Quantcast
Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

北杜の歴史講座 甲斐源氏の実体

$
0
0
北杜の歴史講座甲斐源氏

 北杜市や韮崎市は旧北巨摩に属し、数多い甲斐源氏の史蹟や伝承が多く存在する。
 しかし確実な資料に裏づけされたものというと数少ないものしか確認できない。この
講座では旧説に惑わされずに確かな資料によって甲斐源氏の実体を綴ってみる。

   氏 名   和 暦   出   典
藤原公季(甲斐公)
長元 2年 10月17日 1029 故太政大臣藤原公季を甲斐に封じ、甲斐 
  に封甲斐公となし仁義公とする。正一位。
 (日本記略 後編14)

 源頼信 

安和 1年  968 
源頼信生まれる。

長元 3年  9月 2日 1030
 甲斐守源頼信及び坂東諸国司に命じて平忠常を討たせ、追討平直方を召還する。
 (日本記略 後編14)

長元 4年  2月23日 1031
 甲斐守源頼信、調庸使が流人藤原光清の使者を射殺した状を奉上する。
 (日本記略 後編14)

長元 4年  4月28日 1031
 平忠常、甲斐守源頼信に投降し、伴われて上京の途次美濃国で病没、頼信その首級を携えて入京する。(左経記)

長元 4年  6月27日 1031
 朝廷、頼信の行賞と忠常の子常昌・常近の処分のことを議する。(左経記)

長元 4年  7月 1日 1031
 頼信、忠常追討の賞として丹波守を望む。(小右記)

長元 4年 7月13日1031 
 頼信、右大臣藤原実資に物を贈る。(小右記)  

長元 5年 2月 8日1031 
 平忠常の賞により甲斐守源頼信を美濃守に任する。(類聚符宣抄 第8)

永承 1年1046 
 河内守源頼信、石清水八幡宮に告文を捧げ、祖先並びに自己の勲功を述べて、子孫の繁栄を祈る。(類聚符宣抄 第8)

永承 3年1048  源頼義没。

 源義光   

寛徳 2年1045  歿。年八十二才。 諸説あり。
天喜 4年1056  歿。年七十一才。 諸説あり。  (甲斐国志)

永保 3年1083  義光、左兵衛尉。年三十九才。  

 (奥羽戦乱と東国源氏)
 長兄の義家が後三年の役が陸奥国で苦戦、義光、援軍として上奉して暇乞をするが認められず、許可なく馳せる。
 義光、時秋に足柄山にて笙を伝授する。  
 義光、陸奥国菊田荘(いわき市内)を押領を図る(修理太夫藤原顕季の所領)
 明簿奉呈(家臣になる意思表示)をする。
 義光受領、常陸介となる。現地に赴任し、大豪族大掾家の娘を嫡男義業の妻に迎え、佐竹郷に居を構える。
 義光の勢力、佐竹郷を中心として、国内北東部一帯に定着する。
 (奥羽戦乱と東国源氏)

康和 4年 2月 3日1102 
 刑部丞源義光、馬二疋を右大臣忠実に贈る。この時義光五十八才。  
 (殿暦……忠実の子忠通の日記) (殿暦・武川村誌)

 新羅三郎。常陸・甲斐守。左衛門。刑部丞。平日住三井寺。
 義光の子義業…吉田太郎清幹の娘を娶り、佐竹冠者昌義を設ける。
 義光、義業を久慈川流域の佐竹郷に配置。
 
甲斐源氏の発祥  
 義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。
 義光、義清を那珂川北岸の武田郷に配置。

嘉承 1年 6月1106 
 源義家の子の義国と義光が常陸国で合戦。(永昌記)

大治 2年10月20日1127  
 源義光死去。(尊卑分脈・大聖寺過去帳)
義光の所領は常陸国多可郡の国境に近い菊田庄であったといわれる。
 
  (十訓抄)
…『新編相模風土記稿』巻之八十七 鎌倉郡巻之十九には次の記事が見える。
大寳寺佐竹山にあり、多福山一乗院と号す。此地に新羅三郎義光の霊廟あるが故、其法名多福院と云ふを執て山号とす云へり。されども義光の法名を多福院と云ふもの信用し難し、恐らくは訛なるべし。佐竹常陸介秀義以後敷世居住の地にて今猶当所を佐竹屋敷と字するは此故なりと云ふ。『諸家系図纂』に秀義の後裔右馬頭義盛応永六年(1399)鎌倉に多福寺を建とあり。

