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『談林十百韻韵』田代松意(延宝3年 1675)

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『談林十百韻韵』田代松意(延宝3年 1675)
日本俳書体系(大正15年 1926) 神田豊穂氏著 一部加筆
 
外題
 大坂で成功した宗因は飛体といって軽蔑するらしい江戸の風聞に接して、その新俳諧を理解させるため延宝二年(1674)江戸へ下って来た。その前、宗因派の八九人が鍛冶町にときどき命令して、
「此席をば我等ごときの俳諧談林とこそ申すべけれ」
といひ合せ、世間の方でも談林と呼び慣れはした同志が、宗因の下向を
「是ぞ幸ひ渡に舟と」喜んで招待し、百韻の巻頭句を望んだので、
「されば爰に談林の木あり栴の花」
と如才なく煽て、同志の雲柴は
「世俗眠をさますうぐひす」
とさっそく脇句を附けて一巻成就した。その
「次で而白きに人―登句せよ」とてそゝのかし合ひ、百韻十巻を纏めたのが即ち『談林十百韵』である。重安の『糸屑』に宗因は同年の夏、京へ向けて出立した事が見えるから、此の一座で出来た貢ら巻には助言もし、添削もしたらうが、余巻残らず捌いたのではあるかい。開板までの仕事は多分松意が引受けてやったのであらう。松意は田代氏、純江戸人ではないが、大坂に寓居した時代宗因風に心酔し、その急先鋒として江戸に来てゐたのであるらしい。十百韵以後は檀林軒とさへ改號して談林流行の主要な人物となってゐる。
 『談林十百韵』には作者の抱負がなかなかあったようで、跋に
「此連衆の内に一両年つとむる作者三四人加わる」のは事実だが、たとへ俳道に多少の未熟者が同坐するからといって、「年老の人々に敢て、をとるべ含にあらす」と傲語する風に出方が高飛車であったので反響も大きく、談林といへば、直ちに宗因風の事と頷かせるように全国的に波及したのであった。延宝二年の初校本が江戸から出て、すぐ翌年は京都の書肆寺田から別様式の根本仕立で、再校される勢ひで、団々へ似指して行った。かうした書史的方面から考察しても『談林十百』は、軽視し難い反撥力を持つてゐるので、常時の人々を激しく刺戟したであらう事は疑ひない。

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