山県大弐という人
『甲州街道』中西慶爾氏著 昭和47年 木耳社 一部加筆
甲府めぐりをひとまず切りあげて、甲州街道の残る部分を踏破しようと旅立つと、まず浮んでくるのは柳荘山県大弐のことである。
いわゆる明和事件という騒擾事件で、大弐の立場はかなり微妙であったようだ。この事件の審判者は町奉行依田豊前守であったが、その判決は極めて慎重で、大弐に関する罪状は六ケ条をあげているが、みな微罪で間痩になりそうなものはほとんどない。ただ総論で
「大弐には一味同志のものを連判にて相募りたる証拠なし。されど王政復古の策を以って幕府を外さんと非常の大望を抱く事実は相違なし」
と、いうを重く見て、討幕運動の事実はないが、討幕思想はあるとして、そ
の思想の故に、つまり思想犯として死罪に処されたのである。今日だったら大いに問題になるところであろう。
しかし彼は、取り調べに際しては、何らわるびれるところなく、進んで所信を表明し、少しも隠すところがなかったといわれる。これは法律無視の観があり、この態度がすこぶるおもしろい。我はかく信ずる、それは正しい、故に、これを妨ぐるは悪である、という自信過剰は爽快である。こういう一途さはなかなかよろしい。
彼は享保十年(一七二五)、甲斐国丘摩郡北山筋篠原村に生まれた。長じて甲府勤番与力六年、大岡忠光に仕えて五年、前後十一年間サラリーマン生活をおくったが、これは彼の四十三年という短い生涯にとってかなりの比重を占める年月であるが、この十一年間は全く閑職でこれという目立った仕事はせず、ほとんど家居して読書と思索に努めたのだから強い。こうして作りあげた「柳子新論」という核に、武田二十四将の一人山県三郎兵衛昌景をもってきて、その後裔という鎧を着せ、典型的な甲州魂を作りあげてみせたのは素晴らしい。誰も歯がたつまい。歯がたたないままに葬り去られた感が深い。
今、この霊は山県神社に祀られている。出生地竜王町篠原にある。枚後百六十二年、昭和三年(一九二八)に竣工したものである。
甲府駅からのバスにて榎停留所で下車すると、十五分ぐらいは歩かねばならぬが、田舎道の十五分は、時には菜の花盛りなどで、さして苦にならない。
社殿は簡素でささやかなものであるが、かえって何となく森厳な趣があって、大弐の気塊がじかに迫ってくる思いがする。
境内の片隅、雑木を背にして三井甲之の歌碑がある。
ますらをのかなしきいのち積み 重ねつみかさねまもるやまと島根を
自筆を拡大入石したもので、文字も悪くはない。
三井甲之はこの国の松島村の産、伊藤左千夫などと親交あり、歌人として知られたが、また詩も作り小説も書き、さらに一大論客でもあった。そのかたくなにまで凝りかたまった日本精神は、一時華々しく四方八方に当り散らして盛観をきわめた。この歌碑の歌、大弐を謳ったものか、自分を歌ったものか、どちらともとれるところに彼の真骨頂がある。大弐とは一味通ずるものがあり、まさにまた甲州人であった。
かたわらに金剛寺があり、大弐の墓もあるが、ここに遺骨は納まっていない。
柳荘の墓は常陸国新治郡霊石山泰寧寺・江戸四谷全勝寺などにもある。泰寧寺のものをもって本墓とすべきであろう。