすめるためであった。元直が信虎の娘を嫁にし、武田方と親族の間柄になっていたことを幸隆は知った。つまり元直は晴信と義弟の契りを結んでいたのである。禰津一党の仲立ちで真田郷へ帰国し、武田へ随臣したのは天文十一年小一月十五日、と『高自斎記』に記述されている。
幸隆の妻河鹿夫人は、
武田の家臣河原丹波守隆正の妹だった。帰国と同時に要ったらしい。翌十二年に二男昌輝が出生している。
幸隆、武田へ
嫡男信網については別の項で触れるとして、幸隆は武田方へ随臣してからにわかに頭角をあらわした。
甲斐守護職の武田晴信の幕下で先方衆筆頭の地位を占めた戦い町天文十二年(1543)九月の長経城(長門町)の攻略である。反武田の勢力を盛り返してきた信濃・小県郡の長窪城の城主大井貞隆は、関東管領の上杉意政を後ろ楯にして、武田へ随臣した真田・矢野一族の出城を攻撃してきた。同時に吉尾城の村上義清も武田とタモトを分ち、上杉方に寝返って叛乱を企てていた。幸隆の報告を聞き、晴信は五千の騎馬隊を編成して真田郷へ援軍を送った。
武田・真田の連合軍で大井貞隆の居城長窪城を襲ったのは九月九日、城はあっけなく落ちて貞隆は捕えられた。また貞隆を煽動した望月一派も捕えられてその場で処刑された。貞隆も甲府へ護送されて要害山のふもとで断罪に処せられた。
晴信は、この戦いで忠隆の忠誠心を見抜き、小県郡および佐久一帯の支配をまかせ、甲府から援軍を送って真田軍を補佐している。それから三年後の天文十五年五月、大井貞隆の遺児大井左衛門尉貞治が再び反武田の勢力を結集して、幸隆が守備する前山城(佐久市前山)などを襲った。幸隆はただちに貞治軍に反撃を加え、貞漕が拠る内山城(同市内山)を包囲して城攻めをし、本丸を除いて全域を占拠した。さらに六日間、本丸を囲んで兵糧攻めの長期戦に持ち込んだため、さすがの貞清もいたたまれず降参した。幸隆は貞清の気骨に惚れ込み、晴信に助命嘆願し、大井一族を武田の家臣に取り立ててもらった。
貞清はその恩義に感じて真田一族との朋友を約束、村上義治との対戦でも大活躍する。
「真田幸隆は、尋常な武人ではない」と武田の諸将をうならせたのは戸石城の攻防戦だった。
のちに〝戸石崩れ″といわれたこの攻防戦は武田軍が上田原合戦に次いで惨敗を記録した壮絶な戦いである。
天文十九年(1550)、筑摩、安曇、佐久、瓢訪、伊部、木曾と信州の大半を抑圧した武田軍は、倍 州で唯一人、徹底抗戦を標模し、周辺の土豪を煽動して決起する村上義治を戸石城に封じ込める作戦をたてた。戦いは八月二十八日から始まったが、二カ月余の攻防戦でも決着がつかず、最後には村上軍に まんまと裏をかかれて武田軍は千人以上の戦死者を残して始退却した。
ところが真田隊は、翌年の五月二十六日、わずか一日で難攻不落の戸石城を占領した。幸隆は武力で戦ったのではなく、謀略で勝利を収めたのである。幸隆の戦法は村上軍を支えている組織を分裂させる買収作戦であった。まず黒幕と目される高井郡の高梨政頼と村上軍の関係を断ち切るため、甲州金を積みあげてひそかに交渉した。武田方に寝返ったあとの処遇にいたるまで話し合った。
同じ戦法で村上軍の属将の埴科郡の清野・寺尾一党の当主とひそかに会って金を渡し、武田への随臣を奨めた。軍資金がなければ戦さにはならない。地獄の沙汰も金次第……と言われる通り、戦国期に生き存らえることは奇蹟に近い離れ業だが、真田一族はその裏側で敵味方を問わず賄賂をふんだんに使った形跡がある。だから四面楚歌の中にあってたくましく生き続けたのかもしれない。