…多福明神社…
  新羅三郎の霊廟と云ふ、明応八年(1500)権大僧都日證一社に勧請しその法号を神号とすと伝ふ、恐らくは佐竹義盛の霊廟を義光と訛り伝ふるなるべし。云々

…鎌倉長勝寺、寺宝、寳陀観音像一体(新羅三郎義光の守本尊と云ふ)

 …鎌倉市大町大宝寺…大宝寺浦野墓地にある変形の宝篋印塔で、後裔の佐竹氏が建てたという。義光は頼義の子で新羅三郎あるいは館三郎と称し、兄義家を授けて清原武衡・家衡を討った。(歴史と旅、鎌倉興亡史)

 …大宝寺…多福山一乗院といい、承暦年間の創建で、当時は真言宗で、俗に佐竹屋敷といわれる所で後三年の役後、新羅三郎義光がここに館を構え、その後佐竹秀義が住んだと伝えられる。(歴史と旅、鎌倉興亡史)

 …常陸国を去った義光は京都に戻る。除目待つ間近江園城寺に住む。近江国義光所領の地は柏木、山村の両郷など近江国に多く見られる。
 義光は補任として甲斐守となる。その所領は加賀美郷・逸見郷・甘利郷・塩部郷・石和御厨・原小笠原郷・一宮郷・一条郷・条郷・下条郷・板垣郷・吉田郷・二宮郷・岩崎郷など。義光は嫡男義業を常陸、次男義業の次男義定を配置する。

 没年 大治2年10月 2日  1227歿。 年八十二才。
  大治2年10月20日  1227歿。 年七十一才。(甲斐国志。)

☆武田義清・源清光

 <一書>
承保 1年 1074  清光生まれる。義清、二十九才の時の子。
 没年久安5年 7月23日  1149年七十五才。
 <一書>
  清光  
※ 生年 天永  1年1110  義清、三十六才の時の子。
   没年 仁安  3年 7月8日1168  年五十九才。

康和  4年 2月3日1102 
 義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。

天永  1年 6月7日1110 
 義清の子、清光が生まれる。
      々 6月19日 
 清光が市川平塩岡の居館で生まれている  大泉村誌(?)

保安  4年1123  義清出家。  武川村誌

大治  2年  
 清光十八才。

大治  3年1128 
 清光は当時居住先の常陸国武田郷に於て嫡男光長と次男信義をもうける。  長坂町誌
  
大治  5年12月30日1130 
 源義清の子清光、濫行を以て告発される。 長秋記
  甲斐国市河庄に配流される。
  常陸国司、住人清光濫行の事などを申すなり。子細目録に見ゆ。  長秋記
  
  義清は武田冠者を名乗る(常陸武田郷)

保延  6年1140 
 清光の子、十三才元服の儀式。  長坂町誌
  小倉太郎光長…逸見庄小倉八幡宮 (この記事の出典は不明)
  武田太郎信義…武田庄武田八幡宮
 
 源義清  
久安  1年 7月23日1145  
 義清死去。  武田系図
 
久安  5年 7月23日1149 
 義清死去。  大聖寺過去帳
 
 刑部三郎甲斐守。配流甲斐国市河荘。  武田系図

保安四年(1123)
 出家。

治承  4年1180 平家物語

 平家追討に決起する諸国源氏の甲斐武将 
  逸見冠者義清・その子太郎清光()・武田太郎信義・加賀美二郎遠光・加賀美小次郎長清
 ・一条次郎忠頼・板垣三郎兼信・逸見兵衛有義・武田五郎信光・安田三郎義定

  源清光  
仁安  3年 7月8日1168  
 清光没(年59)甲州卒。天永2年生。
 
<新編常陸国誌 甲斐武田の発祥>

 茨城県那珂郡武田郷に起こる。
 新羅三郎義光の三子義清、刑部三郎と称し、はじめ那珂郡武田郷に居住し武田冠者と称し、 <佐竹系図」>義光の嗣たり…… 
 
 子清光大治五年罪あり、その父子を甲斐に配し市川庄に置く。是にて子孫永く甲斐の人たり。云々 若神子の居館で死す。  武川村誌(?)資料無。

 <(武田郷)の地名初見…和名抄>新編常陸国誌

  東西は七町、南北十八、町余ありて、久保、猫山の二組、中、原の二坪を有す。
  即和名抄、那珂郡武田の本郷にて、吉田社仁平元年(1151)文書に「吉田郡云々、
  武田荒野とあるもの是なり。中世大掾氏吉田の一族、此地に住して、武田氏となる。
  或いは云う、甲斐武田氏も亦此村より出ツ、云々

