『甲斐国志』素道
元禄八年(1695)乙亥歳素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝す。
且つ桜井政能に謁す。
前年甲戊政能擢されて御代官触頭の為め府中に在り。
政能は素堂を見て喜び、抑留して語り濁河の事に及ぶ。
嘆息して云う。
濁河は府中の汚流のあつまる所、
頻年笛吹河背高になり、
下の水道『みずみち』のふさがる故を以て、
濁河の水山梨中郡に濡滞して行かず。云々
然れども閣下(素堂)に一閲して、自ら事の由を陳べ、
可否を決すべし望み、謂う足下に此に絆されて補助あらんことを
素堂答えて云う。
人は是天地の投物なり。
可を観て則ち進む。
素より其分のみ。況んや復父母の国なり。
友人桃青(芭蕉)も前に小石川水道の為に力を尽せし事ありき。
僕謹みて承諾せり。
公のおうせにこれ勉めて宜しくと 云々
素堂は薙髪のまま双刀を挟み
再び山口官兵衛を称す。
幾程なく政能許状を帯して江戸より還る。
村民の歓び知りぬべし。
官兵衛又計算に精しければ、
是より早朝より夜遅くまで役夫をおさめて濁河を濬治
【水底を深くすることす。云々】
是に於いて生祠を蓬渾村南庄塚と云う所に建て、
桜井明神と称え山口霊神と併せ
歳時の祭祀今に至るまで怠り無く聊か洪恩に報いんと云う。