古代 馬の記述(含む甲斐関係)
(284年~685年)
『日本書紀』記述による
応神15年 284 8月6日
良馬貢上 百済王、阿直伎を遣わし、良馬二匹を貢上。
百済の国主照古王、牡馬壱疋、牝馬壱疋を阿知吉師につけて貢上れる人、云々
履中5年 404 9月18日
天皇狩猟 天皇は淡路島に狩猟をなさった。この日、河内の飼部)等が天皇に従って、轡につける手綱を執った。
允恭2年 413 2月14日
乗馬 その時闘鶏国造が、苑のほとりの道を通った。馬に乗って籬に近づき、皇后に話しかけ、云々。
允恭5年 416 9月14日
馬礼弊 馬一匹を吾襲に授けて礼弊とした。云々。
雄略2年 458 10月6日
車馬 狩人を休息させ、車を整え、馬を休ませた。
(大津馬飼の話)
雄略8年 464 2月
典馬 新羅人を典馬 典馬、(これを于麻柯比という)とした。
雄略 9年 465 7月
月夜の埴輪馬『新選姓氏録』
飛鳥戸郡の人である田辺史伯孫の女は、古市郡の人である書首加竜の妻である。伯孫は、その女が、子供をお産したと聞いて、聟の家に行って祝賀し、月夜に帰途についた。蓬丘の誉田陵(応仁天皇陵)のもとで赤馬に乗った人に出逢った。その馬は、そのとき、蛇のようにうねりながら行き竜のごとくに首をもたげた。急に高く跳び上がって、鴻のように驚いた。その異しい体が、蜂のようになり、あやしい形相が、きわだってあらわれた。伯孫は近づい見て、心の中で、手に入れたいと思った。すなわち、乗っていた葦毛の馬に鞭うって、頭をそろえて、轡を並べた。そうすると、赤馬が、おどりあがるさまは、塵埃のようにさっとあがっては消え、走りまわる速さは、滅没するよりももっと速かった。一方、葦毛の馬は、おくれてしまって、遅くて追いつくことができなかった。その速く走る馬に乗っていた人は、伯孫の願いを知って、とまって馬を交換し、別れの言葉をのべて去っていった。伯孫は、速く走る馬を得て、たいへんよろこび、走らせて厩に入れた。鞍をおろし馬に秣をあたえて眠った。その翌朝、赤馬は土馬(埴輪の馬)に変わっていた。伯孫はあやしんで、誉田陵にとってかえして探してみたら、葦毛の馬が、土馬の中にいたのを見つけた。取り替えて、かわりに土馬を置いた。大泊瀬幼武天皇の御代(略)努賀君の男、百尊、むすめのお産の為に聟の家に向ひ、よるになりて帰る。応仁天皇の御陵辺にて、馬に乗れる人に逢ひ、相共にかたらひて、馬を換へて別る。
明日、換へたる所の馬を看れば、是は土馬なりき。因れ姓を陵辺君の負ひき。百尊の男、徳尊、孫、斯羅、謚皇極の御代に、河内の山下の田を賜ひ、文書を解れるを以て、田辺史(タナベノフヒト)と為り。
雄略13年 469 9月
甲斐 木工猪名部眞根の死罪を赦す勅使が甲斐の黒駒に騎り馳せて刑場に至り眞根の命を助ける。
ぬばたまの甲斐の黒駒鞍着せば 命死なまし甲斐の黒駒
継体1年 507 1月
氏姓 河内馬飼首。河内馬飼荒籠
継体6年 512 4月6日
穂積臣押山を百済に遣わし、筑紫国の馬四十匹を賜る。
継体23年 529 4月
河内馬飼 遣安羅使の近江毛野臣の従者、河内馬飼御狩。
継体24年 530 9月
馬飼御狩 河内母樹馬飼首御狩(河内馬飼御狩)
欽明4年 543 10月4日
大伴連馬飼 天皇は、大伴連馬飼(長徳)を遣わした。
欽明7年 546 1月
良馬七十匹 百済使中部奈率已連等罷歸、仍賜以良馬七十匹、船一十雙 。
欽明14年 553 6月
良馬二匹 遣内臣使於百済。仍賜良馬二匹、同船二雙、弓五十張、箭五十具。
欽明15年 554 1月
馬一百匹(略)即令遣 助軍数一千、馬一百匹、船四雙。
欽明22年
馬飼首押勝 工匠、河内馬飼首押勝。
推古1年 593 4月
聖徳太子 聖徳太子が皇太子になる。
推古6年 598 4月
甲斐烏駒 聖徳太子が良馬を求めて、甲斐烏駒を得る。『扶桑略記』
太子命左右、求善馬竝符諸国令貢、甲斐国貢烏駒数百匹太子指此馬曰是神馬也、
令 舎人調使麿飼養 云々
推古6年 598 9月
穂坂駒 太子試験馭甲斐烏駒浮雲東去。云々
烏駒は足は四本白であった。一代要記
此馬は甲斐の穂坂産。見聞集