 ◇武田信義
   諸説
※生年 
大治  2年1127  義清五十三才、清光十七才の時の子。
大治  3年1128
長承  2年1133  義清五十九才、清光二十三才の時の子。
 没年 
文治  2年 3月9日1186  年五十三才。
         3月19日1186  年五十九才。

源信義  
治承  4年 9月7日1180 
 武田太郎信義、甲斐国を領す。  山槐記
 平井冠者 々  平氏方甲斐国平井冠者、被討取。  山槐記
  大太郎 々  烏帽子商人大太郎、頼朝を助け石和に百町の名田と在家三宇を与えられる。  源平盛衰記
  々 9月24日 
 武田信義らの甲斐源氏、逸見山から石和御厨へ移動する。  吾妻鏡
  
  禄高(鎌倉右大臣の時) 

  四万五千石。北条四郎時政(・ ・) 武家時代分限帳( )
  五万石。武田太郎信義(甲州の内) 々
  一万八千町逸見三郎  (山城の内) 々
  三千町一条次郎槇義(甲州の内) 々
  五千町板垣四郎高房(甲州の内) 々
  千町成田小兵衛房次( ) 々( )(足利尊氏時代) 
   五千貫武田伊豆前司信氏 々
 ?二万貫安田民部大輔仲景 々

  甲斐源氏、北条父子と駿河国に赴く。

 々10月13日 
 石和御厨をたって、若彦路の大石駅に宿泊する。  吾妻鏡
  
  武田太郎信義・次郎忠頼・兵衛尉有義・安田三郎義定・逸見冠者光長
  河内五郎義長・伊澤五郎信光

 々10月14日  甲斐源氏、武田・安田の人々神野並びに春田路をへて鉢田に入り、駿河目代軍を破る。

 々10月20日  武田信義兵略を廻らし、敵の後面を襲う所、水鳥群立てし軍勢の装いをなす。追討使軍敗走する。  平家物語
  
 々10月21日  武田信義…駿河守護、  吾妻鏡
  (治承4年1180~元暦1年1184) 日本史辞典角川書店板

 々11月5日 
 甲斐源氏、富士川西岸に布陣した追討使軍を夜襲、追討使軍戦わず退却する。  玉葉
  
養和  1年 3月7日1181 
 武田信義、御白河法皇から頼朝の追討使に任じられたいう風聞を否定し、誓書を提出する。  吾妻鏡

寿永  2年1183 
 義仲追討使として、甲斐源氏も出兵する。
  武田太郎信義・加賀美次郎遠光・一条二郎忠頼・小笠原次郎長清・井澤五郎信光
  板垣三郎兼信・逸見冠者義清(有義の誤りか)

元暦  1年1184 
 近江国粟津の戦いで甲斐源氏が活躍する。 源平盛衰記
  一条忠頼・板垣三郎兼信…先陣、七千余騎
  武田太郎信義・加賀美次郎遠光…二千余騎
  逸見四郎有義・伊澤五郎信光 三千余騎
  小笠原小次郎長清 
 
 範頼・義経群、摂津国に入り、一ノ谷に陣を構える平氏軍と対峙する。 平家物語
  武田太郎信義・加賀美次郎遠光・一条二郎忠頼・小笠原次郎長清
  井澤五郎信光・板垣三郎兼信
 
 武田信義  

文治  2年 3月9日1185 
 武田信義死去(『吾妻鏡』には建久元年十一月七日の項に、武田太郎とある)
  卒年…59才。

 ◇伊澤信景

平治  1年12月9日1159 
 井沢信景、平治の乱に源義朝の軍に加わって奮戦、負傷して帰国する。  平治物語 上
  
  甲斐の国には井澤四郎信景を始めとして宗との兵二百人、以下軍兵二千余騎云々
  井澤信景は(中略)遠江に知りたる人ありしかば、それにおちつき、傷を療治して弓うちきりて杖につき、山伝いに甲斐国井澤に落ちけり  平治物語 中
 
 《多くの所伝は石澤信光は、武田清光の子の信義の五男としているが、石澤信景の存在が気になる。信景の生年・没年は不詳であり、 正確なことはいえないが、石澤信景の家系にあった人物ともとれる。》

※『甲斐国志』

  武田清光 生年天永元年(1110)没年 仁安三年(1168) 年、五十九才。
※(長坂清光寺)生年 元永元年(1116)  没年 仁安元年(1166) 年、五十才。
《紹介、山梨県の武田氏伝説》 

