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堂関連年表(素堂と親しい人の動向)明暦元年~寛文六年

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堂関連年表(素堂と親しい人の動向)明暦元年~
◇明暦 元年(一六五五)

北村季吟が俳諧の奥書「俳諧理木」を著す。(季吟は延宝三年、素堂を招いて、京都にて「歓迎百韻」を催す)

○山田宗偏が小笠原家の茶道指南となる。(素堂の友人 「今日庵」の掛軸を素堂に贈る)
**明暦 三年(一六五七)一月、江戸の大火。林家の文庫類焼し「本朝通鑑」焼ける。同月林羅山没七十五才 
万治 元年(一六五八)

北村季吟、立机と云う。(明暦元年鋭もある)

○幕府儒官人見竹洞(林家に於ける素堂の先輩)が京都に赴き石川文山に面会する。
◇内藤義概(風虎・素堂はここで様々な俳人に出会う。また「目に青葉」の句は、内藤家菩提寺時の光明寺裏山から詠んだ句と思われる)「御点取俳諧」をこの頃から始めたか。俳諧指南には高島玄札・石田未得・野々口立圃等が当たったか。
○十二月、千宗旦京都「今日庵」にて没す。八十一才。
**万治 三年(一六六〇)

一月、甲府の大火。柳町より魚町まで焼失する。(山口屋も焼ける)

◇風虎、父忠興に従い大坂に行く。(五月~十一月)松江重頼と接触か。
**寛文 元年(一六六一)

八月、甲府城主に徳川綱重なる。江戸に在住。

◇風虎、季吟と書簡応答で接触。
○林春斎、江戸のト祐の板行「土佐日記」に序を寄せる。
◇季吟は日記に批判を記す。(十月十一日条・季吟日記)
**寛文 二年(一六六二)

「裏見寒話」に甲府の「町々も暖簾も成し云々」の記述を著す。

編者は野田成方、享保九年、甲府勤番赴任。内容は甲斐国見聞記。

◇西山宗因、内藤風虎の重ねての招請に応じる。
**寛文 三年(一六六三)

十二月、林春斎の家塾に幕府より弘文院号が与えられる。

**寛文 四年(一六六四)

二月、宗因は江戸に風虎を訪ね、その後九州に赴く。

○十一月、幕府は国史舘を忍岡に置き、春斎に「本朝通鑑」の続修を命じる。
▼芭蕉、二十一才、松江重頼編『佐夜中山』に「松尾宗房」の名で二句入集。俳書への初入集。
○元政「扶桑隠逸伝」を刊行する。(かれは母を連れ身延山詣でに甲斐に来ている。)
**寛文 五年(一六六五)

松江重頼、秋に風虎を磐城に訪ねる。

▼芭蕉、二十二才 十一月十三日、蝉吟主催の「貞徳翁士二回忌追善百韻」に一座する。連衆は、蝉吟・季吟・正好・一笑・一以・宗房、(ただし季吟は脇句を贈ったのみ。)
◇大坂天満宮連歌所宗匠西山宗因、初めて俳諧に加点。

寛文 五年(一六六五)

三月、似船、『蘆花集』を刊行し、以後京俳壇で活躍。

一 一月、『雪千句』刊、宗因を大阪俳壇の盟主に据える。

芭蕉、蝉吟主催貞徳翁一三回忌追善百韻に一座。

『書初集』『小倉千句』『小町躍』『西国道日記』

『四十番俳諧合』『天神の法楽』『俳譜談』『都草』

『連歌新式増抄』

七月、諸大名の人廃止。この年、山鹿素行『山鹿語類』成。

寛文 六年(一六六六)

三月、西鶴、可玖『遠近集』に初入集。

九月、重徳『誹諧独吟集』刊。

重徳は、以後俳諧出版書として新風を援助。

『東帰稿』『正友千句』『名所方角抄』『夜の錦』

歿蝉吟二十五才。

三月、了意『伽婢子』刊、怪異小説流行を招来。

内藤風虎の『夜ノ錦』集成る。

●四月二十五日、蝉吟没する(二十五才)。


▼芭蕉発句 

二十三才、内藤風虎編『夜の錦』に発句四句以上入集

(『詞林金玉集』は『夜の錦』より引用)。

  年は人にとらせていつも若夷    (千宜理記)
 ・年や人にとられていつもわかゑびす (詞林金玉集)
   *号 伊州上野松尾氏

京は九万九千くんじゅの花見哉   (詞林金玉集) 

  花は賤(しづ)のめにもみえけり鬼莇(詞林金玉集)
  時雨をやもどかしがりて松の雪   (続山井)
   *号 いが上野松尾氏 宗房
 ・時雨をばもどかしがりて松の色   (詞林金玉集)
       ・この項『芭蕉俳句集』中村俊定校注 岩波文庫刊








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