Quantcast
Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

武川町(当時、村)中山砦発掘調査より 1984

$
0
0
イメージ 1

イメージ 2
武川町(当時、村)中山砦発掘調査より 1984
 
この調査報告書の記述内容には筆者の思い込みの個所がある。特に真衣野牧の記述などは正確な資料を持たないもので、一考を要する。
その箇所は ――で記す。
 
『甲斐国志』の記述
『甲斐国志』古跡部に「中山ノ塁」の記述がある。いわく、「三吹・台ヶ原二村ニ在リ、其ノ裏ハ横手村ナリ、北ニ尾白川、南ニ大武川ヲ帯ビタル孤山ノ嶺二四五十歩ノ塁形存セリ、半腹二「陣ヶ平」ト云フ平地、叉水汲場ト云フ処モアリ、麓ヨリ几ソ三十町許リノ阪路ナリ、三吹トハ釜無川・尾白川・大深沢川三水ノ会同スル故二名トス、台ヶ原ハ三吹ヨリ地面高シ、根古屋・古町・古屋敷・花水ナド云ウ地名アリ、又東ニ「甲斐国坂」」ト云フアリテ釜無川ノ灘へ下ル、花水橋・花水坂の隘目ハヽ古ノ公道ナレバ此ニ対セル亭候ナリ、天正壬午(10年)御対陣ノ時(徳川と北条)ハ武川衆コレヲ警固ス、「家忠日記」八月廿九日ノ条ニ、「武川ノ士、花氷坂二戦ヒ、北条ノ間者中沢某(韮崎に墓所がある)ヲ討取ル、山高宮内、柳沢兵部、首級ヲ得ル」、トアリ云々
 
と。「中山塁」の塁の字は、制限漢字なので、いまは中山砦と記すことにする。記述の内容のうち、嶺に方四十五歩の塁形がある、と見えるが、事実は25メートル×90メートル、すなわち15歩に50歩の方が正しい。そこは、けわしく傾斜しているために、到底方形の塁砦を構築することはできない。
しかし、中腹には平坦な広場があり、ここは陣地を構えたことがあり、それで陣ケ平といった。
水汲み場というのは、要砦直下の谷頭の涓滴のある場所で、勤番士の飲水の汲場である。
 天正壬午8月の北条勢と武川衆の交戦にあたり、武川衆諸士は、この中山砦の要害を遺憾なく利用して、敵勢を悩ましたことであろう。
 