  武田信義 
生年大治二年(1127)没年 文治二年(1186) 年、五十九才。清光、十七才時の子。

  逸見光長 
生年大治二年(1127)

  安田義定 
生年長承二年(1133)没年 建久五年(1194) 年、六十一才。
清光、二十三才の時の子。
  加々美遠光 
生年康治元年(1142)没年 寛喜二年(1230) 年、八十八才。
清光、三十二才の時の子。
  石和信光 
生年応保二年(1162)没年 宝治二年(1248) 年、八十七才。
信義、三十五才の時の子。
 『続群書類従』
清光、五十二才の時の子。
  小笠原長清
生年応保二年(1162)没年 仁治三年(1242) 年、八十一才。遠光、二十才の時の子。


《武田系図について》
 武田系図の内、二説を取り上げて見た。大きな違いは義清から清光の段、即ち ・ ・ の項について『綜覧』では、清光の兄弟は師光だけだが、『群書』では、清光・光長・信義・遠光・義定が兄弟となっている。
 石和五郎信光については、信義の五男とするには無理があるような気がする。『綜覧』の方が自然である。又、石和五郎信光の家系は石和信景に見られる様に信義とは別家である可能性も強い。それは行動や頼朝以下鎌倉幕府の対応の違いからも読み取れる。
 これは山梨県でも広瀬広一氏が「石和氏は、清光と系統を異にして頼信・頼義の胤にて早く国府の附近にに居り、御厨領を掠めて勃興した氏族である」との見解を示している。系図は後世の所作によるもので、系図にバラツキが見られるのは致し方ない。
 また甲斐源氏が峡北地方を中心に展開していたとの見解も一考を要する問題で、逸見氏を名乗った光長の動向が不詳であり、逸見氏の中には現在の甲府近辺に居住した者もいて、神社や仏閣それに伝説をもって判断することは危険である。文書に見える甲斐の地名は逸見山・石和御厨くらいで、その他は寺院の由緒が先行している。

 ◇安田義定
※生年 長承  2年1133  清光、二十三才の時の子。
  没年 建久  5年 8月15日1194  年六十一才。
  
養和  1年 8月12日 
 源頼朝、安田義定を討つとの風聞、京都に伝わる。  玉葉集。
  
治承  4年10月21日 
 安田義定…遠江守護  吾妻鏡。
  (治承4年1180~建久4年1193) 日本史辞典角川書店板  
寿永  2年  安田遠江守義定も義仲の負死を報告する。 吾妻鏡。

  安田義定  
建久  5年 8月  幕府軍、梶原景時甲斐に攻め込み安田軍と戦い、安田義定菩提寺放光寺で自刃。 「武田信玄の全て」  
 
 ◇一条忠頼
没年 元暦  1年1184  年不詳。
 《四月十六日改元》
寿永  3年 1月27日1184  一条次郎忠頼等飛脚参 義仲の負死を報告する。
                    着鎌倉云々  吾妻鏡
一条忠頼  
元暦  1年 6月16日1184 
 武田信義の後継者と目されていた一条忠頼、鎌倉で頼朝に謀殺される。  吾妻鏡
  
 ◇板垣兼信
 々 3月17日 
 板垣兼信、西国より使者を遣わし、土肥実平の専権を訴えるも、頼朝、退ける。  吾妻鏡
  
文治  4年 2月2日1188  板垣兼信、尾張国津島社領の所当年貢を修理大夫に不納の為、訴えられる。 吾妻鏡
  

建久  1年 7月30日1190 
 板垣兼信、違勅の罪により隠岐国への流罪に処せられる。  吾妻鏡

   々 8月19日 
 板垣兼信の所領、遠江国質侶荘の地頭職  吾妻鏡
  を解くこと約束する。

 々 9月13日  板垣兼信、配流の官符の後在京している  吾妻鏡
  との風聞が流れる。

 々 9月27日  御白河上皇、板垣兼信の配流を頼朝の上  玉葉
  洛以前に完了するように強く命ずる。
 々11月7日 
 頼朝入洛。随臣者、
  武田太郎(信義?)武田兵衛尉(有義) ・浅利冠者・奈胡蔵人・加々美次郎
  安田義資越後守・河内五郎  吾妻鏡

