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甲斐史 国司・御牧 甲斐源氏(1400~1477)

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甲斐史 国司・御牧 甲斐源氏(14001477
 
応永7年  1400 8月16日
 駒牽(略)兼敷抄
応永8年  1401 8月16日 
駒牽延引(略)続史愚抄 迎陽記                               
8月        
贈馬(明国)足利義満、金千両、馬十匹、其の他各種の方物を贈り、始めて書を明王に送った。善隣国実記
応永10年 1403 2月       
 贈馬(明国)方物として生馬廿匹、硫黄一萬斤を明王に贈る。善隣国実記
6月20日
 馬牧 伯耆久古ノ御牧地を大山寺に給す。集古文書
応永13年 1406 12月29日 
貢馬  有貢馬。傳秦新大納言資藤卿支配分、云々。教言卿記
応永14年 1407 8月16日
 駒牽(略)続史愚抄
応永15年 1408 4月23日 
給馬 将軍、馬を伶人景秀に給ふ。後鑑
応永15年 1408 5月18日
 馬術家 馬術家大坪式部大輔道禅死す。応永十五年五月十八日、年八十四歳。武藝小傳
【参考資料】
小笠原家伝   
小笠原左京大夫長清より正嫡七代是を伝ふ。所謂弾正小弼長経。兵庫助長忠。大膳大夫長政。治部大輔長氏。右馬頭宗長。信濃守政長に至れり。粤に康安年間(1278~1288)、上総の州に岡崎孫三郎直道といふ人あり。其祖某上総国に配流せられしより爰に住居す。直道馭馬の術志深き故に、常州鹿嶋の神に三七日参籠し、神助を祈るといへども、未だ心の如ならざれば、再び三七日籠りて霊夢を得たり。神の告に任せ加州白山の神に十七日参籠し、満願の日に至て、一人の老僧に逢ふ、僧の曰、汝何の故に参籠するや、直道旨を語れば僧其志の切なるを感じて云。信州に小笠原信濃守政長と云ふ人あり。此人に随て其道を学ぶべしと、直道其教に任せ、信州に赴きけれども、所縁なき故に馬飼となり。力を竭して仕ふる事年有、一日政長厩に来りて直道が挙動の人に異なるを奇しみ、其由縁を問、其志を感じ、馭人に取り立て、馭馬の秘術、悉く傳へて其妙を得たり。誠に此道勘能の人なり。応永のはじめ政長の嫡兵庫頭長基、京師に至る時、直秀(直道)を相具して鹿苑院義満公に謁奉り。直秀が事を上聞に達しければ、義満公大いに感じ給ひ、直秀を召して大坪左京亮に任じ、則御師範となれり。
 
応永15年 1408 7月22日 
馬輸入 黒駒自唐引進、高六尺余云々。東寺王代記
応永15年 1408 12月27日 
貢馬  武家貢馬。傳奏日野大納言。続史愚抄
 
称光天皇(1412~1428)
応永19年 1412 8月16日 
駒牽 今夜駒牽。山科家禮記
12月27日 
貢馬御覽(略)後鏡
応永20年 1413 11月27日 
貢馬次第事 佐治蔵人差ス、御厩別當伊勢守貞経ヨリ進之也。東山殿年中行事云、云々相京職鈔
応永廿一年頓證寺法楽百首 春駒
のとかなるよとの川波春見へて みつのみまきのに駒そいはゆる
(みつのみまき=御豆の御牧)
応永22年 1415   10月25日 
貢馬  上皇貢馬を覽る。兼宣記
応永23年 1416   8月16日 
駒牽(略)続史愚抄
8月16日 
駒牽(略)康富記
 
甲斐抗争  
応永24年 1417 2月6日
今度禅秀逆心して京鎌倉より退治被成しかば武田安芸守入道明安(三郎信満)は禅秀の小舅也。千葉修理大夫兼胤は聟也。両人ともに持氏の寵臣二階堂三河守は逸見縁者なれば是を頼み色々甲斐の事望申しける。云々信満は甲州都留郡木賊山にて自害。信満一男武田三郎信重は出家して高野山に入る。その頃祖父陸奥守花峰入道(武田信春)の末子武田信濃守信元も一味ではないが出家して高野山に入る。甲斐国は逸見に給はり打ち入る。これは京都公方(将軍)からの御引き渡しではなく。鎌倉だけの語意であった。この時信光の二男右馬助信長は一人で帰り、甲斐郡内の加藤入道梵玄(加藤景廉の末孫)と西郡に押し寄せ、逸見と数年合
戦した。逸見・武田の合戦は応永二十四年に始まり、逸見が敗北する。残党が鎌倉に持氏嘆願し、持氏は応永三十三年、一色刑部大輔を大将として甲斐に発向した。甲州は要害の地で不落、六月二十六日武州横山口から攻め込み、武州七党が秩父口から攻め入り、猿橋で戦うが、八月二十五日信長は降参、お咎めなく鎌倉へ連れて行く。その後、逸見は甲州を給わるべく、京都に再三御訴訟するが、公方義持公は、出家して高野山に居る信濃守信元に給わるようにの御意で、信元が国に討ち入り、鎌倉殿も力及ばず、信元に御教書を給わった。(応永二十八年四月二十八日)逸見氏は元の通りに、西郡の名字の地だけを知行した。信元は武田陸奥守となって鎌倉に出仕した。信元には一子(彦次郎)があったが、父より先に逝去、そこで信元は甥の信長に譲ろうとしたが、禅秀事件に関与していたので京都から許しが出なかった。そこで信長の一男伊豆千代丸(母は土屋の娘)を養子にして系図並びに代々の御感書、手次、証文、残らず相伝させた。
 
