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武川村(町)の古代 

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武川村(町)の古代 

《「角川丹本地名大辞典」昭和59年刊より》

真衣郷。
 律令制下の当村域は巨麻郡に属し,「和名抄」に見える真衣野郷の地に比定される。大宝令によって郡郷制が敷かれると,釜無川右岸流域,甘利沢左岸流域一帯に50戸を1郷とする真衣郷が置かれたと考えられる。郷名の真衣は牧を意味し、この地域が7世紀以前,すでに牧地であったことを物語っている。

当時,甲斐は郡31郷であったが(和名抄),牧地の名をもって,ただちに郷名としたところは当郷以外になく、78世紀にかけて甲斐国においての代表的な牧馬地域であったと考えられる。

このような産馬の実績が89世紀にかけての「三代格」や10世紀初頭の「延喜式」左馬寮式甲斐御牧の諸規定を生んだと推定される。真衣郷所在の牧馬地が左馬寮により官牧の称を与えられて真衣野御牧となり、八ケ岳山麓を牧地としたと推定される柏前御牧(一説には山梨郡に比定される)と合わせて年々30疋の駒を貢上することが定められた。
当村域に牧原の地名があるところから真衣野御牧の牧地の遺称と推定されている。

《真衣野御牧の貢馬》
真衣野御牧の貢馬は,毎年7,牧監以下が付き添って真衣郷を出発し,25日をかけて近江と山城の境、逢坂関に到着して出迎えを受け,都に入る。真衣野・柏前両御牧の駒は87日に献上され,この日,天皇は武徳殿に出て庭前を牧士が牽く駒のうち、最良の馬を選びとり,次々と親王、公卿に分かち、余りを左馬寮に下げ渡した.これが「駒牽の儀」で、平安初期の主要宮廷年巾行事であったが,律令制度の衰退に伴い寛治元年(l087)頃を最後に廃絶された。なお,「吾妻鏡」建久5(1194)313日の条に「甲斐国武河御牧駒八疋」が鎌倉に参着し,源頼朝がこの駒を京都に送ったことが見えている。「国志」は現在の牧丘町に比定しているが,古代の御牧の駒牽の伝統により,武河牧を真衣野御牧の後身と考えて当村域とする説もある(古代官牧制の研究)


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