杉風の塒糜宛書簡
安政六年(一八六九)守徹白亥編の『真澄鏡』に「杉風消息」と題され、「塒糜宛芭蕉書簡」、「あかあかと」の句の自画讃とともに「同処蔵これは祖翁の遺語なり。右に倣ふて真跡の本文をあぐるのみ」と前審されて全文が紹介された。発信日の『六月朔日』は、日附けの上の欄外に「元禄八年(一六九五)ナリ」と註書きがある。
芭蕉の没した元禄七年十月十二日の一年後のもので、芭蕉が決して糜塒への信誼を晩年まで忘れなかったことを立証している。
一、翁近年申し候は、「俳諧和歌の道なればとかく直成様(すぐなるよう)にいたし候へ。尤言葉は世に申し習しかた言も申候えば、其句のすがたにより、かた言は申べし。それも、道理叶不(かないもうざず)申候かた言は無用、埒明申斗用(らちあきもうすばかりもちう)べし」。
一、「段々の句のすがた重く、利にはまり、難しく句の道理入りほかに罷り成り候えば、皆只今までの句体打ち捨て、軽く安らかに不断の言葉ばかりにて致すべし、此れを以って直成(すぐなり)と被申し候。
一、「前句へ付候事、今日初て俳諧仕候者も付申候へば、かならず前句へ付べからず。随分はなれても付物也。付様は、前句は糸程の縁を取て付けべし。前句へ並べて句間へ候へば、よし」と申置候。句の行やう段々申し置候へども、紙筆に申し上げ尽さず候。
一、「古事来歴いたすべからず。一向己の作なし」と申置候。
一、翁古法を打破申候事は恋也。「恋の句は句姿は替りても、句の心は同じ事也。恋の心に替りたる心なし。然る上は、恋の句は二句にて捨べし。若し宜き付句此れ無き時は、一句にても捨てべし。恋の句一句にて捨る事、古法に無之事は皆人のしりたる事也。見落しに成ともすべし。かならず必ず、恋の句つゞけ申事無用」と申置候。
一、古人の賀の哥、其外作法の哥に面白き事なし。山賎・田家・山家(の)景気ならでは哀深き哥なし。俳諧も其ごとし。賤(しづ)のうはさ、田家山家、景気専に仕べし。景気俳諧には多し。諸事の物に惰あり。気を付ていたすべし。不断の所にむかしより云残したる情、山々あり」と申置候。
一、翁「近年の俳諧世人しらず。古きと見へし門人どもに見様申聞せ候。
一辺見ては只軽く埒もなく不断の言葉にて古き様に見へ申べし。
二辺見申しては前句へ付様合点いき申しまじく候。
三辺見候はば、句のすがた替りたる所見へ申べし。
四辺見申侯はば、言葉古き様にて、句の新敷所見へ申べし。
五辺見侯はば、句は軽くても意味深き所見へ申べし。
六辺見申侯はば、前句へ付やう各別はなれ、只今迄の付やうは少もなき所見へ申べし。
七辺見申侯はば、前句の悪き句には付句も悪く、正直にいたし候所見へ申べし。是にて大
形合点致すべし。と申され候。
一、翁近年の俳諧合点仕り候者、江戸上方の門人の中に人数三十人ばかりも御座有べく候。其の外は前句付け、また点取りばかり仕り候えば、其の者どもには少しも伝え申されず候。惣じて江戸中・上方ともに十年先の寅の俳諧替り目のところに留まり罷り有り候。其の時よりは悪しく御座候よし、翁申され候。
一、翁申し置き候は、深志なる者は候はば、「この段為申し聞かせ候様に」と戌の年上り申す時分私に申し置き候間其の元へも申し上げ候。兼々其の元へ参り申す候えば亥の春は罷り下り秋中其処許へ参り申すべき申し置き候処に、皆夢現と成り行き申し候。此の度玉句拝吟仕り候えば、涙流し申し候。
以上
六月朔日 杉風
糜塒様 尚々白豚丈へもこの段御伝え下さるべく候。