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唐土明神 武川村山高

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唐土明神 武川村山高
甲斐国志巻之六十六 一部加筆
 
【現在は幸燈宮(さちひのみや)という。】
  
唐土明神という、黒印神領二石六斗 社地方四十歩。
祉記に云う.大己貴命を祀り、新羅三郎義光を相殿とす。昔時は二祠にて大武川の河側に唐土と云う所に在り、社地方二町余漲水に流失して、今は数株の古樹を余すのみ。元亀元四年(1573)山高氏是れを西宮に移し両祠を移せしが、その黷(トク けがれ)を恐れて、文化二年(1805)併せて村上の旅所へ移し、村内の旧地は水田となし、修復となす。郎官山高氏の氏神なる由其.家系の写しを納む。其の略に云う、承久中(1219~21)石和五郎信光ノ末裔武田太郎源信方甲斐守となして本村に居る、因りて山高氏と称す、文保中(1317)新羅義光を祭る新羅の名を取りて「唐土の祠」と号すと云う。祭礼は九月中の九日前夜初更より燎火(かがりび)を焼き四更に至りて供物を献ず.其の内に鰌(どじょう)汁あり、一社も旧例なり。又村人古より鰻(うなぎ)食はずとなん。
山高氏奉納物左に記す。
正徳二年(1742)九月、山高八左衛門(校者曰く、この八左衛門の名を信賢と云い信礼の父にして、柳沢信尹の実兄なり)奉納自詠自筆。百首、同時奉納の神鏡一面、同正徳三年正月奉納「大国主ノ神像」(狩野洞元の画、願主山高兵助信知は信礼の名なり、)
享保六年(1721)七月柳沢信尹の女(校者曰く、信尹の女山高信蔵の妻り)絵馬二枚、
山高織部信蔵(校者曰く、信蔵始め織部後に八左衛門と云う 信礼の嫡子なり)奉納弓一張。
享保七年(1722)十月十八日、山高八左衛門信礼。奉文に曰く、征夷大将軍吉宗公御鷹狩之為にて供奉する時、弓箭を帯びて武蔵下総の堺隅田川に至り小舟に乗り、菱喰雁を射る為に小舟を止めた、其の時北風が激しく吹いて波が高くなってきた。是は神徳に依るにもの、信礼は命を捨てて将軍を助けた。後殿中に於いて褒美を賜り、是を納める。
享保七年(1722)十月、奉納は南京の瓶子二対、綸子の中旗八本、
享保八年(1723)三月、奉納、内陣の戸張
山高三左衛門信助(校者曰く、信助は信ノブアキ)の誤り、信は信蔵の嫡子なり。奉納錫の瓶子二対。
延享四年(1747)六月、八左衛門信蔵の奉納銅。白銅の燭台二対、

明和二年(1765)六月、三左衛門ノ尉(校者曰く、信なり。奉納麻幕陽一張、旗四旈(リュウ)唐木綿の大旗二旈、

享和二年(1802)六月、辨之丞信友(校者曰く信友は信の三男にして兄信成の養子となり、家を継ぎ義正と改名する。奉納の刀二(大は波平行安、小は長谷部国重の作)
台ケ原村神主兼帯する。
 

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