元龜二年
四月武田信玄御領國に攻來るよしきこえ。松より吉田城に御座あり。信玄の先鋒山縣三兵衛昌景多勢引つれ攻來る。
君三の曲輪の櫓に扇の御馬幟立て。敵陣の樣つくづく御覽あり。酒井左衛門尉忠次が打て出でむといふを制し給ひ。敵陣の樣を見るに城を責むとにあらず。我をおびき出し彼の松原にて伏兵もて討むとするならん。よく見よ今にかなたより武功の者を出して戰を挑むべし。こなたよりも一騎當千の者を出して。鑓ばかり合せしめよと宣ひしが。果して敵方より廣右衛門。三枝傳右衛門。孕石源右衛門など土橋まで進み來りしかば。城中よりも酒井左衛門尉忠次。戶田左門一西。
津土左衛門時隆等打ていで。互に詞をかはして渡り合しが。やがで彼方より引取しなり。此時御推察のことく山縣が備の後には。馬塲美濃守。內藤修理亮。小幡。眞田等あまた備をかくし。御みづから打て出給はゞ。信玄は御油の宿の方より吉田の西口にかゝり。吉田を攻拔べき手術なりけるとなり。山縣勢の跡には足輕の樣に見せて人數を少しづゝ殘し置しは。甲州言葉にてかゝりかんといふものにて。敵を誘よせ諸所にかんを起して喰留ん手術なりと忠次に仰付られしが。後年廣右衛門御前へ出しとき。此事かたり出給ひしかば。右衛門その時甲州の計略全く御明察に少しも違はざりしとて驚感し奉りけるとぞ。(御名譽聞書。)
同年夏秋の頃武田の大兵三遠の邊境を侵掠するにより。信長使を松に進らせ。早く松を去て岡崎へ退かせたまへといふ。