応永24年 1417 12月29日 
貢馬御覽(略)室町殿へ関白以下諸門跡、今夜貢馬御覽也       看聞日記
応永25年 1418   8月10日
 献馬 南部宗行馬及び金を幕府に進ぜらる。聞ク関東大名南部上洛。馬百匹、金千両。看聞日記
16日 
駒牽(略)続史愚抄
12月28日 
貢馬御覽 抑夜前貢馬御覽見物。第七貢馬強馬也。看聞日記
応永26年 1419 12月27日 
貢馬御覽 今夜貢馬御覽。看聞日記
応永27年 1420 12月27日
貢馬御覽 院有 貢馬御覽云々。       続史愚抄
応永29年 1422 8月16日
 駒牽(略)薩戒記目録
応永29年12月26日 
貢馬御覽 貢馬御覽如常。康富記
応永30年 1423 3月18日 
五代将軍足利義量。
7月5日
 足利義持、武田一族に対し、信重の従うように命ずる。昔御内書符案
武田一族・・・武田伊豆守。武田彦六。武田右馬助。武田修理亮。
武田治部少輔。武田左馬助。武田兵部少輔。武田修理亮入道。
参考、信重の兄弟
右馬助信長。兵庫助信康。宮内少輔信賢。治部少輔信安。左馬介信景。浅羽本武田系図(石和町誌)
8月16日
 駒牽(略)薩戒記目録
応永31年 1424 8月16日
 駒牽(略)薩戒記目録
12月27日
 貢馬御覽 今夜貢馬御覽。看聞日記
 
応永32年 1425 閏6月11日 満済准后日記 (石和町誌)
武田信重、甲斐国への帰国を拒否する。(略)武田入道の事に於ては罪科同前たりと雖も、国事御口入の間申し付け了んぬ。而るを、近年在京第一其の意を得ざる事也。其の故は、関東進止国を知行しながら在京奉公の時は、関東分国一国召し放たるるに義に相当る也。外聞の実義面目を失う者也。然れば武田入道の事、不日在国せしめ、一族親類の間一人鎌倉に在えうべき旨、堅く仰せ付けらるべき由也。誠に此謂在様に思食さるる事也。京・鎌倉已に御和睦の上は、此の分早速に右京大夫入道方より両人に申し
付くべしと云々。
解説(石和町誌)
信重の甲斐国就任を認める代りに、信重の甲斐帰国と一族の鎌倉府出仕を求めたのである。幕府側はこれを受け入れようとしたが、信重が頑として帰国に応じない。その理由は「辺見・穴山等打出し、乱国に罷り成る」からであった。
6月12日
 細川満元、武田信重を説得するも帰国に応じない旨を満済に告げる。
8月16日
 駒牽(略)薩戒記目録
8月24日 
足利義持、管領畠山満家に信重の甲斐下国を再度命じ、その実行について満済に細川満元と相談するように指示する。(石和町誌)
12月3日 
足利義持、甲斐国の処置を決める。満済准后日記
5日
足利義持、甲斐の処置等の鎌倉への伝達内容について満済と話し合う。満済准后日記 (石和町誌)
 
応永33年 1426    8月16日 
駒牽(略)薩戒記
 
菊葉和歌集 明徳(1390)~応永34年(1427)
二条師嗣撰 関駒迎をよめる   前右大臣
逢坂の山のかひより立出て 関路をこゆる望月の駒
相坂や是そむかしの俤に 関路を出る望月の駒
従三位政子
會坂や関の古道跡とめて むかしかはらす霧原の駒
 
