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北巨摩地方を襲った天保一揆 その時白州町内では

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北巨摩地方を襲った天保一揆
道中筋と天保騒動(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社)
 竹川義徳道中講師は道中筋と関係深い天保騒動について次のように説明した。
 
 天保七年(一八三六)八月二十一日食糧難打開のため蜂起した郡内一揆は、甲州街道を東から西に押しよせ、甲府以西は時には脇道にそれたが、大体今回の夏草甲州西道中を本筋として、台風のように荒らしまわり甲信国境に到って大詰めとなった。甲府をあらしたあと、八月二十三日夕刻竜王に乱入し、さんざんあばれた上、赤坂を上り志田、宇津谷で暴威をふるい、韮崎宿では放り出し、掠奪、暴行のかぎりをつくし、それより一路武川筋に向かうはずであったが進路をかえて逸見筋に入った。
 北巨摩郡誌によると、韮崎宿の名主兵左衛門と玉屋五兵衛が、武川筋は出水で交通が途絶えていると聞き、道を違えて逸見筋に案内したとあるが、上円井村歌田隼人正常という人の所蔵であった「甲斐国天保騒動見聞録」には洪水のため穴山橋が落ちたため一揆がそれて武川筋のうち上、下三吹村以南甘利郷までの村々が災害を免れたと書いてある。
 いずれにしてもわざわい変じて福となったわけである。逸見筋にそれた暴徒は道々無法者が加わって下条・駒井・中条・大豆生田・若神子をあらし、下黒沢・穴山・長坂を押し通り、片風から釜無川を越えて台ケ原に進撃し、白須・鳥原・松原から上下教来石に殺到し、山口の関所を突破して大武川までなだれこんだ。
 この時の一揆の頭取は西河内江尻窪村(中富町)源八の倅大工職周吉であった。周吉は、はじめは頭取の指揮に従っていたが郡内の頭取たちが引きあげたあと、頭取からもらった茶羽織を着、赤い打ち紐を襷にし、長脇差を帯び、村々から狩り出した人足に罵龍をかつがせ、それに乗って頭取気取りで一揆を指揮した。(甲州騒立一件裁許状)
 国境に達した一揆は、諏訪の高島城市か援兵をくり出したため大八田河原に追われ鉄砲の乱射を受けて総崩れとなった。裁許状によると、周吉は捕えられ「石和宿にて磔」となっている。五日間にわたる一揆の暴動は二十五日遂に鎮定された。云々
 
天保一揆(天保騒動)について、『天保甲州郡内騒動の諸断面』の研究書がある。その中で白州町についての記述が見える。
 巨摩郡横手村の浪人横手彦左衛門(代々名主・町百姓)は天保七年十月に甲府代官所へ「甲州村々徒党及び乱暴候節防方致手配候始末申上候書付」
を差し出している。それによると横手村は甲州街道より二十町南に有る村で、八月二十三日に台ケ原宿に人足に出ていた者が、暮六時に帰村して、騒動が石和辺及んだ噂を伝えた。遠見の者二人が夜五半時に甲府や韮崎の状況をもたらした。巨摩郡の村々では遠見の者を出していたらしい。彼等の中には途中一揆に巻き込まれて参加し、後に処罰を受けている者が『甲騒落去』に見えている。
横手村では七時に村役人惣百姓が名主宅に集まって「剛毅の者四拾人、猟師七人、猪鹿威鉄砲七丁」と村内にある先祖所持ちで今では一丁宛て預けてある鉄砲二十五に玉薬や兵具を用意し、人数五十人の竹槍を拾人宛て村役人に差添え、他の者は棒を持ち、松明、夫食を用意する。横手彦左衛門は差働之者拾人と共に台ケ原宿名主の処へ行く。二十四日昼八時に一揆が台ケ原に押し寄せ「私並びに召し連れ候者、及び同宿役人孫右衛門一同徒党人差留」めたが乱入され、「何れ差押し可申と手配」中に、徒党は横手・大坊新田・柳沢村に向かったので、彼らも村に帰ったとしているが、この陳述は少し問題がある。『甲騒落去』によると、台ケ原宿名主は酒食用意、加勢人足馬駕籠を提供し、その為に処罰されているからである。恐らく彼らにしても多少の働きはしても、転進(逃げる)したのが真相であろう。この際差働之者が依田家の手助人と性格的にどうかは不明である。村に帰った横手彦左衛門は柳沢村の浪人駒井甚蔵と連絡を取り、村では四手に布陣したので、夜九時には一揆は「声立松明並び紙幟等建他多人数」で押し寄せたが引き返した。二十五日には村の固めを解いたが、台ケ原や白須では早鐘のため六十人を引き連れて行った。その後逸見筋の中丸村(長坂町)付近で打毀しが始まったので、横手村人足四十余人、鉄砲十五丁を以って出かけたが、遠くで見ていたと思われる。
 
