村の南東部。集落は山高とともに大武川の河成段丘上に位置する。当地域の河成段丘面は大武川氾濫原との比高40m以上。西から北は山高,東は氾濫原の水田地帯を隔てて牧原・宮脇,南西は県有林。農業・養蚕・林業を生業とし,山高とともに比高の大きい耕地の経営を行う。
村の南東部。集落は小武川左岸の、水田を南に見下ろす新奥段丘の崖下に立地。南は小武川を隔てて韮崎市,東から北・西一帯は宮脇に接する。北の宮脇地内および東西方に3か所の飛地がある。集落の南および西に近く山地が迫る。小武川氾濫原の水田地帯は常に水害の危険にさらされているが、地味は肥えて屈指の穀倉地域である。段丘上に桑畑が卓越する養蚕農村地帯でもある。
○まきはら・牧原(まきのはら)
村の東部。東は釜無川を隔てて長坂町・須玉町,南は宮脇,南西は大武川段丘を望み,西は段丘上の黒沢・山高,北は大武川旧河道を境に三吹に接する。国道20号が中央部を南北に走り、県道横手目野春停車場線が北西境をかすめる。村役場・農協・武川郵便局・武川小学校・中央公民館・武川警察官駐在所・武川診療所など,村の行政・経済・教育・交通通信などの中枢機関が集中し、商店が軒を並べ,村の中心をなす。大武川の氾濫原に立地する結果,多年にわたり激甚な水害を被ってきた。集落の形態は,旧信州往還に沿う街村であるが,近年,国道20号バイパスの開通により形成された商店街と,県道の整備により大武川旧河道に造成された三吹の新開地商店街とは,ともに近代的集落の景観を構成する。役場に接する旧村社八幡神社は社叢が森厳で,かつて真衣野牧の馬見丘に創建された古社といわれる。
○みふき・三吹(新開地を含む)〉
村の北端。北西は中山地塁山地の山裾および尾白川を隔てて白州町,北は釜無川を隔てて白州町と長坂町,北東は釜無川を越え七里岩を隔てて長坂町,西は中山を隔てて白州町,南東は大武川と新興集落の新開地を隔てて牧原,南は大武川を隔てて山高と柳沢の水田地帯に接する。国道20号が釜無川にほぼ並行する。教育福祉センター・農業センターがある。
元来,釜無川・尾白川・大武川の氾濫原を開拓した耕地を基盤とする農村で,当地の歴史は3河川の水害史でもあった。水害を受けた住民は中山山裾の高地に移り,新屋敷という新集落をつくった。当地北部の上三吹の集落形態は農村には珍しく街村型をなす。これは近世の信州往還に沿って民家が集まったとみられるが,むしろ釜無川の暴流に対する抵抗を少なくするのが主目的で,それに街道沿いの利益が一致した結果とみるべきであろう。上三吹の北端に神明神社の祠が祀られ,その南方に整然として街村が展開するのは,水害を防ぐのに最適な形態である。明治年間から第2次大戦前にかけての数十年間、上三吹には和紙製造工業が盛んに行われた。清冽例な釜無川の水と,山野に豊かに産するコウゾ・クワの靱皮繊維を原料としたもので,武川半紙と呼ばれて有名であったが、戦後の産業構造が一変した影響で衰滅した。
一方,下三吹は、大武川・釜無川の水害を避けて中山山裾に集落を形成したが、この地域は狭すぎるため,大武川対岸の下三吹分に進出し,新開地の集落をつくり上げた。下三吹には国天然記念物の万休院(曹洞宗)の舞鶴マツ(新)と,村史跡中山塁跡がある。