甲斐史 御牧・国司等 一条天皇 在位(986~1011)
長保2年 1000 1月13日
上野御馬 駒牽、前年分勅旨牧御馬。権記
長保2年 1000 2月2日
信濃諸牧 紀高雅に替え、正六位上藤原朝臣有邦を信濃国勅旨牧の牧監に任じる。長野県史通史
長保2年 1000 2月3日
献馬 宇佐使宣孝(藤原)朝臣献馬二疋。御堂
長保2年 1000 2月7日
神馬 出東河、立大原野神馬、為敦兼使。御堂
長保2年 1000 8月20日
信濃御馬 駒牽、信濃国勅旨諸牧御馬。小右
長保2年 1000 10月28日
真・柏御馬 令取真衣野並穂坂御馬。権記
長保3年 1001 4月25日
- 甲斐歌 藤原宣孝が死去する。以前、甲斐の歌を詠む。
- 宣孝右衛門権佐一首甲斐がねを見るとかきけばまことやに やよよをふりせぬさやの中山 玄玄集長保3年 1001 7月16日◎甲斐守 前甲斐守源高雅朝臣男、云々長保3年 1001 8月16日信濃御馬 駒牽、信濃国勅旨諸牧御馬。権記長保3年 1001 8月28日上野御馬 駒牽停止。疫死の災により、上野勅旨諸牧。政事長保3年 1001 10月10日◎甲斐守 従四位下。 源高雅。母后代々御賀記長保4年 1002 1月17日秩父御馬 駒牽、前年分の武蔵国秩父牧御馬。小記長保4年 1002 3月7日上野御馬 駒牽、前年分の上野国諸牧御馬。権記長保4年 1002 8月17日穂坂御馬 甲斐国穂坂牧不申延期逗留状。8疋。権記長保4年 1002 8月22日廐牧令 牧の牝馬四才遊牝、五歳課を責むること一百、毎年六十の駒を課す。義解云、此條一百と称するは、其数母畜に准じて責課の法を立つ。名例律に云、贓を以て罪に入る、正贓見在の者、官主に遷す。註に云、生産蕃息皆見在たり。疏に云、生産蕃息とは、馬、駒を生むの類也。今私牧の牝馬、官牧に到り遊牝し、即ち牝馬は其本牧に帰来して子を産む、兼の駒若し母によらば私馬たるべき歟、将た父によりて官馬たるべき歟、責課の法、只母を計りて父を求めず、微贓の條、亦た牝に依て牡に課せず、乃ち知る、生益の駒は須く生産の母に随ふべし、彼淫奔の禁じがたきを以て、贓駕相通ずるありと雖、私の馬たるの理を存す。官畜の疑なかるべし。右一駒の争いは三章理を存す公私の論是非知るべし、仍て勘申す。長保四年八月廿二日、左衛門権佐令宗朝臣久亮右将軍□教に依りて之を勘ゆるに信濃国に在る牧事云々。政事・日本馬政史【解説】民間の牝馬は官立の牧場に飛び込んで来て、そこの父馬と配合し駒を産んだならば、其駒は牝馬のもので私畜であり官畜とはせぬ。云々長保4年 1002 11月14日甲斐真衣野柏前御馬解文進。20疋。本朝世紀長保4年 1002 11月18日穂坂御馬 甲斐国穂坂御馬解文。本朝世紀(略)権左中弁道方朝臣秦左馬寮申甲斐国穂坂牧不申延期逗留状。被仰聞食由。権記長保5年 1003 1月21日秩父御馬 駒牽、前年分の武蔵国秩父牧御馬。本朝世紀長保5年 1003 8月16日信濃御馬 駒牽、信濃国勅旨諸牧御馬。権記長保5年 1003 10月23日駒牽 駒迎次将給物巨多事。小記寛弘1年 1004 8月17日駒牽 廃務日取御馬事。小記寛弘1年 1004 閏 9月1日
甲斐御馬 天皇出御仁壽殿 。依 甲斐御馬也。日本記略・樗嚢抄
寛弘1年 1004 閏 9月11日献馬 出羽守季孝(平)献馬十疋。 御堂寛弘1年 1004 閏 9月15日献馬 為文(源)献馬四疋。又少将(頼通)一疋。御堂寛弘1年 1004 10月19日献馬 従多木牧、駒六疋献。 御堂寛弘1年 1004 10月25日貢馬 高階明順朝臣貢馬二疋、少将一疋。御堂寛弘1年 1004 10月30日貢馬 源忠良貢馬二疋。御堂寛弘1年 1004 12月16日信濃御馬 御出南殿、如信濃儀、御堂寛弘1年 1004 12月27日献馬 源満正朝臣、夜部入京、馬十疋献。御堂寛弘1年 1004 12月29日貢馬 藤原氏高、為国、各馬一疋貢。御堂この年 上野御馬不駒牽、上野国勅旨諸牧御馬。権記寛弘2年 1005 1月9日賜馬 藤原道長、任国に下向する信濃守佐光に馬一匹等を与える。長野県史通史寛弘2年 1005 1月19日献馬 源満正朝臣、献馬。御堂寛弘2年 1005 2月16日秩父御馬 秩父駒引事、去年延引分。小右寛弘2年 1005 8月16日信濃御馬 駒牽、信濃国勅旨諸牧御馬。権記寛弘2年 1005 11月15日真衣野御馬 甲斐国真衣野駒引立間。月蝕。仍上卿退出、子時宮中火、殿上皆焼亡。(略)日本記略・樗嚢
