甲斐源氏 源義光
資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第一節甲斐源氏の勃興と谷戸城他一部加筆。
義光は、はじめ左兵衛尉に任ぜられ、のちに刑部丞、常陸介、甲斐守を経て刑部少輔.従五位上に至り、大治二年(一二一七)十月二十日、七一歳で没した。一説には同年八三歳の高齢で没したともあり、これで逆算すると寛徳二年(一〇四五)後冷泉天皇践柞の年の出生となるが、このあたりは定かではない。義光の墳墓は近江霞・天台寺門派の総本山、長等山園域寺の北方、新羅善神杜手前に土饅頭式の立派な墓があり、「先甲院殿峻徳尊了大居士」と諡されている。この義光が左兵衛尉のとき「後三年の役」が起こり、兄義家が清原武衡・家衡を相手に苦戦していることを知るや、官奏して東下りを乞うたが許されなかったため、已む無く自ら官を辞して奥州に下り、義家を援けて乱を平定した。この功により刑部丞、やがて甲斐守に任ぜられるのである。
義光の甲斐園司受領については『尊卑分脈』や『武田系図』に、その記述のみられるところではあるが、その年次については、いま一つ確証を欠いている。これについて佐藤八郎氏は『韮崎市史』のなかで『本朝世紀』『為房卿記』などによる考証として、義光の甲斐守在任期間を「嘉保三年(一〇九六)から康和元年(一〇九九)までの一期四年間と論推されている。
義光の甲蓄守在任中の居館跡と伝えられているのは大城、またの名を「若神子城(北巨摩郡須玉町若神子)というが、義光の甲斐守叙任による甲斐国土着についての確たる史料の存在は認められない。ただ『甲斐国志』古跡部には「相伝フ新羅三郎義光ノ城蹟ナリト云フ、村西ノ山上ニ旧塁三所アリ云々」と記されているが、上野晴朗氏はその著『甲斐武田氏』のなかで、このことに触れて「若神子は上代の逸見郷一帯の中心であって、その初期はこの地方の上代の豪族逸見氏の旧領であり、ここを義光が根拠にしていたのではないかと推定される」としている。『国志』並びに『正覚寺伝』によると、同所にある曹洞宗の古刹陽谷山正覚寺は、義光の子義清が父の菩提を弔うために建立した寺と伝えており、同寺には義光の牌子を置いている。
大菩薩峠の伝説
義光の武勇にまつわる伝説は、さきの足柄山吹笙伝授のほかに、奥州への道を急ぐ義光たちが大菩薩山中で濃霧のために道にまよっていたのを白髪の老農夫が峠まで案内役をつとめてくれ、礼をのべようとしたら霧の中に源氏の旗印しである八旗の白旗のひるがえるのを見て、これぞ軍神の加護であると思わず南無八幡大菩薩と唱えた。これにより大菩薩峠と名付けられたという説話(『東山梨郡誌』)があり、さらに『口碑伝説集』には幼少時の義光が父頼義に伴われて新羅明神を参拝した際、神官が立派な御子に成長するよう祈願した折、白綾に花菱文様の織り込んだ打ち敷布を与えられたことからこの花菱紋がのちに武田家の定紋になったという伝説も伝えられている。いずれも源氏礼讃から生まれた説話であろう。