後花園天皇(1428~1464)
正長1年  1428 9月22日 
足利義持、四国に隠居していた武田信重を再用すべきかどうかを諸大名に問う。満濟准后日記(石和町誌)
永享1年  1429 3月15日 
六代将軍足利義宣(義教)
永享1年  1429 8月16日
 駒牽(略)薩戒記
永享2年  1430 8月16日 
駒牽(略)師守記
永享1年  1429 10月14日 
貢馬御覽 今夜貢馬御覽。明日ハ女騎御覽。看聞日記
永享3年  1431 12月27日 
貢馬御覽 室町殿参内院参、今夜貢馬御覽。看聞日記
永享4年  1432 8月16日
 駒牽(略)公名公記
永享4年  1432 9月       
 富士山遊覧 将軍足利義宣(義教)富士下向、贈物御馬廿匹。看聞日記
永享4年  1432 2月27日
 貢馬御覽 今夜貢馬御覽。看聞日記
永享5年  1433 1月24日 
貢馬御覽(略)令申處、舊冬貢馬事ニ付テ聊申所事有之。云々。満月准后日記
永享5年  1433 12月27日 

貢馬御覽 先於 清凉殿東庭有 貢馬御覽之儀 、云々。管見記

永享5年  1433 8月16日
 駒牽(略)康富記
永享6年  1434 8月16日
 駒牽(略)康富記
永享6年  1434 12月27日 
貢馬御覽 被引貢馬 於御東庭有       御覽 、云々。続史愚抄
永享7年  1435 1月26日
 希代の老馬 御厩三間、八十三才に成る御馬一匹在之、去年上杉安房守進之云々、希代年齢也。満濟准后日記
永享7年  1435 11月27日
 御馬進 関東の事物言属無為、御馬数十匹進、被申御礼。       史料稿本
永享8年  1436 12月27日 
貢馬御覽 今夜貢馬御覽。云々。看聞日記
永享9年  1437 8月16日 
駒牽(略)続史愚抄
永享9年  1437 12月27日 
貢馬御覽 今夜貢馬御覽。云々。看聞日記
永享10年 1438 12月27日 
貢馬御覽 諸家参賀歳杪、奏覧如恒。後鑑
永享11年 1439 2月10日 
扇谷上杉持朝と千葉胤直が押し寄せ奉永安寺を稲麻竹葦のように取り囲んで、御自害を勧め奉った。御近習伺候の人々がこれを聞き、敵の中に駆けこんだが、(略)御所方は退きかかったが再び取って返して討ち死にした。云々。永享記
御近習-小笠原山城守。武田因幡守。
満貞の御馬廻り、横合いから討ってかかり、両方の手勢を追いまくって、真只中に会釈もなく駆け入り、引組んで落としては、刺し違えて死んでいった。満貞の御馬廻り逸見甲斐入道。その間に公方持氏と満貞は自害した。
永享11年 1439 11月1日 
永寿丸の件。
鎌倉成氏は、同姓持氏の一乱の後、永寿丸といって五歳であったが、鎌倉小八幡社の落ち延びた。瑞泉寺の昌在西堂が庇護して、常陸国住人筑波別当大夫と郎党二人がお供して甲斐に忍び行き、鍛冶の家に隠れた。その後信濃の大井氏を頼り隠れ住む。十三年三月四日。結城城に籠城後に上洛云々。鎌倉大草紙
永享12年 1440 5月15日 
武田信栄、将軍義政の命により若狭守護となる。        越前若狭歴史回廊                              
永享12年 1440 7月29日 
結城の籠城戦。城城は天然形勝の地に築かれ、守備に適した要害であった。城には(略)屈強のな多数の軍兵をを率いて立て籠った。籠城武将の中-小笠原但馬守。寄せ手は八方から攻め寄せた。軍勢の中-武田大膳大夫入道。武田刑部。永享記
結城合戦首実検
小笠原但馬守の首-発知平治左衛門が取る。
武田刑部少輔入道の分捕り。結城七郎の首。同次郎の首。桃井修理亮の首。簗田出羽三郎の首。梶原大和守の首。以上御、武田刑部少輔これを取る。
武田右馬助が分捕った首(苗字不詳)
永享12年 1440 12月27日 
貢馬御覽 今夜貢馬御覽。云々。管見記
嘉吉2年 1442 11月17日 
七代将軍足利義勝。
嘉吉2年 1442 12月27日
 貢馬御覽 貢馬奏覧。後鑑
嘉吉3年 144312月27日 
貢馬御覽 貢馬奏覧。看聞日記
文安1年 1444 5月12日 
犬追物 犬負物手組事、小笠原左京亮入道 五匹。小笠原蔵人 十匹。小笠原次郎 五匹。
文安1年 1444 8月16日 
駒牽(略)康富記
文安3年 1446 8月16日
 駒牽(略)師卿記
12月27日
 貢馬御覽 今日貢馬如例、刻限遅々云々、貢馬料不足未済、云々。師卿記
文安5年 1447 8月16日
 駒牽(略)康富記

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