寛弘2年 1005 12月28日武蔵御馬 駒牽、武蔵国勅旨諸牧、立野牧御馬。権記寛弘3年 1006 1月10日秩父御馬 武蔵国秩父牧(前年分)権記上野御馬 上野国勅旨諸牧(前年分・前々年分) 権記寛弘3年 1006 1月28日◎甲斐守 藤原惟憲。公卿補任治安三年◎甲斐大目 刑部雅明。〔寛弘7年(1010)2月16日得替〕寛弘3年 1006 3月4日貢馬 天皇先於 東三条殿令花宴 、大臣貢 馬十匹。日本記略参考 東三条ヨリ一条院ニ遷幸アラセラル、出御以前先ツ花宴アリ、左大臣物ヲ献スル中ニ貢馬十匹アリ、又鑑賞あり云々寛弘3年 1006 8月16日信濃御馬 駒牽、信濃国勅旨牧御馬。権記寛弘3年 1006 11月27日駒牽 (国・牧不詳)権記寛弘4年 1007 1月10日穂坂御馬 甲斐穂坂御馬昨牽、今日取。(前年分)権記(この頃成立)題知らず 不知読人 拾遺集わかゞへる道の黒駒あらば きみは来すともおのれいなゝけ寛弘4年 1007 8月7日駒牽、甲斐真衣野・柏前御馬。御堂寛弘4年 1007 8月13日秩父御馬 駒牽、武蔵馬、秩父御馬事。御堂寛弘4年 1007 8月15日信濃御馬 駒牽、信濃勅旨諸牧御馬事。御堂寛弘4年 1007 8月17日穂坂御馬 駒牽、甲斐穂坂御馬事。御堂寛弘4年 1007 8月20日○甲斐相撲人 甲斐国の相撲人大井光遠が臨時相撲に出場する。権記寛弘4年 1007 8月20日武蔵御馬 牽、武蔵小野御牧御馬事。御堂寛弘4年 1007 8月23日信濃御馬 牽、信濃望月御馬事。御堂寛弘4年 1007 8月25日立野御馬 牽、武蔵勅旨并立野御馬事。御堂寛弘4年 1007 8月28日信濃御馬 駒牽、信濃勅旨諸牧御馬事。(十六日分)。権記寛弘4年 1007 8月28日上野御馬 牽、上野勅旨諸牧御馬事。御堂寛弘5年 1008 5月10日太政官符 御馬の事で東海・東山道に太政官符(内容不詳)。権記寛弘5年 1008 8月7日駒牽、甲斐国御馬事、真衣野・柏前等。御堂
寛弘5年 1008 8月13日秩父御馬 牽、武蔵国御馬、秩父。御堂寛弘5年 1008 8月15日寛弘5年 1008 8月17日穂坂御馬 牽、甲斐国御馬の事、穂坂。御堂信濃御馬 牽、信濃勅旨御馬事。御堂寛弘5年 1008 8月23日信濃御馬 信濃国御馬、望月。御堂寛弘5年 1008 8月20日武蔵御馬 武蔵国御馬。御堂寛弘5年 1008 8月25日武蔵御馬 牽、勅旨武蔵国并立野御馬事。御堂寛弘5年 1008 8月28日上野御馬 牽、上野国勅旨御馬事。御堂寛弘5年 1008 10月17日◎甲斐守 藤原惟憲が、敦成親王家別当になる。権記寛弘5年 1008 11月8日駒牽 駒牽の期限遅延した国司の処罰法が定められる。小右寛弘6年 1009 5月1日上野御馬 駒牽、上野国諸牧御馬。(前年分)。御堂寛弘6年 1009 8月17日信濃御馬 駒牽、信濃国勅旨諸牧御馬。権記寛弘6年 1009 9月19日真・柏御馬 牽、取真衣野・柏前御馬。権記寛弘6年 1009 10月5日穂坂御馬 一条院炎上、時無他事穂坂御馬解文以詞奏聞事。小記目録寛弘6年 1009 10月15日献馬 越後守藤原信経、馬十疋献。御堂寛弘6年 1009 11月5日秩父御馬寛弘7年 1010 2月16日◎甲斐守 従四位下 甲斐守藤原惟憲得替。公卿補任寛弘7年 1010 8月7日真・柏御馬 甲斐国真木野柏前御牧当年貢上御馬不言延期逗留状文。権記寛弘7年 1010 8月25日真・柏御馬 解文を奏し、駒を引く。其儀如常。但取手時等不申牧名。不知故実歟。有両牧之時可加牧名者也。小右・北山抄寛弘7年 1010 10月16日上野御馬牽、上野御馬。御堂寛弘7年 1010 11月28日天皇従枇杷第遷御新造一条院左大臣道長献御馬十匹。日本記略
寛弘7年 1010 12月6日貢馬 行幸貢馬御覧云々。御堂