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芭蕉の甲斐落ち

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……芭蕉の甲斐落ち……
引用資料『俳聖芭蕉』 野田要吉先生(野田別天楼) 昭和十九年発行
 
   天和時代の芭蕉
  《前文略》
  其角の枯尾花に芭蕉庵急火に依り、芭蕉は潮にひたり苫をかつぎて煙のうちを逃げ延び「是ぞ玉の緒のはかなぎ初也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して」と云ってみるが、芭蕉はこれより前に、俳頂禅師に参じて悟道の修行をしていたのだから。世蕉庵の焼失に遇ひて、始めて「猶火宅モの変を悟り、無所住の心を発して」といふ譯でもあるまい。しかし芭蕪庵の焼失は芭蕉に「無常迅速生死事大」の念を一層深からしめたに違いなかろう。芭蕉庵焼失を十二月廿八日の大火の時とすれば、やがて年も暮れ果てゝ佗しいうちに天和三年を迎へた事であるう。杉風、卜尺など物質的に芭蕉を援護してぬた門人達の家も多く類焼したのだろうから、芭蕉は真に身を措くに処なき思いであったろう。されば焼野の原となった江戸を逃れて、甲州落となったのである。
  芭蕉庵の甲州落
 後年のことであるが、金沢の北枝が火災に遭った見舞状の中にも、
   ……池魚の災承り、我も甲斐の山里に引うつり、さまざまの苦労いたし候へば、御難儀の程察し申候……と芭蕉がいっている。
  『枯尾華』に
  ……其次の年夏の半に、甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければ……
 といっているが、其角は芭蕉庵焼失を天和三年としているから、その次の年は貞享元年となるわけだが、これも誤りであって、芭蕉の甲州行は天和二年(?)の事である。
 成美の『随斎諧話』
  芭蕉深川の庵池魚の災いにかゝりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平というものをあるじとす。六祖は彼ものゝあだ名なり。五平かって禅法をふかく信じて、仏頂和尚に参学す。彼もの一文字だに知らず、故に人呼んで六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしと見えたり。……
 とあり、
  湖中の『略伝』には、
深川の草庵急火に、かこまれ殆あやぶかりしが(中略)その次の年佛頂和尚(江戸臨川寺住職)の奴六祖五平と云(甲州の産にして、仏頂和尚竹に仕へ大悟したるものものゝ情にて甲斐に至り、かの六祖が家に冬より翌年の夏まで遊されしとぞ……
 といひ、
一説に、甲州の郡内谷村と初雁村とに久敷足をととゞめられし事あり。初雁村の等力村萬福寺と云う寺に、翁の書れし物多くあり。
又初雁村に杉風が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後かの姉の許へ杉風より添書など持れて行れしなるべしと、云う。
 とも云っている。これ等の説悉くは信ぜられないが、芭蕉が参禅の師仏頂和尚の奴六祖五兵衛といふもの甲斐に国に居り、彼をたよりて甲斐の国に暫く杖を曳かれたといふ事は信じてよいようだ。五兵衛のことはよく分らぬが、眠に一字なきにも拘はらず、禅道の悟深かりし故六祖といふあだ名を得ていたものらしい。
  六祖はいふまでなく、慧能大鑑禅師のことで、眼に文字無かりしも、菩提本非樹、明鏡亦非臺、本来無一物、何処惹塵埃。の一偈によりて五祖弘忍禅師嗣法の大徳となった。六祖の渾名を得ていた五兵衛と同門の囚みに依って、芭蕉は甲斐の国に暫く衣食の念を救れたのであった。
甲斐の国には芭蕉門下の杉風の姉が住んでいたといふ『略伝』の説が事実とすれば、一層好都合であったろう。なほ甲斐の国は芭蕉の俳友素堂の郷国であるら、素堂が何ら後援をして、芭蕉を甲斐の国に一時安住の地を得しめたのではないかと、私は臆測を逞うするのであるが、単に臆測に止りて、之を実証するに足る文献の発見されないのは遺憾とする所である。
甲斐の国に芭蕉の居ったのは約半年位のことゝ思はれる。その間芭蕪は高山麋塒、芳賀一唱等と三吟歌仙二巻を残して桐雨の『蓑虫庵小集』に採録している。
 
    夏馬の遅行我を絵に見る心かな  芭蕉
    変手ぬるゝ瀧凋む瀧          麋塒
    蕗のに葉に酒灑の宿黴て      一唱   
    弦なき琵琶にとまる黄鳥
  洗ふ瀧の鏡などゝてはさくらは二十八計けん

