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天正元年 武田信玄入道病死

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天正元年

正月武田信玄三州野田の城を責ける時。城將菅沼新八定盈よりかくと注進す。  

君我やがて援兵を出さむまでは。味方の城々堅く持抱ゆべし。すべて籠城は橋々との上意にて。直に軍を笠頭山まで進め給へり。後に本多豐後守廣孝はしばしと仰られしは。いかなる儀なるかとうかゞひしに。まづ籠城の心得は門を堅め弓銃をくばり。敵を城門の橋まで思ふ圖に引きよせ俄に打立射立。敵の陣伍亂るゝ樣を見すまして門より打て出で。一散して輕く引とれば城は持よきものなり。さるに籠城とだにいへばまづ橋を引て自ら居ずくまるゆへ。兵力振はずして遂に攻落さるゝなりと仰けり。後年伏見籠城の時大坂勢責寄しに。城中の松の丸の橋を引たるよし聞しめし。籠城には橋なき處にも橋をかけてこそあるべきに。懸來りし橋を引程ならば。城はこらゆまじと仰られしが。果して四五日過て落城の注進ありしとぞ。(御名譽聞書。酒井家舊藏聞書。)

 
 天正元年年四月、家康、武田信玄入道病死せしよし
『徳川実記』

天正元年年四月、武田信玄入道病死せしよし。御城下にもとりどりいひ傳へしを聞しめし。御家人等に仰ありしは。もしこの事實ならんにはいと惜むべきことにて喜ぶべきにあらず。おほよそ近き世に信玄が如く弓箭の道に熟せしものを見ず。われ年若き程より彼がことくならんとおもひはげむで益を得し事おほし。今一介の使もて其喪を吊はしめずとも。彼が死を聞て喜ぶべきにあらず。汝等も同じ樣に心得べきなり。すべて鄰國に將ある時は。自國にもよろづ油斷なく心を用ゆるゆへ。おのづから國政もおさまり武備もたゆむことなし。これ隣國をはばかる心あるにより。

かへりてわが國安定の基を開くなり。さなからんには上下ともに安佚になれ武道の嗜も薄く。兵鋒次第に柔弱になりて振拔の勢なし。かゝれば今信玄が死せしは味方の不幸にして。いさゝかぶ事にてなしと仰あり。是より御分國の者共いづれも御詞を學びて。信玄が死をおしき事とのみ申あへりしとか。又ある時人には向ふさすといふことなければ。その心がけも自ら薄くなるなり。

信玄が世にありし程は味方にとりて剛敵なれば。彼をむかふさす標的として常に武道をみがきしゆへ。家卒までも甲州の戰にはいつも紛骨を盡せしなり。むかふさすといふことは誰も忘れまじき事ぞと常常仰ありしなり。孟子に敵國外患なきものは國必ず亡ぶといひし詞に。いとよく似かよひし上意にて。かしこくも尊くも承るにぞ。上杉謙信も越後の春日山に在て信玄が死を聞て。折しも湯漬を喰て居しが。箸を投すて食を吐出して。さてさて殘多き事哉。近代に英傑といふべきはこの入道のことなるを。今は關東の弓矢柱なくなりしとて。はらはらと淚を落せしといふ。

謙信も信玄と常々爭鬪せしはさるものにて。天下の爲に人物の亡謝するをおしみしは同じ。英雄の胸襟かく有べしとおもはる。こなたの盛慮も同樣の御事と伺るゝにぞ。(岩淵夜話。武邊咄聞書。萬千代記。)

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