烏駒(クロゴマ)聖徳太子の御馬也。節用集(零写本)
甲斐国より出。
甲斐黒駒 黒駒と云ふは聖徳太子の御馬甲斐の黒駒の外はなき歟、黒き馬をは黒駒と云はむか、なき歟如何。名物に混乱すれは、くろきこまなれと、くろこまとは云はす。但しかひのくろこまと云ふ事は太子の御馬ならねとも、昔もありけり。塵袋
雄略天皇の御宇十三年秋九月猪名部、云々(参考-日本書紀、雄略十三年の項)
亦、太子、甲斐の国より奉れるき小馬の四の足白き有り、其れに乗て、空に昇て雲に入て東を指て去給ぬ。〔調〕使丸と云ふ者、御馬の右に副て同く昇ぬ。諸の人、是を見て、空を仰て見てる事尤限し太子、信濃の国に至給て、神輿の境を廻て三日を経て還給へり。
甲斐黒駒 聖徳太子とその妃は、同日死去した。その日、太子の黒駒は草水を口にせず、太子の墓まで行って一度いななき、倒れ死んだ。また、太子がかって衡山より持って来た経も、その日消え失せた。 三宝絵詞
甲斐黒駒 さるべき都の苞など、由あるさまにてあり。主人の君、かくかたじけなき御送りにとて、黒駒たてまつりたまふ。
《筆註》 奈良県生駒郡斑鳩町東福寺には聖徳太子の愛馬「甲斐の黒駒」の駒塚古墳があり、飛鳥の橘寺には黒駒の像がある。
推古15年 607 8月3日
飾馬七十五匹 唐の客人は都(飛鳥)に入った。この日、飾り馬七十五匹を遣わして、云々
推古17年 609 10月8日
この日、額田部連比羅夫に命じて新羅の客を迎えるための飾り馬の長として膳臣大伴□仁邦の客を迎えるための飾り馬の長とし
て阿斗の川辺に休ませた。
推古20年 612 1月7日
天皇の歌 真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば日向の駒 太刀ならば呉の真刀 諾しかも蘇我の子らを大君の使はすらしき
皇極1年 642 4月
賜良馬 蘇我大臣於畝傍家喚百済翹岐等 親對語話。賜良馬一疋。
蘇我蝦夷は百済の翹岐らを呼び、良馬一匹と鉄二十■を賜る。
7月12日 雨乞い儀 牛や馬を殺し、それを供えて諸社の神々に祈る。
皇極3年 644 6月
大伴馬飼連 大伴馬飼連が百合の花を献上した。
考徳1年 645 8月5日
東国国司の発遣 国造と郡領とだけは従わせてよい。公用でゆききするときに限り、管内の飯を食べることができる。
考徳2年 646 1月
宣布 およそ官馬は、中級の馬ならば一百戸ごとに一匹のわりでたてまつらせる。細馬(良馬)ならば、二百戸ごとに一匹をたてまつらせる。その馬を買う値として、一戸につき布一丈二尺をさし出させる。
考徳2年 646 3月22日
薄葬令 薄葬令と旧俗の廃止 また、京に向かう百姓で、乗った馬が疲労して歩けなくなることを心配し、参河・尾張両国の 人に布二尋・麻二束を渡して雇い、馬を飼ってもらうこととして上京する者がある。帰郷するときにはさらに鍬を一口渡すことになっている。ところが参河の人々は、馬を飼うことができず、かえって痩せさせ、死なせてしまう。また預かった馬が良馬であるとそれを返すのを惜しみ、たくみにいつわりの言葉をならべて、盗まれてしまった言ったりする。その馬が牝馬で、家に預かっているうちに子を孕んだときには、祓除を要求し、結局その馬を奪ってしまう。(略)京に通う道にあたる国々で馬を養ってもらう場合には、雇われた人をつれて行き、村首にはっきり知らせて、そこで報酬を雇われた人に渡せ。帰郷の折にはらに報酬を与える必要はない。もし馬を弱らせたり、死なせたりした場合には、雇われた人はものを得てはならない。もしこの詔に違反したら、重い罪を科すであろう。
白雉4年 653 日本馬政史 記紀歌集講義
孝徳天皇御製 木つけ吾が畜ふ駒は牽出せず吾が畜ふ駒は人見つらんか
《註》…馬塞棒を構えて逃げ出さぬようにして自分の畜ふて置く駒は外へも牽出する事もないのに、何時の間にか人に見つけらて連れていかれてしまった。木=カナキ とは熟木の轉化で「マセ」棒のことである。
鉗着け吾が飼ふ駒は引出せず吾が飼ふ駒を人見つらむか
《註》…逃げないように鉗をつけて私が飼っていた馬はどうしたのだろう。うまやから引き出しもせずに私が大事に飼っていた馬を、どうして他人が見たのだろう。