地域の歴史
 
中山砦の周辺には古代、令制の真衣郷が置かれた。そこにはどれ位の集落があったのか。
 第1に考えられるのは真衣野牧の存在である。
 官牧経営の庁舎を中心に、牧吏の一住居集を成したであろう。牧原集落の起源で、現在の集落より西南の高所にあったであろう。
 第2には郷民の精神生活を支える社寺を中心とする集落がある。武田八宮の武田八幡宮武田宮地、諏訪明神の脇に起った宮脇集落、牧場の守護仏(馬頭観音)を祀った堂仏寺の集落など。
 第3に、真衣野牧の所在地には相違ないが、地域全体が牧場ではなく、大段丘で水利に便利な所には、農耕が行われ筈で、青木・武田・白須・山高などには農業集落落が発生した。
 元来、令の郷内、郷戸は50戸で成立する。
 郷戸の家族員数は、平均20入といわれる。集落とはいっても、小は3、・4郷戸、大は7、8郷戸 程度の規模ではなかったかと思われる。
 やがて、平安朝中期ごろから律令政治が弛緩を始め、国領は貴族・大社寺の荘園と化した。真衣郷もやがて真衣荘(荘園)に変質、官牧も私牧化されて、真衣野の駒牽といわれ、朝廷の収要な年中行事となっていた。毎年8月7日の真衣野牧生産の良馬献上儀も、長久3年(1042)までで、以後絶えた。『延喜式』選進の延長5年・927) から115年後であった。
 長久3年より少し前の長元2年(1029)、源頼信が甲斐守となった。頼信は忠常の乱を平定して有名であるが、在任中、逸見郷内に源家の荘園を開拓し、伝領とした。恐らく真衣野牧も源家の私牧化したであろう。
 律令制度の崩壊にもかかわらず、荘園内の集落は戸口を増し、各地也に枝部を発展させた。
 頼信の孫義光は、常陸介となって以来、常陸国に子孫を土着させようとし、長男義業を同国佐竹部に拠らせることに成功した。しかし、三男義清を武川郷に拠らせたことは、結果的には失敗で、大治2年(1127)に清光が没すると、3年後に義清の嫡男清光が濫行の廉で告発され、翌天承元年(11311)甲斐市川に配流された。
父子はやがて頼信遺領の逸見若神子へ移り、父は逸見冠者、子は逸見源太と号した。頼信らの余威はなお存し、義清父子の経営は急速に進捗した。甲斐入国の時は4歳であった消光の嫡庶二子、光長と信義が元服を迎えたころは、武川地方の真衣・武1田両荘も支配下に入っていた。 
清光は、嫡男に逸見諸荘を、二男に武田荘を譲与した。二男は武田荘に館を構え、武田太郎と号した。
 武田太郎信義は武勇絶倫の将器で、衆望を担い甲斐源氏総領となった。治承4年(1180)9月、加賀美・安田・逸見・奈胡・浅利・曽雌らの諸将を率いて平家討誠に起った。
                    -
 信義は、源頼朝に協力して信州・駿河国で平氏の軍を破ったが、赫々たる戦功を妬まれて敬遠され、嫡男一条忠頼は頼朝に謀殺された。
 わずかに信義の末男信光が頼朝の信任を得、武田総領職をつぎ甲斐守護となった。やがて忠頼の冤も晴れ一条家の再興が許された。そこで信光の匹男信長が一条氏をつぎ、その孫時信は甲斐の守護となり、一蓮寺を開基し、また多くの子を武川の真衣荘内に分封した。時信は太郎信方を山高に、次郎貞信を白頂に、六郎貞連を教来石に、八郎貞家を牧原に、十即時光を青木にというように割拠させた。その結果、一条氏の支流山高氏、白須氏、教来石氏、牧原氏、青木氏らが武川筋に興った。また青木氏から折井・柳沢氏らが分れ、後世他所から武川の地に封地を受けて土着した米倉・伊藤などの諸氏も武川衆の一員となった。        
 武川衆は、武川一条氏の支流の立場を守り、宗家武田氏と行動を共にした。南北朝の争乱にも、北朝(武家方)に属した。宗良親王が自須松原において
「かりそめの行きかひじとは聞きしかど、いさや白州のまつ人もなし」と詠じたのも、武川衆白須氏らの協力が得られない悲しみを、和歌に托したものであろう。                ’;
 室町幕府が安定した永享5年(1433)、武川衆諸氏は、さきに禅秀乱に敗死した甲斐守護、武田信満の二男信長に協力して、日一揆の拠点日之城にこもったが、敵の輪宝一揆に誘われて荒川に出撃し、大敗して柳沢・牧原・山寺の諸将を失い、打撃を受けたが、柳沢・山寺両氏は青木家から嗣を迎え再興した。
 武田信玄時賎には、永禄10年、信州下之郷明神において、武川衆のうち柳沢信勝・馬場信盈・宮脇種友・横手満俊・青木信秀・同重満・山寺昌吉ら七士は、寄親の武田六郎次郎(信豊)を通じて連署起請文を信玄に奉った。
 武田勝頼の代、武田家は滅亡の目を迎えた。
 武田氏滅亡の直前、武川衆は勝頼の特命を受けて待機していたが、中途計画が変り、活動の機を失った。織田信長に、勝頼の一族重臣の降る者は木曽義昌・穴山梅雪両人の外、すべて殺したので、武川衆はやむなく山に潜んだ。
 徳川家康は武川衆の幹部米倉忠継・山高信直・柳沢信俊らを召し抱え、遠江に潜居させた。信長が本能寺に滅びると、家康は早速米倉らに帰国して武川衆全員を動員するよう命じた。
 北条氏直も甲斐を窺い、信州から大軍を若神子に進めた。これより先、武川衆山高信直・柳沢信俊らは北条側の信州小沼砦を攻略し、新府城に陣取る家康に謁して勝利を報じた上、中山砦に陣を敷いた。北条氏直は武川衆に使者を送り、服従を勧めたが、信直らは使者を斬り、その首と氏直の書状を家康に献じ、感状を受けた。
 北条方は日野台を越えて花氷坂に兵を進め、中山砦の攻略をはかった。信直・信俊らは三吹台(中山の東、尾白川段丘)に兵を伏せて敵を破り、首と捕虜を家康に献じて賞された。
 
砦の守衛
 
中山の中腹に曹洞宗万休院がある。天然記念物の名木「万休院舞鶴のマツ」で知られる。この寺の開基は、武川衆、馬場民部右衛門尉信成である。馬場氏の所領は白須・台ケ原・教来石の内とあるが、菩提所を中山地内に開いたことで、中山を支配したことが知られる。
 また文化年間に編まれた『甲斐国古城跡志』には、中山砦とする明記はないが、
「巨摩郡白|須村ノ内、城跡壱ヶ所、但、高サ3町半、山ノ上、土手形コレ有り候、場所ノ広サ相知申サズ候、遠見、ノロシ場所ト申伝へ候。右、是ハ誰様ノ御取立共相知レ申サズ候」
とあり、これを中山砦に比定して差支えなかろう。
 
 中山の所属は、武川村と白州町に分属し、北西部の半分は白州町に、南東部の半分は武川村に所属しているから、白須村から報告が出されたのは当然である。現在、山頂の砦の部分の地籍は武川村下三吹に属するが、文化の頃は白須村の権力がより大きかったたらしい。
 中山砦を築造したのは、誰か、恐らくは白須氏か馬場氏か馬場氏であろうが、確実なところ判らない。
この山城は、亭物見すなわち望楼を備えた烽火台で、要害を兼ねた。
砦の東にある日野台も古代、烽火台の置かれた「飛火野」が転説した地名といわれる。七里岩の台上ならば蜂火台として適当であろう。
 天保12年に編まれた『系図略伝・誠忠旧家録義』という本に、「三吹村 中山友右衛門政治、中山勘解由左衛門貞政、中山城ニ住ス、古城跡
今尚存ス」とあるが、その歴史的根拠の見るべきものがない。中山という著名な山が近くにあり、これを苗字とする家数を見るに、白州町83戸、武川村63戸、小淵沢町64戸となっている。云々

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>