真田方の切り崩しで村上義治は手痛い打撃を受けた。いくさの上では武田晴信に勝ったが謀略の上で幸隆と晴信に負けた。殊に越後の長尾景虎(謙信)と縁続きの高梨政頼が手を引いてしまったことから、義清は孤立した。戦闘機能を喪失したのである。戸石城を落とされた村上軍は全く戦意を失い、さらに本拠である高尾城までを放棄して越後の春日山城の景虎を頼って出国した。
天文二十年(1551)、幸隆は剃髪して一徳斎と称した。三十八歳の折である。
武田軍の攻勢はまさに旭日の如く、といわれた時代である。川中島の合戦では妻女山城の攻略の案内を兼ねて出撃した。四回目の永禄四年九月十日の大激戦で数カ所の手傷を負いながら奮戦し、越軍を退却させた軍功の一人である。
川中島の合戦後、上州進攻作戦が始まった。上州の地理に明るい真田隊は先陣を承った。永禄四年十一月二日、上杉謙信に攻撃された相模の北条軍援護のため、上州に侵入した武田軍は西牧・高田・諏訪三城を攻め落として倉賀野城(高崎市倉賀野町)に迫った。北条氏康も武田軍と合流して倉賀野城へ急行、倉賀野直行を城将とする約一千の上杉軍を被って城を攻撃し、さらに武蔵松山城(埼玉県比企郡吉見町)を攻めた。二つの城は落城には到らなかったが、翌年の九月、武田軍は再び上州へ第二次進攻作戦を敢行して、北条軍と手を結んで陽動作戦を重ね、謙信を大いに悩ませた。
倉賀野、武蔵松山城、上杉方の斎藤越前入道が死守する岩棍城を落としたのは永禄六年十月、さらに西上野一帯の掃討戦を繰り広げ翌年三月末、岩棍城代として吾妻郡長野原一帯を治めて上杉方の動向を監視した。信玄は京都へ攻めのぼる酉上作戦を前に上越信の三国の治安を維持しておかなければならなかった。
そこで信州の土豪を優遇し、領地を与えて上杉方の攻撃に対応できる武力を導入させた。幸隆を岩根城代に命じたのもそのためであり、信州の先方衆の禰津、清野、海野らの武士団をそれぞれ上州の松山城、倉賀野城などに配備して万全の策を整えたのである。
永禄九年(1566)九月二十九日から始まった箕輪城政略は、上州攻めのなかでも最大の攻防戦だったが、西上野七郡を完全に掌握した武田軍は随所の結城に信州の先方衆を配匿し、一方では北条と組み、今川民兵(義元の嫡男)を敵として駿河攻めをも敢行している。ただし信玄指揮の酉上作戦に草陰は参加せず、嫡男の信綱が出兵した。
幸隆は上州に踏みとどまって上杉方の攻撃に備えた。
武田信玄の死
だが武田軍は三方ケ原の合戦、野田城攻略を最後に信玄の病重く、西上作戦はひそかに中止され、帰国の途中、信玄は逝去した。上借地方を守備する幸隆には〝信玄の死″の打撃は大きかった。
信玄逝去から一年余の天正二年(1574)五月十九日、幸隆もまた六十一歳で病没した。幸隆夫妻の墓は真田町の長谷寺にある。法名は「笑倣院殿月峯艮心大庵主。遺体には二十五カ所の刀、槍、弾の傷跡があったと伝えられる。
真田隊の旗じるしの六文銭は、
さきに述べたように〝地獄の沙汰も金次第″で亡者が三途の川を渡るとき支払う金だが、真田一党は常に死を覚悟して戦場を駆けめぐり、もしその場で地獄へ堕ちたとして も、旗じるしの六文銭があれば三途の川を渡してくれるだろうと、幸隆が考案したといわれている。この六文銭の旗じるしは真田三代にかけて活躍することになる。