武川衆、青木氏(青木村)『甲斐国志』
- 青木経光--義虎--信定
系譜曰、源八時信の男、十郎時光以青木為氏号時光、青木をもって氏号とする。その男十郎太郎経光より十世弥十郎義虎(一系に経光男尾張信連、尾張貞義、十郎義遠、尾張安達男義虎、六世とする)
義虎の男尾張守信定、天文十丑年(一五四一)十月廿日逝去する。
〔常光院殿毘耶浄賢居士〕、妻は、〔芳林妙香大姉〕、行年六十一
天文十年十二月武田八幡宮(韮崎)棟札に青木尾張満懸とあり。
同社元和三年(一六一七)青木囚獄の奉納した絵馬が在る。
- 青木尾張守信立
信定ノ男尾張守信立、天正十八年(一五九〇)六月十三日に逝去する。
年七十三。〔泰翁乾康庵主〕、妻は、〔柳下審理大姉〕。
「軍鑑伝解」に永禄四年(一五六一)河中島の役に典厩の後見尾張守信立、深手負いしたところ、弟の山寺甚左衛門主従によって備えの裏へ引退き、山寺は返して討死したとある。
又長篠の役(天正三年・一五七五)に青木主計討死の事を載せる。
永禄十年下郷起請文に六河衆青木与兵衛信秀、青木兵部少輔定満、各々花押あり、信正とは見えない。
「編年集成」天正壬午(十年 一五八二)七月の記に信秀に作る、文を誤ったと思われる。
信正の男尾張守信時、信時の男与兵衛信安、壬午(天正十年 一五八二)の後幕府に奉仕する。
- 青木尾張守信時
信時は慶長五子年(一六〇〇)十一月二日逝去する。又山全長居士、妻、元和七酉年(一六二一)七月三日逝去する。〔三窓慶寅大姉〕。
信安は元和九亥年(一六二三)八月廿日逝去する。〔雄山玉英庵主〕、妻は慶安二丑年八月廿五日逝去する。〔安室寿貞大姉〕。馬場民部の娘なり。
天正三年末年(一五七五)九月「南宮修造勧進帳」に青木弥左衛門満定、同菅次郎豊定、各々花押あり。軍鑑に甘利衆、青木弥三左衛門が見える。
- 青木与兵衛信安
天正六年(一五七八)の記に、八拾石、青木与兵衛信安、弐拾石、青木清左衛門とある。
「慶長郷村帳」に青木与兵衛、八百四拾四石ノ高也。八拾四石八斗六升新奥村、百弐拾壱石九斗壱升若尾の内、百八拾壱石六斗六升樋口村、三百八拾石壱斗七升青木村とあり、あとは剥落して知ることが出来ない。
- 青木与兵衛信就
信安ノ男与兵衛信就、実は山寺甚左衛門信光の男なり。明暦三酉年(一六五七)二月五日逝去する。〔無得道雲居士〕。妻は明暦二申年(一六五六)九月四日逝去する。〔一性宝月大姉〕。永田平兵衛の女なりという。右本村常光寺に列する所の位牌なり。世次疑うべき者もあるが書して後考に備える。