主家を裏切った武田の武将 小山田信茂の苦悶
『街道物語』甲州街道 三昧堂
大月市西の、巨大な一枚岩の山塊。これが関東三名城の一つにかぞえられた岩殿城址だが、戦国末期、城主の小山田信茂は血脈の絶えることを恐れ、三代つづいていた武田との関係を捨てて謀反に走った。
三代の絆も捨てて信虎、信玄、そしていまの勝頼と、三代にわたって続いた武田氏との主従関係も、ついに終局がきたと思うと、さすがに信茂の心も鈍り
がちであった。
「が、やむをえまい。士は名君に仕えてこそ花も咲こうというもの」
信茂だけではない。諸将の見る勝頼は、お世辞にも名君とは言い難い点で一致している。
「あまりにも、先君信玄公が偉大であられすぎたのよ」
そうした、同情論もなくはなかったが、それにしても勝頼の、武田の当主としての経歴そのほとんどが戦歴だが、それはあまりにも無策にすぎたことも事実であった。
言葉通り〝出ては負け、出ては負け〟の連続である。自然、諸将の心は離れた。最もこの時期、信玄以来の名将のほとんどは、七年前の長篠の合戦で戦死してしまっている。
だから、というのではないが、信茂の心を大きく揺さぶったのは、つい先日の、信茂と同じく、武田とは姻戚関係にある、穴山雪梅の離反であった。
その寝返りぶりは、いっそ鮮やかともいえるほど意表を突いたものだっただけに、周囲は怨嗟する前に、あきれたという表情をみせた。
そうした、残り少ない部将を集めての大評定の席で、信茂は裏切りのための、心の重い言葉をはじめて口にした。
「それがしの城は、世に関東三名城の一つと称せられております。お屋形には、ぜひわが城へ拠られ、再起を画策なされますよう…」
たしかに、信茂の岩殿城は、大月の集落を見下ろすようにして立つ、一枚岩の頂上にあり、防ぎ方いかんでは、十日や十五日は寄せ手を拒んでびくともしないであろう。勝頼は、信茂の心の奥底まで見通せるわけもなく、この姻戚の部将の進言に喜んだ。
やがて三月十日。
信茂は勝沼の大善寺で、それが最後となった夜を過ごしている勝頼に、そしらぬ態で、
「お迎えのため、一足先に帰城仕ります」
と挨拶し、人質に預けてあった母を連れ、岩殿山めざすかに見せて、その実、笹子峠でひそかに反乱の戟仕度をととのえた。
「謗(そし)らば、そしれ、かくする以外、小山田の血をつたえる手段は、ほかにないのだ」
それは、世間の咎め立てに対するというより、自分自身の良心に言ってきかせる言葉であった。
〝呼ばわり沢″の惨劇
それとほとんど同じころ、信茂の居城では惨劇の幕が上がろうとしていた。
主人信茂の意向を汲んで、岩殿城では側室と二人の男児を、夜陰にまぎれて逃がそうとしていた。従者は、わずか数人の城兵である。そのうちの一人は、母である側室に代って幼児をふところに城の裏木戸を出たが、その先は名にしおう一枚岩の絶壁であり、しかも、おりからの闇夜とあって、女子供の手をひいての逃亡はとても無理と思われた。
それでもどうやら、里人たちが、呼ばわり沢と呼んでいるあたりまで下ってきたが、異様な大人たちの雰囲気におびえたのだろう。突然、幼児が火のついたように泣き出した。その声は普通ではない。いまにも息が絶えるかと思われ
る激しさである。泣きだした場所もよくない。
呼ばわり沢とは、せまい岩場の間道で、いまでいう谺(こだま)の名所だったのである。
泣き声は夜気をつんざき、それに誘われた鳥たちが、時ならぬ叫びを上げ、さらにそれらが御して耳をおおうばかりである。
従者たちは困りはてた。
「のままでは、どんな災難が起こるや知れぬ」
いったん思い込むと、漆黒の暗闇がさらに恐怖心を掻き立てる。
「敵に気取られたら、すべて終わりじゃー」
事実、山麓のどこかには、じつと織田勢が息を潜ませている筈であった。
従者は、心を鬼にした。暗闇がすべてを塗りこめ、譬え目を見開いたとしても、何一つとして見えないのが、従者にとってせめてもの救いであったろう。
「南無……」
呟くやくや否や、その間に向かって、幼な児を放り投げた。
この世のものとも思えぬ泣き声が、細く、長く閣を裂いていった。
さすがに側室は、それがわが子の最期の声と気付き、闇の中に従者を求め、罵った。
「お許し下されませ、こうせなんだら、ともども敵の手にかかりまする。さすれば、小山田家の血脈とだえ、主君に申しわけが立ちませぬ」
側室にとっても、信茂は絶対の存在である。彼女も、自分たちの置かれている立場にすぐ気付き、鳴咽を噛みしめながら闇にまぎれていった。
その翌朝、勝頼ははじめて信茂の謀反を知った。そして絶望した。
勝頼にとって、信茂こそが最後の頼みとする部将であった。
それでなくとも、すでに戦意を喪失していた勝頼は、あとはただ、格好な死場所を求めて山中を分け入って行くだけであった。
その日、午前、勝頼一家は天目山中腹で自刃して果て、ここに武田氏四百年の血脈は亡んだ。
信茂は、自分のとった行動が、これほど効果をあらわすとは信じていなかった。
同僚穴山梅雪がそうであったように、信茂の行動は、単に小山田の血脈をつたえ残そうが爲のものであり、勝頼という、主家の絶滅は、その結果として止むを得ないものとしか考えていなかった。
だが、事態は、信茂が直接主人一家を死に追いやったことに発展した。
「これは、この後、どうなることか」
信茂の心に、うそ寒い風が吹き抜けていった。
それは、これからはじめて見参する、織田信長という古今まれにみる気性の激しい武将に対しての恐怖心ともいえた。
案の定、その信長は激怒した。
「主人が、最後の頼みとした願いを裏切ったる不忠者、生かしおけば、ゆくゆく、わしに弓引く者ぞ! 斬れ!」
冥府の魔王の宣告ともいえる大音声を耳にしながら、信茂は心の隅でこうなるのが、現世なのかもしれないと思っていた。