若宮八幡宮(神社)縁起と興亡
祭神 仁徳天皇・応神天皇・神功皇后の三柱
若宮白須八幡宮は、伝わるところによりますと、人皇71代後、冷泉天皇の時、甲斐源氏の祖新羅三郎源義光が任により当国に就きし際、祀官石田道麿朝臣も時の祭祀官として従い、この地に参りました。その折三柱の祭神を勧請し近隣を代表する八幡神社として、大いに信仰を深めました。
時は移り、この神社を白須八幡宮と崇め奉り、それより武田家代々や地域の武将たちの崇敬深く栄えました。
伝えに寄れば、馬場・白須両家の祖源三位頼政公の苗裔中宮小左衛門源兼綱が当国に来て白須の地に屋敷を造営しこの神社を崇拝し、その子孫も相尋ねて崇啓し、祭祀官石田民部少輔信頼まで、およそ12代まで氏神として尊みたてまつりました。
また永禄年中(1558~1570)馬場美濃守源信房、神主石田勘蔵某とともに尽力して、字宮原の旧地より、今の社地に移したてまつり、宮殿・瑞垣・神楽殿まですべてを造築し毎年3月25日、御神楽の神事を怠ることなく行い、それからまた天正10年(1582)三月織田信長の当国への乱入の折に、太守武田勝頼朝臣の家臣白須刑部少輔政義をして、御太刀ならびに御真筆の願書を献せしめ、もってその武運長久を祈り社運も高まりましたが、残念ながら武田勝頼公の武運ここに尽きました。武田家の滅亡とともに、しばらくの間この神社の神事もなくなり衰運の一途をたどりました。
その後、慶長8年(1603)3月1日東照宮神君(徳川家康)より黒印をもって3石3斗6升の寄進たまわり、一時的には栄えました。しかし、寛文の末(1670頃)には神事もほとんど行われずに神社も荒廃していたので、時の神官石田民部小輔源信頼寛が地域の人々の協力により祭祀を再開しました。
しかし貞享の末(1688)ころよりまたしても社運が傾き、住吉八幡宮に由緒ある名家や四方敬神の人々の助力をもって、神事を復興することができましたが、その後世の移り変わり激しく、明治維新の大政の革新が進み神事も衰退していきました。
明治4年(1871)に至り、由緒経歴ある当社は上知のこととなり、明治6年(1873)改めて郷社の列に加えられましたが、明治40年(1907)9月16日、不慮の火災に遭い、宮殿や拝殿・宝物は炎上してしまいすべてを失いました。
しかし地域の人々や当神社を崇敬する多くの方々の再興機運が持ち上がり、明治43年(1910)早々工事に着工し、5月には竣工式を向かえ、神霊を迎え入れることができ、大正3年(1914)神社庁に登録、改築を経て現在に至っています。
恒例の9月23日の祭典には、地域の芸能や子供の相撲大会も開かれ、また田舎廻りの芸能も訪れにぎやかな時代もありました。現在では祭日の前日22日夕方から夜にかけて子供や大人の神輿がでます。当神社の運営は白須上と白須下の氏子を中心にして地域の氏神として大切にお守りしています。
甲州巨摩郡白須村(現在白州町白須上)
この神社は現在道の駅はくしゅうの北に位置する若宮八幡神社のこと。
石田備前は神主として白州町内や小渕沢町の神社も数多く所管していた。現在の白須上公会堂周辺の広大な土地を所有していた。神社の東方に石田家の墓所があり、歴代自ら美濃守を名乗っていたことが刻されている。また当時白須家が白州町白須から吉田に移っていたことが理解できる。
鎮座末社?七拾余社
若官八幡宮井弁天社略記
右御股宇佐八幡官 中御殿若宮八幡宮 左御殿正八幡宮
右両杜勧請鎮座之儀往古ニ御座候得共、武田家御代々様御尊敬不浅、永禄四年(1561)武田晴信公御武運御長久之御祈願被仰付、其節教来石民部少輔源信房公格別成御尊敬ニ付(後馬場美濃守是也) 其御子孫白須形部少輔源政義公是又御尊敬ニ付、字宮原与申所より神主石田管蔵某ニ被仰付、當社地江被為遷朝暮、御武運御長久、御子孫御繁栄、御社参無御怠慢御祈願被為成、御寄附御奉納等度々被成下、殊更白須家以御威光天正十歳(1585・武田滅亡時)乍恐東照宮様(徳川家康)御入 国御座被為遊候節、神主石田管蔵、乍恐(おそれながら)御目見仕関ヶ原大坂両所之御陣中江も御供仕候義、信房公(馬場)政義公(白須)御威光と先祖代次申傳候、且又慶長八年(1603)卯三月朔日御乍恐従御當家様御朱印徳證文被成下置、猶又御四奉行様者被仰付、乍恐御當家様御武運御長久之御祈願奉抽丹心、富神主ニ至候而茂正月六日於松之御間御年礼乍恐御目見仕候茂、偏ニ白須家御威光与難有奉存候、猶又「金ヶ池弁天杜御敬ニ既ニ鶴郡吉町郷江為遷候事茂御座候、信房公御手植之梨子井此手柏に今神木如敬ひ小枝一本折取候ものも無之、枝葉繁茂仕候義も、白須家御武連御長久御祥瑞と奉仰候、神宝御奉納之儀を追々可申上候、以上
甲州巨摩郡白須村 若官八幡官神主 石田備前印居判
案内者 原弥五左衛門
同国都留郡 吉田村 白須市左衛門
右者若宮八幡井弁天略記被差出侯之虚、甲斐守被遂一覧、則本書を此方江被留置書面之写渡置申候、以上
白須甲斐守内
九三左衛門孝俊書判(白村下・原忠雄所蔵)
《解説》
若宮八幡官神主石田備前より都留郡吉田村白須市左衛門宛の若宮八幡官井弁天杜略記。
(略記中に)
○武田家代々尊敬浅からざりしこと。
○教来石民部少輔源信房公(後馬場美濃守是也公 子孫の白須刑部少輔源政義公御尊敬 神主石田管蔵に仰付当社地に還させしこと。
○天正十年東照宮様御入国の節神主石田管蔵御目見仕り関ヶ原・大阪両陣へ御供仕りしこと。
○其の他白須家御威光と有難く存じ奉る数々記戴。
文政12年(1829) 若宮八幡再興資料 寄付者名
白須甲斐守・白須助太郎・白須氏家臣 地域の名主 横手彦左衛門(白州町横手)
宮川伝右衛門(大坊) 北原八郎兵衛 伊平次(台ケ原) 河西九郎須(下教来石)
二宮三助(上教来石 山口番所詰) その他
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町横手)宮川伝右衛門(大坊)
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