ここに騒動を記した書があるので紹介する。書名は不詳。
(前略)
 賊は大豆生田(まみょうだ)へ案内いたすべしと申し付け、嫌とあれば火をかけ、焼きはらんと脅しける故に、是非なく道まで案内して逃げ帰る。大豆生田村茂兵衛えを打毀し御服物残らず焼き捨てければ、それより酒造家和蔵酒食にて無事助かり、日野春村亀之丞を壊し道具類並びに衣類らを焼き捨て、片颪村(現白州町花水)へ押し行、三四軒打毀し、片颪橋を渡り台ケ原へ出で紙屋市兵衛を打毀し大塚屋にかからんとぞ仕りければ、近郊の鉄砲撃ちなど頼み用意したれども、多数の事ゆえ、なかなか手出しもならず、見合いたる処、二軒打毀し鬨の声を押し来るその有様、山林に響き渡り恐ろしき事例えかたなし、酒造家伊兵衛、なにとぞ手段にて助からん隣家の者へ掛け合いつけ、炊き出しにても何様の望み成りとも仰せ付けられて、打毀し用捨てくれ候ように申し入れければ、予て徒党共仲間に欲しんのものありて、上の村利兵衛方の掛け合い耳に聞き入れ、扱にて我一人金子を着服せんと、双方を肴の酒食の上望みあり、承知有れば助け遣わさんと申しければ、伊兵衛畏まり候と早々炊き出し用いしけり、叱る処に追い追い一揆ども来たり、何故毀さんと申しければ、掛け合いに及び酒食の外望み承知有り、それ故暫く用捨てするなりと惣勢を押し静め、かの者参り伊兵衛に掛け合いせんと申しければ、皮羽織着たる大将分申すようあの身上ぶりにては、炊き出しくらいにては了解ならず、米二百俵金子も右に順じて出すならば了解致すべしと申し遣わしける。伊兵衛も是非もなくその趣承知して炊出し酒もい出し機嫌とりける所に、また申し遣わしけるは、承知印形組合名主連盟にて頭取方へ遣わすべしと申しけるゆえに、伊兵衛大いに当惑して御好みの二百俵直ちに差し上げ候ゆえ、印証の儀は御用捨に預かり申したしと答えければ、いやいや我々ども二百俵の米郡内へも持ち行くはあらず、当村にて困窮立ち行かざる者共へ差し遣わすなり、それ故書付入用なりと申しければ、名主の印形まで用意ならざる事なれば、伊兵衛申す様は村内の者へ遣す事人別にて割賦致し遣わし候間、私が間違いなく御心づき申し聞候間左様御承知下され候えど詫びけれども、頭分伏せうちにて得心なく書付けなく引くならば打毀さんと申し来たりける故に、しばらくお控え下され、組合共相談仕り候内と申し遣わし、酒を持ち運びて、宥め置き所へ、かの先に掛け合いに来る者、伊兵衛方え参り内々にて申しけるは、我等宜しく計らい申すべしと申しける故、米代も相済み事なら百両にては扱いたきものと、金子にて御了簡なされ下され候えば、差し出し申すなりと申しける。組合の者不承知なれども、打毀されては百も二百もでは中々済む事ではなく、先々百両で相済むならば頼みたきものとかの者へ掛け合えば、悪者申す様は、それがし駒井上野利兵衛もいよいよ得心にて百両遣わしける。その所へかの徒党ども待ち久しく大勢の仲間勝鬨の声を押し上げ押し来れば、かの者は表え飛び出し庭に干してある六尺桶へ駆け上がり、是ゝこの家を壊すべからず、我等呑み込み証文取りたり、打毀し無用無用と手を上げ留まると雖も多勢の群れる事ゆえ中々止まらず、自分の刀を抜き両刀にて振り廻し振り廻し、これこれここは壊す事ならぬと彼刀を霧消に振り、一人にして気を揉み焦りけりれば、総勢申しけるは己刀振り回す事何事なるぞと咎めければ、両刀投げ捨て手を挙げて我らが承知引き請けたりと胸を叩き、手を摺りて待った待ったと押しとめる。懐中にあり合う鼻紙を出し、伊兵衛が書付名主組合まで印形ある書付此処に有るぞと、高々と振り廻し下れ下れと申しければ、徒党共皆引き退き白須の方へ押し行けるとなり、さればこそ伊兵衛宅は別条なく逃れける。彼もの時の気転に白紙証文を振り廻し双方退けし事、是夢物語の中山卿御論紙を真似して百両の金只一人にて着服せり、あえて一揆どもは白須村へ押入れ所々乱暴為し、頭分は駕籠に乗り人足に舁せ、外の者帯刀家々の座敷まで土足にて打ち通り、金子又は拵え良き脇差など掠め取り暴れ歩き、作右衛門・右衛門・利兵衛・惣助・庄右衛門・次郎右衛門・半右衛門、これ等の者共土蔵共壊し立ち去る。それより教来石村へ押し行き、当所の河西六郎兵衛と云う者、江戸深川木場に於いて出店ありて、材木問屋にて数年相談、甲州より往古仕入銀を遣わし置ける故に今もって江戸より小遣い銀送りければ、それにて家内は甚だ富家に暮らしぶげん(?)の数に入りたる冨家なり、江戸に於いても天満屋六郎兵衛と云い、東国に於いては教来石村の九郎九郎と謂る何故に九郎ぞと謂る。同村八郎右衛門宅を打毀し、教来石村へ向かい酒屋兵左衛門宅を打毀し山口関所へかかる。この関所巨摩郡堺にて蔦木えの通り筋也。この御関所も打ち破り押し通りける、その有様破竹の如く蔦木の宿へ出る、この村は諏訪の領分とて少しも厭わずして扇屋といえる旅籠や相応なる身の上なれば焚き出しさせ、甲州堺に大武川に討ち入り、重左衛門・清内酒造家なれば打毀し、同村灰石焼き相場往なす岩右衛門の宅を打毀しける。抑々徒党どもはそれより元来たりし道を蔦木へ出、扇屋にて夜食を支度させ小淵沢へ越え行く。(以下略)
 