文治  5年 5月22日1189 
 頼朝、院宣を受けて、板垣兼信の駿河国地頭職を解く。  吾妻鏡
  
 ◇武田有義
没年 正治  2年 8月25日1200  年不詳。

治承  4年12月24日1180 
 平清盛、京にいた武田有義の妻子を殺し、門前に梟首にする。 山槐記

寿永  2年 2月5日1183  範頼・義経軍、摂津国へ入り平資盛・有盛らとの戦いに、武田兵衛尉有義・板垣三郎兼信・遠江守義定の名が見える。  吾妻鏡
  
 々 8月6日  
 武田有義ら、平家追討のため西国下向にあたり、御所で饗され、餞別として馬一疋を与えられる。  吾妻鏡
  

 々 8月8日 
 武田有義、頼朝に従い平氏追討のために鎌倉を出立する。
  吾妻鏡
  
 々10月 
 政所造営、安芸廣元を別当として(中略)甲斐四郎秋家らを寄人として吉書あり。

元暦  2年 1月26日1185  
 範頼の豊後国に上陸に際し、武田有義ら随行する。  吾妻鏡
  
   々  3年 1月3日1186 
 頼朝、鶴岡八幡宮に参詣する。武田有義、板垣兼信ら随兵として従う。  吾妻鏡
  
文治  3年 3月15日 
 武田有義、頼朝の鶴岡八幡宮での大般若供養に際し、御剣役として供養するを壓い遂電する。  吾妻鏡
  

々 5年 6月9日 
 武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。  吾妻鏡
  
々    6月9日 
 武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八  吾妻鏡

々 7月19日  浅利冠者遠義・武田兵衛尉有義  吾妻鏡
  伊澤五郎信光・加々美次郎長清
  加々美太郎長綱・加々美信濃守遠光
  安田遠江守義定
  頼朝の奥州征伐に従軍する。

建久  2年 2月4日1191 吾妻鏡

 頼朝の二所参詣の随臣、
 伊澤五郎(信光)・加々美二郎(長清)・武田兵衛尉(有義)・浅利冠者長義
  安田義資越後守・奈胡蔵人義行

建久  5年10月9日 1194
 頼朝、流鏑馬以下の弓馬の道を武田有義らの堪能の者に評議させる。  吾妻鏡
    射手、武田兵衛尉有時・小笠原次郎長清  新編相模国風土記稿

々11月21日  武田信光、鶴岡八幡宮で射手を努める。
  武田信義の名が見える。
  武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清・武田信光・加々美遠光・安田義定
  武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清・奈胡義行・安田義資

建久  6年 3月10日1195 吾妻鏡
 頼朝、東大寺供養、随臣   
  武田兵衛尉有義・小笠原次郎長清・伊澤五郎(信光)・奈胡蔵人・浅利冠者
  南部三郎・加々美三郎・河内義長。

々 5月20日 
 頼朝、四天王寺に参詣、随臣
  武田兵衛尉有義・伊澤五郎信光・奈胡蔵人義行・浅利冠者長義
  南部三郎光行・加々美二郎長清

建久  8年 3月23日 
 頼朝、信濃善光寺への参詣、
 随臣武田兵衛尉有義・伊澤五郎信光・加々美二郎長清・浅利冠者長義
 南部三郎光行  吾妻鏡
  
正治  2年 1月28日1200 
 伊澤信光、甲斐国より参上、武田有義が  吾妻鏡
  梶原景時に通じて逃亡した由を報告する。

   ◇武田五郎信光
 《石和五郎信光の行動は不可解の部分が多い。信義の家系だとすると無理が生じる。それは鎌倉幕府の頼朝以下の処遇を見ても昭か  である。一書によれば兄弟(?)への裏切りを始め 、実朝の暗殺にも関わっていたと示唆している。》
  ※生年 応保  2年1162  信義、三十五才の時の子。
   没年 宝治  2年1248  年八十七才。

寿永  2年1183  武田信光の讒言により、頼朝、木曾義仲  源平盛衰記
  攻撃の為に信濃へ出兵する。
  信光は甲斐武田の住人云々。
  信光は三郎(義光)末、頼義より又五代。
 
文治  1年10月24日1185  武田信光、勝長寿院落慶供養に際し、先 随兵として頼朝の行列に加わる。 吾妻鏡
  

  々  3年 8月15日1187  武田信光、鶴岡八幡宮の流鏑馬に射手として参加する。  吾妻鏡
  
  々  4年 1月20日1188 
 頼朝の二所詣に、武田信光・加々美次郎・奈胡蔵人。
 

6月9日  武田兵衛尉有義・武田五郎信光、鶴岡八幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。  吾妻鏡
  
  々  5年1189  幡宮どの御塔供養に、頼朝の先陣の随兵として参加する。
 信光、安芸守となる。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>