勝頼から真田昌幸あてに発行した条目 天正九年
『定本 武田勝頼』上野晴朗氏著 新人物往来社
つぎに勝頼から真田昌幸あてに発行した条目を掲げてみよう。当時、西上野方面を中心とする真田の行動は、目を見はるものがあり、駿遠三の軍事行動が裏目、裏目と出てきていた勝顛にとって、唯一の希望の燈であった。 (読み下し)
(確朱印)
「○ 条 目
一、帰城の上、吾妻用心普請、疎略なく申し付けらるべきの事
付たり、中山の事
一、猿京の用心普請仕置以下、厳重に申し付けらるべきの事
付たり、庭谷自身休息を計るの事
一、沼田城普請仕置以下、厳重に申し付けらるべし、人夫の儀、当年は赦免
候の間、領主より相雇あるべきの事
付たり、九人衆の専
一、沼田知行割のもよう、よくよく聞きとどけられ、おのおの恐怖せざるよ
う
策謀すべきの事
一、二箇条の密計、油断なく調略専一に候の事
一、佐竹奥州一統の由、その間え候、然らば分国中の往還、異議なきのよう
相談せらるべきの事
付たり、会津表同前の事
一、当番衆の普請札明の事
一、来調儀の支度、油断あるべからざるの事
付たり、沼田衆同前のふ単
一、御閑橋の事
一、庄内の諸法度以下、前々よりの定法のごとく申し付けらるべきの事
一、藤田、可遊斎、渡辺居住地の事
一、一宮御社領の事
付たり、口上にあり
一、野馬の事
一、早馬の事
以上
(天正九年)六月七日
真田安房守(昌幸)殿
(松代真田家文書)
この文書は前出の真田昌幸の軍規と、相対的な関係をもった記録といえよう。すなわち前者は天正八年(一五八〇)六月十八日、真田軍が勝頼の命令で沼田城を一気に奪取した約一カ月前のものであり、満を持した軍令の意味がよく現われており、それに対して後者の文書は、真田昌幸が上田城へ帰城するため、勝頼から直接昌幸に対して、上州の諸占領地の軍政をこまごまと指示したものである。
これによれば、武田氏は信玄の時代から占領地に対して、支城主の自主性のある権限を最小限にとどめて、すべて軍政、民政に関する小項目までを本国から発令している。これは譜代の郡代に対しても同然で、そのため郡代文書などはきわめて少ない。
右の条目から項目を拾ってみると、城普請、城砦の警備、普請役、知行割、戦略上の密計、外交政策、交通問題、当番衆、規律、作戦上の機密保持、諸法度、社債問題などがあげられ、それぞれに仕置を申し渡し、なかには口上まで加えている。このような実態は、武田氏の軍政、民政上のあり方をきわめて具体的に示していると思われる。