 
のい身上振りにては炊出し位にては
 
 
 
 
天保騒動と高根町域
 
『高根町誌』第四編 町の歴史 第六節 幕末の動向 一部加筆
 
天保騒動とは
  天保騒動とは、天保四年以来うち続く飢饉によって食糧の高騰に悩む郡内領の農民が米商人を襲ったのに端を発して、甲州全域を無政府状態に陥れた農民暴動である。
  天保七年(一入三六)八月十七日、都留郡上谷村(都留市上谷)の米穀商襲撃から始まった事件は、甲州街道沿い二二力村の農民約二、〇〇〇人が行動を起こすに及んで本格化した。 
 はじめ彼らは下和田村の武七、犬目宿の兵助を頭取にいただき、一五力条からなる行動綱領を定めて、統制のある行動を誓約していたが、同月二十一日未明、笹子峠を越えて国中に入ると本格的な打ちこわしに転じ、同二十二日山梨郡熊野堂村(現春日居町)の豪商奥右衛門を襲撃する時にはその数、万余に及び、完全なる暴徒と化した。これを鎮圧すべき甲府勤番支配や三部代官所も全くなす術を失い、甲斐国内は混乱の坩堝(るつぼ)と化した。結局、信州諏訪藩と駿州沼津藩へ出兵を要請し、諏訪藩兵と御嶽山神主の出動によって二十六日朝漸く事件は鎮圧された。
 
 天保騒動と高根町域
  天保騒動はこの高根町域とどのような関わりをもったであろうか。
  事件後の同年十月二十九日、甲府代官所からのお尋ねに対して五町田・大八田両村の村役人が連名で事件の顛末を報告した文書が、五町田区有文書の中に保存されている。以下その文書によってその大要を述べる。
 
