武川町の歴史 中山砦(白州町・武川町)を守った人
中山烽火台長 中山主衛頭義基 墓と系譜
武川町三吹にあるドライブイン奥にある、案内板と墓所(一部加筆)
中山家の祖先中山主衛頭義基は、甲斐国巨摩郡逸見筋現在の大泉村に生まれる。甲斐源氏武田家の家臣として若干十九歳より武士として戦乱の各地を転戦して数々の戦功を立てる。
特に天文十七年(1548)七月わが武田晴信、松本城小笠原長時を信濃の塩尻峠に破りし戦いはその功績抜群なりと上司より特賞を頂く。
されどどこの合戦に於いて足に三ケ所の傷を負い、歩行困難のために中山烽火陣地の台長を命ぜられる。
武田二十四将譜代の板垣駿河守、内藤修理・穴山梅雪・高坂弾正に我が上司武田騎馬隊長馬場美濃守信春(信房・白州町教来石出身)は武田五将軍として、勇将であり知将であった。
この烽火陣地は大武川、尾白川、釜無川に囲まれた断崖絶壁の要害地として、信虎公(信玄の父)天文九年五月信濃佐久軍を攻略せし年代より、天正九年三月勝頼新府城築城まで、四十年間常に一千有余の精鋭が集結出来る体制を以って、甲斐防衛の秘密陣地であった。
祖先は甲斐防衛に当たりしが、足の傷が悪化したため家臣の戦病者三十二名と共に、永禄元年(今より四百五十年前)この地、武川及び逸見郷に農として隠棲した.士族決別の折、美濃守より祖先に鷹の羽の矢違い(台長つき)、他の三十一名に「鷹の羽の矢揃いを以って家敏にせよ」と仰せられ、累代継承している.
農となりしも戦傷が良くならず、文に励み村人に書などを教え、余生を送りしが、惜しむらく四十七歳にて永眠する.
郷上甲斐の為に戦いし祖先並びにその一族の霊安を願い、第十六代祖父三右衛門より伝承、記録として残す。 合掌
中山家 第十八代 三壽
昭和四十五年春彼岸
(昭和三十四年八月の土石流災害により家屋・田畑を流失しこの地を離れる)
平成二十五年 五月 第十九代 寿文 所替(新装)
武川町(当時、村)中山砦発掘調査より 1984
『甲斐国志』の記述
『甲斐国志』古跡部に「中山ノ塁」の記述がある。いわく、「三吹・台ヶ原二村ニ在リ、其ノ裏ハ横手村ナリ、北ニ尾白川、南ニ大武川ヲ帯ビタル孤山ノ嶺二四五十歩ノ塁形存セリ、半腹二「陣ヶ平」ト云フ平地、叉水汲場ト云フ処モアリ、麓ヨリ几ソ三十町許リノ阪路ナリ、三吹トハ釜無川・尾白川・大深沢川三水ノ会同スル故二名トス、台ヶ原ハ三吹ヨリ地面高シ、根古屋・古町・古屋敷・花水ナド云ウ地名アリ、又東ニ「甲斐国坂」」ト云フアリテ釜無川ノ灘へ下ル、花水橋・花水坂の隘目ハヽ古ノ公道ナレバ此ニ対セル亭候ナリ、天正壬午(10年)御対陣ノ時(徳川と北条)ハ武川衆コレヲ警固ス、「家忠日記」八月廿九日ノ条ニ、「武川ノ士、花氷坂二戦ヒ、北条ノ間者中沢某ヲ討取ル、山高宮内、柳沢兵部、首級ヲ得ル」、トアリ云々
と。「中山塁」の塁の字は、制限漢字なので、いまは中山砦と記すことにする。記述の内容のうち、嶺に方四十五歩の塁形がある、と見えるが、事実は25メートル×90メートル、すなわち15歩に50歩の方が正しい。そこは、けわしく傾斜しているために、到底方形の塁砦を構築することはできない。しかし、中腹には平坦な広場があり、ここは陣地を構えたことがあり、それで陣ケ平といった。
水汲み場というのは、要砦直下の谷頭の涓滴のある場所で、勤番士の飲水の汲場である。
天正壬午8月の北条勢と武川衆の交戦にあたり、武川衆諸士は、この中山砦の要害を遺憾なく利用して、敵勢を悩ましたことであろう。