原文…舸娜紀都該阿我柯賦古麻播比枳世儒阿我柯賦古麻乎比騰瀰都羅武箇
天智1年 662 4月
鼠の子 鼠が馬の尾に子を産んだ。云々
天智7年 668 月日不詳
放牧 于時近江国講レ武、又多置牧而放場。近江国で武術訓練をして、牧を作って馬を放牧する。
天智10年 67112月11日
天皇崩御 三日に天皇、近江宮で崩御した。十一日に、新宮で殯をした。
赤駒のい行き憚る真葛原何の伝言直にし良けむ
天武1年 672 6月24日
天皇乗馬 この日、天皇は出発して、東国にお入りになった。急なことで乗物もなく、徒歩でお出かけになったが、程なく犬養連大伴の乗馬に出会ったので、これにお乗りなった。皇后は、輿に乗せてお従わせになった。津振川に着く頃、やっと天皇の乗馬が追いついたので、これにお乗りなった。(略)大伴連馬来田(略)追いついた。(略)屯田司の舎人、土師連馬手が天皇の従者の食事を奉った。
馬五十匹 湯沐の米を運ぶ伊勢国の馬五十匹と莵田郡家の前で出会ったので、米を捨てさせ、徒歩の者をそれに乗らせた。云々
天武1年 672 6月22日
村国連男依らに詔して、美濃国安八麿郡の兵を差発することを禁じる。
天武1年 672 6月24日
大海人皇子 東国に入る。
天武1年 672 7月2日
紀臣阿閑麻呂らに数万の兵を率いさせ、伊勢の大山より倭に向かわせた。
7月4日
近江方に破れた吹負は、僅か一人二人の騎馬兵を連れて遁走す。吹負は散り散りになった兵士を召集した。(略)来目という名の勇士があり、刀を抜いて馬を駆り、まっしぐらに、敵陣に突入した。騎兵がすぎこれに続き、遁走する近江の軍を追って、多くの兵士を斬った。一方この日、三輪君高市麻呂と置始連菟とは三本の道路のうち上道の守りにあたり、箸陵のほとりで戦って近江軍を大破し、勝ちに乗じて鯨の軍の背後を切断した。このため鯨の軍は散り散りとなって逃走しし、多くの部下が殺された。鯨は白馬に乗って逃げたが、馬が泥田に落ち込み動けなくなった。
甲斐の勇者 これを見た将軍吹負は甲斐の勇者に、「あの白馬に乗っているのは廬井鯨だ。急いで追って射よ」と命じた。甲斐の勇者は、馬を馳せて鯨を追ったが、今にも鯨に追いつこうとしたとき、鯨が激しく馬に鞭をあてたので、馬は泥から抜け出し、駆けて免れることができた。
7月7日
村国連男依 近江の軍と息長の横河で戦い破る。
7月23日
村国連男依等、近江の将犬養五十君等を粟津市で斬る。
大友皇子 逃げ場を失い、山前で自殺する。
新宮 この年、宮室を岡本宮の南に造る。飛鳥浄御原宮という。
天武4年 675 8月2日
大解除 四方に大解除を行なうこととする。その供物は、馬一匹・布一常とする。云々
天武8年 679 8月
詔 乗馬のほかに、さらに良馬を用意し、召しあがったときはすぐに差し出すように。初瀬からのお帰りになる日、かねて群卿の用意した良馬を迹見駅家の路上で御覧になり、それをみな駆けさせた。
10月17日
馬・騾馬 新羅が阿金項那と沙薩累生とを遣わし朝貢した。調ぎ物は、金・銀・鉄・鼎・錦・絹・布・皮・馬・狗・騾馬・駱駝など。
天武9年 680 9月9日
騎射 朝嬬にお出ましになり、大山以下の者の馬を長柄の森で御覧になって、馬的を射させた。
天武10年 681 10月25日
乗馬検閲 (略)親王以下、及び群卿は、みな軽市で、装いを凝らした乗馬を検閲した。小錦以上の大夫は、みな木の下に座を連ね、大山以下の者はみな馬に乗って、そろって大路にそって南から北へ行進した。
天武12年 683 9月2日
倭馬飼造 倭馬飼造・河内馬飼造らに姓を賜って連といった。
10月5日
沙羅羅馬飼造、沙羅羅馬飼造・菟野馬飼造らに姓を賜る。
天武13年 684 4月5日
兵馬の修錬 文武官に兵馬の修錬をさせる。
天武14年 685 5月26日
馬二匹献上 新羅王が馬二匹など献上。
12月12日
直広肆巨勢 直広肆巨勢朝臣馬飼等に畿内の役を任じた。
朱鳥1年 686 9月29日
馬飼部造(略)倭・河内の馬飼部造がそれぞれ誅した。河内馬飼部造・倭馬飼部造。