前略、村方には徒党のものが押来る風聞があったり、代官所から御出役が見えるとの廻状があったので、早速村中の男十五歳以上六十歳以下の者残らず名主の許に集め、鉄抱・竹槍・六尺棒など多数用意し、村役人・百姓代その他おもだった人足たちに心構えなど申し聞かせ、夫々手配する一方、遠見の者を出して偵察させたところ、暴徒は二十四日昼八ツ時(午後二時頃)若神子村から原路を台ケ原へ押し出し、白須、教来石、大武川辺で乱暴をはたらき、それから辺見小淵沢へ上り、その夜八ツ時ごろ(午前二時頃)上笹 尾、中丸、長坂上条辺で人家を打ち毀した由、報告があった。
そこで、村々の人足五〇〇人余のうち、一〇〇名ばかりを名主の家へ詰めさせ、あとの四〇〇人余りに村役人が附添い、準備した竹槍、棒等を銘々もたせて村の西南の方に控えていたところ、二十五日の払暁頃、暴徒の先手約二〇〇人ばかりが押来り種々難題を申しかけてきたので、村役人が申しなだめたところ漸く隣村の五町田村へ向い、人家を打ち毀しているところへ代官所の役人が出動して召捕えた。ところが暴徒の後勢の者ども約五〇〇人がまたまた当村(大八田村)へ押し来った。直ちに五町田村の代官所役人に注進したところ、村々の役人並びに人足どもを引き連れて、当村の馬頭林という所へやってきた。
御出役の指図に従って村人足五〇〇人を西南北の三手に分け、それぞれ竹槍、棒、鉄砲を持たせ、山陰に控えさしていたところ、間もなく暴徒たちは藤塚山坂辺から旗を建て、鉢や太鼓を打ち鳴らし鉄抱を打ち、頭取らしき者は馬または駕籠にのって多勢のものに警固させ耕地の中程にやってきた。
村東の林の中に控えていた御出役の一隊、方々に控えていた多勢の人足たちが四方から取囲み鉄抱をうちかけたところ、暴徒たちは驚いて稲田の中を逃げまどうところを一同近寄って二十五日昼九ツ時(正午)までに残らず召捕えた。一人鉄砲の玉をうけて死亡した者がいたが、検分の上死骸その他は残らず翌二十六日に御陣屋へ収容した。
     (『騒動始末御尋につき申上書』 五町田区有文書)
以上が報告書の大要であるが、これによってみれば若神子村から原路を経て台ケ原に出、甲州道中を北上した暴徒は大武川まで至ったところで、諏訪藩兵出動の報に接して急遽方向を転じて小淵沢に上り、上笹尾、中丸、長坂上条、大八田から本町の五町田を侵したことがわかる。なお、暴徒が若神子村に達した時、近村には暴徒に加盟した者もあったと伝えられている。
 
天保騒動
  小池村(現高根町)の名主長左衛門は、天保九年に後世の為に次のように書き留めている。
(前略)熊野堂村輿右衛門、江曽原村字右衛門両家打潰候より盗賊ども入込一国中乱妨に相成、辺見大八田村、五町田村両地内にて井上十左衛門手代喜多村運平、三枝寛五郎両人出張いたし村々名主・長百姓・人足召連れ鉄砲竹鎗等持参、八月二十五日四ツ時(午前十時)大八田村清光寺(現長坂町)前にて乱暴人どもことごとく打殺し又は召捕供人数凡千人余なり。江戸表より御留役金井伊太夫殿、日下部七之助殿両人御越なされ、石和御役所において御吟味のうえ夫々口書相究り、十一月二十八日御引払に相成、翌々年戊五月十一日御下知仰せ渡され乱暴人残らず牢死、相州無宿壱人はりつけ(磔)になり、小田川村名主与次兵衛、若神子村名主藤左衛門、嘉助、穴平村名主新蔵、市郎右衛門、下黒沢村名主九郎兵衛、七兵衛、右七人所払に仰せ付けられ、其外村名主ども五貫文又は三貫文過料仰せ付けられ、村々へ高百石につき弐貫文づつ過料仰せ付けられ相済み申候。誠に前代未聞の大凶作にて人餓死する事少なからず。
 
 暴徒が村に押し入ると、これに対抗する手段がないので、村役人はその言うままになったのであろうが、これを罰するのはやや行き過ぎのような気もするが、暴徒のご機嫌をとりすぎた名主は所払いとなった。
 
(『高根町誌五町田編』「天保七年騒動始末御尋につき申上書」参照)
天保騒動あるいは郡内騒動と呼ぶ一揆は、このころ各地に起こった一揆のうちでも代表的な規模のもので、徳川政権に大きな衝撃を与え、幕府衰退の兆しを告げるものであった。幕府はこの一揆によって治安体制の改革を打ち出してくる。一揆鎮圧後に甲斐国内の村々に組合連合による警備体制をとらせた。村山北割村の「騒動一件御触渡井組合儀定書」によると、
「徒党を組んで村々へ乱入して人家を打ちこわし、あるいは焼払い、鉄砲を打ちかけ抜刀して多勢で押し込む強盗どもは順次捕えたけれども、なお残党が村へ押入ったときは四、五力村ずつ連絡をとって、村役人の差図によって村中の十五歳以上六十歳以下の男は出動して、これらを捕えよ、もし手に余った時は疵つけてもよいし、打ち殺しても止むを得ない」
という御触れがあった。そこで近村と相談して、村山北割村、同乗割村、蔵原村、箕輪村、箕輪新町、堤村の六カ村が申し合せて共同防衛体制をとった。六力村が取り極めた内容は次のようである。
 
其村にて早鐘を打候はゞ迅速六ケ村一同駈附搦め捕可申候、若又手に余り搦め捕兼候はゞ疵附打殺可申供、尤大騒動と相見供はゞ組合議定の通六ケ村にて早鐘、大鼓打候はゞ月番へ馳附是又相談の上取斗可申候、且又怪敷(あやしき)躰の者見附候はゞ直様(すぐさま)搦め捕月番へ差出六ケ村相談の上御役所へ差出可申候。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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