甲斐の真田歴史 真田昌幸、城番衆軍規
『定本 武田勝頼』上野晴朗氏著 新人物往来社
真田昌幸から天正八年(一五八〇)五月の西上野衆にあたえられた、各支城番衆の軍規。
「天正八年庚辰五月廿三日
真田昌幸(花押)
海野長門守殿
同 能登守殿
金子美濃守厳
渡辺 左近殿
一、敵地に対し、狼籍致さず候の様に申し付けられ、懇切を加えらるべきの
事
一、二の曲輪より内へ、地衆の出入いっさい停止せらるべきの事
一、受取りの曲輪、おのおの相談これあり、御番普請巳下油断なく、これを
勤
仕せらるべし、なかんずく、病大切に候の問、夜番肝要念を入れらるべきの事山、喧嘩口論いっさい停止の事付たり、晶屁偏頗を以って、徒党すべからずと達し候の事
一、敵地の計策、油断致さるべからず侯、あるいは使者、あるいは書状を遣
わさるるにおいては、海野長門守に談合せしめ、指し越さるべきの事
一、在城衆、たとえいかようの遺恨ありといえども、行方の儀、表裏なく相談せらるべく候の事
一、在城衆当番の刻は是非に及ばず、たとえ非番の城代たりといえども、城代は他宿すべからず候の事 .
右の条々連背の人においては、衡過怠あるべきの旨、仰せ出さるるものなり。仇って件の如し(群馬県吾妻郡吾妻町松谷横谷家文書)」
<解説>
右のうち、あて人の海野長門守(幸光)は岩槻城代、海野能登守(輝辛)も岩槻城代、金子美濃守(泰清)は中之条横尾、八幡要害、渡辺左近(綱秀)は、箱島、相原要害をそれぞれ守っていた。
法度の内容は、七力条の掟からなっており、
第一条は占領したばかりの敵地に恩情主義で臨み、家臣の狼籍智禁止している。
第二条は、地衆(地元の侍や農兵)の行動に関し、城の中枢機関である二の曲輪以内へは入れてはいけないとしている。
第三条は番手の侍がそれぞれ受けとった曲輪は、よく相談して責任を明らかにし、竊(この場合は忍者であろう)に気をつけ、夜番を厳重にすること、
第四条は喧嘩口論を禁じ、かつ仲間が寄って徒党を組んではならないとしている。
第五条は敵地へのはかりごとは油断をしないように、使者とかあるいは書状を出す場合でも、すべて岩傾城代の海野長門守に相談すること、
第六条は在城衆はたとえどのような私的な遺恨があっても、その行動は表裏なく大局の作戦に従うこと、
第七条ほ在城衆は当番のときは当然であるが、たとえ非番の城代であっても、城代は城を明けて他宿してはいけないとしている。
このように占領地は一つのブロックをつくり、とくに責任の重い士隊将を中心の支城主(城代)に据え、その下に出城、要害、砦などにそれぞれ在番衆を置いて統率し、その地域に合った軍の内規を布達するのである。
支城主の基本的な配置については、甲陽軍鑑を見ると、信玄の時代も勝頼の時代も、ともに城代を置くとともに、そのほかに本丸、二の曲輪、三の曲輪 と、それぞれ曲輪ごとに守備の士隊将を配置して、曲輪ごとの責任をとらせていた。つまり城警備の複数制であるが、そのことは右の軍規の第三条のなかにもよく現われている。