 

……芭蕉の甲斐落ち……

引用資料『俳聖芭蕉』 野田要吉先生(野田別天楼) 昭和十九年発行

 

   天和時代の芭蕉

  《前文略》

  其角の枯尾花に芭蕉庵急火に依り、芭蕉は潮にひたり苫をかつぎて煙のうちを逃げ延び「是ぞ玉の緒のはかなぎ初也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して」と云ってみるが、芭蕉はこれより前に、俳頂禅師に参じて悟道の修行をしていたのだから。世蕉庵の焼失に遇ひて、始めて「猶火宅モの変を悟り、無所住の心を発して」といふ譯でもあるまい。しかし芭蕪庵の焼失は芭蕉に「無常迅速生死事大」の念を一層深からしめたに違いなかろう。芭蕉庵焼失を十二月廿八日の大火の時とすれば、やがて年も暮れ果てゝ佗しいうちに天和三年を迎へた事であるう。杉風、卜尺など物質的に芭蕉を援護してぬた門人達の家も多く類焼したのだろうから、芭蕉は真に身を措くに処なき思いであったろう。されば焼野の原となった江戸を逃れて、甲州落となったのである。

  芭蕉庵の甲州落

 後年のことであるが、金沢の北枝が火災に遭った見舞状の中にも、

   ……池魚の災承り、我も甲斐の山里に引うつり、さまざまの苦労いたし候へば、御難儀の程察し申候……と芭蕉がいっている。

  『枯尾華』に

  ……其次の年夏の半に、甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければ……

 といっているが、其角は芭蕉庵焼失を天和三年としているから、その次の年は貞享元年となるわけだが、これも誤りであって、芭蕉の甲州行は天和二年(?)の事である。

 成美の『随斎諧話』

  芭蕉深川の庵池魚の災いにかゝりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平というものをあるじとす。六祖は彼ものゝあだ名なり。五平かって禅法をふかく信じて、仏頂和尚に参学す。彼もの一文字だに知らず、故に人呼んで六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしと見えたり。……

 とあり、

  湖中の『略伝』には、

深川の草庵急火に、かこまれ殆あやぶかりしが(中略)その次の年佛頂和尚(江戸臨川寺住職)の奴六祖五平と云(甲州の産にして、仏頂和尚竹に仕へ大悟したるものものゝ情にて甲斐に至り、かの六祖が家に冬より翌年の夏まで遊されしとぞ……

 といひ、

一説に、甲州の郡内谷村と初雁村とに久敷足をととゞめられし事あり。初雁村の等力村萬福寺と云う寺に、翁の書れし物多くあり。

又初雁村に杉風が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後かの姉の許へ杉風より添書など持れて行れしなるべしと、云う。

 とも云っている。これ等の説悉くは信ぜられないが、芭蕉が参禅の師仏頂和尚の奴六祖五兵衛といふもの甲斐に国に居り、彼をたよりて甲斐の国に暫く杖を曳かれたといふ事は信じてよいようだ。五兵衛のことはよく分らぬが、眠に一字なきにも拘はらず、禅道の悟深かりし故六祖といふあだ名を得ていたものらしい。

  六祖はいふまでなく、慧能大鑑禅師のことで、眼に文字無かりしも、菩提本非樹、明鏡亦非臺、本来無一物、何処惹塵埃。の一偈によりて五祖弘忍禅師嗣法の大徳となった。六祖の渾名を得ていた五兵衛と同門の囚みに依って、芭蕉は甲斐の国に暫く衣食の念を救れたのであった。

甲斐の国には芭蕉門下の杉風の姉が住んでいたといふ『略伝』の説が事実とすれば、一層好都合であったろう。なほ甲斐の国は芭蕉の俳友素堂の郷国であるら、素堂が何ら後援をして、芭蕉を甲斐の国に一時安住の地を得しめたのではないかと、私は臆測を逞うするのであるが、単に臆測に止りて、之を実証するに足る文献の発見されないのは遺憾とする所である。

甲斐の国に芭蕉の居ったのは約半年位のことゝ思はれる。その間芭蕪は高山麋塒、芳賀一唱等と三吟歌仙二巻を残して桐雨の『蓑虫庵小集』に採録している。

 

    夏馬の遅行我を絵に見る心かな  芭蕉

    変手ぬるゝ瀧凋む瀧          麋塒

    蕗のに葉に酒灑の宿黴て      一唱   

    弦なき琵琶にとまる黄鳥

  洗ふ瀧の鏡などゝてはさくらは二十八計けん

 


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